司書室の扉を開くと、観音開き式の窓のへりに肘を付いて外を眺める虚子のすがたが目に入った。勤勉なひとだ、と思いながら彼に聞こえるように挨拶をする。虚子はくっと身体を伸ばして振り返って、ナマエのことに気が付いて挨拶を返した。図書館での日々に慣れてもらうために一足先にたましいを迎えていた碧梧桐と入れ替わりで、昨日から虚子にはナマエの助手として動いてもらっていた。手を振って、それから司書室に据え付けられている棚から湯呑みとティーバックを取り出す。ナマエの手元をじいっと見つめる虚子に昨日はおおまかな業務の内容を教えただけだったことを思い出して、電気ポットなどの生活用品についてひとつひとつ示して教えた。技術の進歩からか虚子はときどき瞠目することもあって、そういうときの彼の表情がなぜだか面白くなってしまって、ナマエは彼に見つからないようにくすりと笑った。
虚子に朝食まではとくにしてほしいことはない旨を伝えると、わずかな相槌とともに彼はソファに身体を沈めた。彼の前に煎茶の入った湯呑みを差し出すと、彼は無愛想な様子でそれを受け取った。換気が済んだ司書室はすこしだけひやりとしてしまって、まるで秋の情景が流れ込むようだった。手に持っていた外套を畳んで鞄とおなじ場所に置いて、それから虚子がしていたように窓枠から身を乗り出してすっかり橙に染まった庭を望んだ。ちいさな池のそばにあるベンチには碧梧桐が座ってなにかを考えているようだったから、彼の死角ぎりぎりで手を振ってみたけれど、どうにも彼は気が付かないようだった。虚子はナマエの様子をいぶかしんで同じように身を乗り出して、納得したように目を閉じた。窓辺から離れて、高い位置でまとめていた髪の紐をするりと解く。そうすると、不意に窓辺から戻るところだった虚子が声を上げた。
「おい、その右側の髪が跳ねているぞ」
「え?」
鞄に入れていた手鏡で確かめてみると、なるほどたしかに髪の一房がぴょんと外側に跳ねて飛び出していた。髪をくくっていたところに巻き込まれていたから目立たなかったのだろう、と虚子は言う。ナマエは乾いた笑いを零して、書類を書き上げるための机に向かった。椅子をすこしだけ退けて、机の足元左側に据え付けられた引き出しを手前に引いた。ナマエより上背のある虚子がナマエの身体を覆うように引き出しを覗き込んで、なんでこんなものを仕事机に置いているんだとすこしだけ馬鹿にするような声が降ってきた。虚子の小言をナマエは笑って誤魔化して、引き出しの中から櫛と髪に通す油の瓶を取り出した。額を突き合わせないようにするりと虚子の陰から抜け出て腰掛けるでもなくそのまま櫛を髪に滑らせると、背後からおおきな溜息が聞こえた。
背を掴まれて、滑車の付いた椅子を引き寄せられて、突然どんと落とすようにその椅子にナマエの身体が沈んだ。驚きから顔を見上げて虚子の瞳を覗き込むと、彼はナマエの視線を意にも介さずに櫛を奪い取ってナマエの髪を梳かしはじめた。あんな雑なまま身支度をするやつがあるか、となかば叱るようなとげとげとした声で虚子はナマエを戒めた。厳格なひとなのだなあ、と思ってナマエがくすくすと笑うと、虚子はむすくれて櫛を握る手に力を込めた。こういうところがどこか稚さの抜けない年下気質の生まれなのかもしれないと思った。
虚子とはぽつぽつと話をした。昨晩の夕飯がどうだった、子規さんに会ってどう思った、この場所にいることは苦痛ではないか。ちらりと壁掛け時計を見ても朝食の時間まではまだ遠く、ナマエが図書館に着いた時間が早かったことも相まって暇を持て余してしまうことになるかと危惧していたから、これは嬉しい誤算でもあった。虚子の手はナマエが一言余計な言葉を言わなければ素直で丁寧で、彼の思わぬたからものを見つけてしまったような気分になった。窓の向こうからぱらぱらと紅葉を散らして歩く音がしてふいと振り向いたら、手元が狂うと言うように髪を梳かしているのとは逆の手がぐいと頬骨を押し寄せた。仕方がなく眼だけを逸らしてみると、碧梧桐が窓枠からひょこりと顔を出していた。彼はまるで見てはいけないものを見てしまったように慌ててきょときょととしていて、どうにもあどけなくて締まらなかった。
「え、まって、これどーしたの?」
「何もやましいことはしていないだろう、ばか」
「いやそーだけど!そうだけどさ!」
「ふ、ふふ、ほんとになんもしてないですよ、わたしの髪が跳ねてたのを虚子さんに直してもらっただけで」
「あーー、そういうこと……?」
「お前は何を想像したんだ」
「いやなんかちょっと……予想外のひとが予想外のことをしてるからびっくりした……」
碧梧桐はくるくると表情を変えてはナマエたちの悪戯のような揶揄いを真正面から受け取ってしまっていた。それから窓枠に手をかけてそれを乗り越える要領で司書室に入ってこようとするものだから、今度は虚子が揶揄ではなくほんとうの雷を彼に落とした。ナマエはそれを叱るではなくて、転生したての身体を既に使いこなしていることにひそかに感嘆しながらくすくすと笑っていた。表からちゃんと扉をくぐって入ってきてくださいね、と声をかける。すこしだけ不貞腐れた風にはあいと答える碧梧桐の声が次第に遠のいた。虚子は嵐のようなやつだと溜息をついて、ナマエはそんな彼の様子に弾むように笑った。ナマエの癖毛はずいぶんと意地の悪いものだったらしく、だいぶ櫛がなめらかに滑るようになったころにはかなりの時間が過ぎていた。もういいだろう、と口にした虚子に感謝を伝えるナマエの声を遮って、ぱんと軽やかに扉の開く音がした。碧梧桐は悪びれもせずに部屋の中へ入ると、すべらかになったナマエの髪に感嘆を零した。
「わ、すっごい! きよー、すごいね!」
「うるさいぞ、秉」
虚子はそう言いながらもどこか誇らしげで、彼らが子規のおとうとたちであるということを再びつよく意識した。ほんとうは自分よりもずうっと月日を重ねたおおきなひとであるはずなのに、いまだけはどこかナマエとならぶような稚さをもって縮こまったように見えて、そのどこかアンバランスなかわいらしさにナマエの胸中は綻んだ。碧梧桐はさんざんに虚子を褒めちぎってから、ふと脇の仕事机に置いていた瓶に触れてふらふらと揺らしてみせた。虚子は櫛を二、三度振って絡まった髪を払い落として元あった棚に仕舞い込んでいた。ナマエさんそんなところに私物入れていいの?と碧梧桐の茶化すような跳ねた声がした。虚子は仏頂面を崩さないままに碧梧桐の手から瓶を奪い取ると、無造作に机に置いてそれを示した。
「ナマエ、この瓶はなんだ」
「あ、これはヘアオイル……ええと、髪油の一種ですね」
「なるほどな」
「へえ、ねえナマエさん、これって椿の香りとかするの?」
「残念ながら椿ではないですけれど、椿のものもありますよ」
「おんなが椿油を髪に染み込ませるのは昔からのものだからな」
「ちなみにこれはアップルティーの香り、って言われてます」
へえ、と碧梧桐はもう一度瓶を手に取った。虚子もいまばかりは咎めるでなく興味深げに見つめていたが、持ち主であるナマエの手前で無遠慮にそれを消費してしまうことははばかられるのか、ふたりとも眺めるだけにとどまっていた。ナマエはひとつ断りを入れて瓶に付いたノズルを押して、添えていたてのひらに髪油を広げた。碧梧桐のまえにもっていくと、彼はおそるおそる手で仰いで香りをみた。しばらくして、ほんとだ、とちいさく呟く声が転がった。虚子さんもいかがですか、と手を差し出したが、彼は零れるだろうと取り合ってくれないようだった。くすりと笑ったナマエはそのままてのひらで伸ばしてから髪に染み込ませて、なんどか手櫛で髪のほつれを解いた。つやがある!と歓声を上げた碧梧桐に笑いかけると、虚子もたしかに林檎のほのかな香りがする、と口にした。虚子は机に大雑把に置いていた髪紐を手にすると、そのままナマエの髪の上部を掬い取って結った。すこしだけ洒落たそれになぜだかナマエは胸が跳ねて、虚子のこの方が似合うという称賛のような自負のような声が遠く感じられた。一寸して落ち着いたナマエは、かたりと立ち上がると虚子に向かって言いそびれた礼をした。
「あらためて、ほんとにありがとうございます。びっくりするくらい丁寧だったし、自分でやるより何倍も綺麗です」
「構わん、俺が気になっていただけだ」
「なら今度、虚子さんの髪が跳ねてたときは直してあげますね」
「……俺の髪のどこが跳ねるんだ?」
虚子のその言葉に碧梧桐は腹を抱えて笑って、ナマエも眦に涙を浮かべて身体を震わせた。こつこつという時計の針の音は食堂が開く時間に差し掛かっていた。なにが面白いのかわからずにきょとんとする虚子と彼を見てより一層笑みを深くするふたりの間をすべるように風が通って、ナマエの髪を覆うように馴染んだアップルティーの香りをその風が攫うように開いたままの扉を潜り抜けて飛び出していった。
秘するべき我が恋ならば無防備な
きみの背中にくちびる寄せる
キャラ的に付けてみたかったタイトルの一つ。途中のへきさんがお気に入りです。
title:よふかし