碧梧桐をを見ているとふと食べてしまいたいと思った。どんな味がするだろう。窓に肘を置いて短冊と筆をもっていつもよりずうっと穏やかな表情をしているときには、彼のちかくにはいっそう清涼でさわやかな風がふわりふわりと付き纏っていた。洋梨、あるいは八朔。碧梧桐が羽織っている上着は窓から流れ込む風でぱたぱたと揺らいでいて、それは襟ぐりも例外ではなかった。白い肌があらわになる。食べてしまいたい。碧梧桐の部屋にごろりと寝転がって天井の吊り下げられた電球に向けて手を伸ばすと、不意に碧梧桐が振り返って笑った。筆と短冊を窓枠に危ういかたちで置いて膝立ちでぐいぐいとナマエに詰め寄って上から覗き込んだ。眠いの?とまるでいとけないこどものような丸みの残った語調で話すものだからナマエは面食らってすこしかわいらしさを覚えて、くすくすと笑いつつ寝転がったままにゆるく首を振った。アルケミストに人間としての禁忌の領域に足を踏み入れたひとは少なくはないが、ナマエはそうではないうえに突然に食人趣味を覚えるような禁忌を犯した記憶もなかったから、ほんとうにこれはわたしのあさましい我欲なのだなあ、と自嘲した。
ナマエは天井の電球を掴むようにしていた手をはらりと緩めて、碧梧桐の頬に触れた。わ、と碧梧桐が身を捩ってナマエからまるで危機を察知したかのようにぴょんと逃げるものだから、ナマエはからからと笑って寝転がりながら彼の傍へ行った。簀巻き!? 碧梧桐はナマエのことをなにだと思っているのだろうか、とすこしだけ疑問に思った。伸ばしたままだった手で彼の首筋に触れた。碧梧桐は春の小花が綻んだようにぱちぱちと笑って、突然身体を低くしてナマエの横腹にとびかかった。くすくす。ほんとうはこんなにかわいいひとなのに、と思う。犬同士がじゃれ合いながらくるくるとお互いの身体を擦りつけるように肌を触れ合わせて、そうして二人で顔を見合わせてとびきりの声で笑った。窓のへりに不安定な様子で置いたままにしていた筆がついにからりと音を立てて、碧梧桐は慌てたようにぱっと立ち上がると窓の枠と水平になってしまった筆をてのひらで押し付けて抑えた。ぱたぱたと跳ねる上着を彼は鬱陶しがっている様子だったからうしろから立ち上がってそっと剥がしてみると、彼は詰まったようなくつくつという笑い声をこぼしながら風に乗せるように言葉を発した。
「ありがとう」
「!」
「ふふ、ナマエさんいっつもひとの機微がちゃんとわかるからすごいよねえ、ありがと」
「あ、うん、ふふ、こちらこそ」
その笑顔だけで、わたしはなんでもできてしまうのだ。ずるいひと。碧梧桐は上着を皺にならないようにに掛けておいてとナマエに言いつけると、くちびるに深い笑みを浮かべながらさきほどとおなじように窓の外の景色を眺めはじめた。ぱんぱんとわずかな埃を払って碧梧桐の肩越しにその先の光景を見た。ナマエはわっと歓声を上げた。碧梧桐はまるで大人を悪戯にかけたそのときだけ同じ土俵に引っ張ることができたこどものように、無垢ともいじわるとも言えない笑顔を浮かべた。夕日が庭をぱあと包んでいて、それは普段見る表情よりもずうっとあでやかな姿をしていた。湖面が橙と深い水の色と浮草の濃くゆらゆらとした緑とで混ざり合っていて、ナマエにもその様子を言い表す言葉はなかった。こういうときにそれを綺麗なことばでそのままに保存しておける才能を持っているのがここに呼ばれているひとびとなのだろうなあ、とナマエは吐き捨てた。憤りがあるわけではないのだけれども、どうしても横でくつくつと笑う碧梧桐との断絶を感じてしまっていやな気分になった。
さあ、とこちらに夕日が流れ込んだ。洋梨の味がする碧梧桐の肌にふわりと紅が乗って、ああこれはどんな味になるのだろうだろう。碧梧桐は予測のできないことにきゅっと目を細めて太陽に向かって文句を言っていた。碧梧桐はずうっと笑みを崩さなかった。この時間が楽しいのだといっぱいに表すようににこにこと笑っていて、それがとびきりかわいらしくてびっくりするほど鮮やかだった。褪せることのない鮮烈な感情はどこか不健康さと非日常を運ぶはずだというのに、碧梧桐に対してはかけらもそんな気配がなかった。あの場所を自分ごと切り取ってしまったのかと思うくらいにみずみずしくて健康で、その青写真からはかすかに風の音がした。すべらかな肌がほんとうにただただ美味しそうに見えた。ふらりと窓際から離れてうしろから碧梧桐を羽交い絞めにするようにぎゅうっと抱き締めると、碧梧桐はすこしだけ驚いて、それからとげとげしくない沈黙を作った。ナマエはかぷりと碧梧桐の首筋に噛みついた。
「う、わ、ちょ、ナマエさん」
「……洋梨の味がしない」
「そうだよー、なに期待してたのさ」
「でも、おいしいです」
「ひとを食べないでよ、もう!」
「お嫌ですか?」
わたしは吸血鬼ではないから彼の血を啜ることなどはできないのだけれど、たしかにわたしは彼に噛り付いてしまったのだ。甘い。美味しいか美味しくないかと言われたらぜったいに美味しくないと答えるほどにただただ肌でしかなかったが、ナマエはそのなかに甘美なものを見つけてしまって、むさぼるようにその傷にくちびるを落とした。碧梧桐はくすくすと笑って(たぶん周りのひとが聞いたら嘲笑に聞こえるのだろうけれど、ナマエがそういう風に聞くことなんてなくて、彼もそういう意図で笑ったわけではないのだと思う)、胴回りを囲っていたナマエの手をするりと解いた。いったんおしまいにしよう。碧梧桐はにこやかにナマエを諫めた。ナマエははっとして即座に離れてぐるぐると碧梧桐の部屋の卓袱台を軸に回っていたけれど、彼に噛り付いたことだけはなにも後悔していなかった。そもそも一般のカップルでも言うではないか、キスマークだなんだと跡をつけたがるひとびとはある程度いるのだ。けれどもナマエのそれはそういう所有欲に似たたぐいのなにかとは明確に違ったものだし、なにより碧梧桐と恋仲であるわけではないからどうしてもその論理は成立しなくなっていた。
そも、ナマエのこの乱心に近いなにかを笑って許している碧梧桐はそれだけでたいへんにずれた感性を持っているのではないかということは明らかだった。犬のようにひとつの場所をぐるぐると廻るナマエに碧梧桐は苦笑してナマエさん、と呼び掛ける。ナマエは即座にうつむいていた顔を持ち上げてどうかしたのかと双眸でぐいぐいと迫ってきて、碧梧桐は思わず気圧されたための乾いた笑いが零れた。とりあえず座ろうか、と彼はナマエを落ち着かせにかかった。突然碧梧桐のすらりとした肢体に抱き締められてナマエはひどく混乱した。やがて解放されたナマエはばくばくと高鳴る胸を抑えながら、まるで罰を待つこどものように座り込んだ。
(こういうところ、へんに純情なのはなんでなんだろうなあ)
碧梧桐は不思議そうな視線をナマエに向けて、ややあって膝を折って座り込んでいるナマエと目線を合わせた。涙の幕の向こうで、恋慕と情欲と自罰感情がぐちゃぐちゃになってどうしようもないくらいに混乱したあられもないナマエのすがたがぺたりとへたり込んでいた。ナマエにはいつまでも伏せる心積もりでいることとして、碧梧桐は一寸前に噛まれたときには当たり前のように痛かったしやめてほしいと思った。けれども止める理由もないと思ったのもまた痛みを覚えた碧梧桐とそっくりそのままおんなじ自分が思ったことで、碧梧桐は自分がなにを考えているのかさえもわからなくなった。ナマエがどういうひとなのかは碧梧桐にはわからないけれど、齧った跡はおそらくしばらくは椿が咲いたように浮かび上がったままになってしまうだろうが、錬金術師という踏み込むことすら難しい技術を持っているひとがそんなにばかではないと信じているし、それを信用できるほどにはナマエに信頼を置いていた。
あれは彼女なりの愛情表現なのかもしれない、と碧梧桐は思った。じいっと視線を合わせたままひとことも発しない碧梧桐を怖がったのかナマエの眼からはぼろぼろと涙がこぼれていたけれど、碧梧桐はそれを拭ってあげるようなことはしなかった。あれはナマエが自分に対して溜め込んだ結晶なのだと思った。欲情や恋情や自棄になるような苦痛をぜんぶ洗い流してしまったときのナマエのことを、碧梧桐ははじめて知りたいと思った。いままで涙の壁でかたくなに閉じこもっていた彼女の本性が見られるのであれば、碧梧桐は喜んで近寄った。畳に円を作っていくおのれの涙をただただ眺めていたナマエは、ざらざらとした畳のこすれる音にぴくりと身体を震わせた。碧梧桐は彼女のひとみをのぞき込む。そこには一匹の獣がいた。それが、すべての箍を取り払ったナマエのかたちだった。
「でもねえ、俺もときどきひとから美味しい味がすればいいのにー、って思うよ」
「え」
「意外?」
「はい」
「ふふ、俺はおいしいもの、だいすきだからね!」
「そっか、そういう」
「でもね、」
「?」
「おいしいものが食べれるって言って、すきなひとに噛みつけるのもいいなあ、って思うから」
そう言って彼はいままで見たことがないくらい無邪気に笑った。
丸く剥ぐ夏
いっぱい書いたやつのうちの一つ。サイト名に因んで「夏」で揃えました。
title:よふかし