風鈴がないと不自然だろう、とナマエは熱に浮かされた頭で考える。まだ紫陽花も蕾を付けた程度であるというのにこの日はひどく暑く、特に特に昨年の冬やこの春に顕現した刀たちはみなその暑さを持て余していた。人の身に慣れた刀たちはさほど参ってしまうこともなかったが、それにしても突然の暑さである。
 当たり前だが、夏の備えなどできてはいない。
 まだ一部で残っていた炬燵は真っ先に取り払われ、倉庫からはやや埃をかぶった扇風機がいくつも顔を出した。各々の部屋を覗けば、冷房のリモコンを探して奔走する姿がちらほらと見られるほどである。昨日の時点で春らしからぬ暑さが訪れることは予報されていたが、誰もこれほどまでとは考えていなかったらしい。
 かくいうナマエ自身も、その予測をある程度楽観視していた。額を伝う汗を拭いながら麦茶の入ったグラスに手を伸ばせば、中の氷が融けてからりと音を立てる。夏の風物詩を、どうしてこんなにも早く味わうことになったのだろうか。
 扇風機を付けているとはいえ、ほんの僅か前まで冬の装いに身を包んでいた身体はそう暑さには馴染まない。意欲がないと言わんばかりの表情を浮かべ、ぼうっと頬杖をつきながらだらだらと書類の整理をしてお茶を濁すばかりだった。
 近侍である村正は、その上背を活かして冷房器具などの異常を訴えるものたちの様子を見に行っていたはずである。そちらもそろそろ終わった頃だろうか、あるいは助力に行くべきだろうか、とナマエが動かない頭で考えていると、不意にばたばたと廊下を駆ける足音が耳に届いた。
 この暑さの中、活発に動くものはそういまい。すわ緊急事態かとナマエが重い腰を上げたのと、執務室の襖が音を立てて開くのとは同時だった。
「主! 古今、古今が」
「……地蔵?」
 息せき切って執務室に駆け込んできたのは、意外な刀だった。地蔵行平である。慌てて立ち上がったナマエを一瞥して、地蔵は古今伝授の太刀の名を何度か呼ぶと、やがて立ち眩みを起こしたかのようにふらりとその場にへたり込んだ。
 その慌ただしい様子に何事かと駆け寄れば、地蔵の白い肌は目に見えてわかるほどに上気していた。触れた肌は熱く、支えれば身体からは力が抜けている。熱にあてられたのだろうか、とナマエはあたりを付ける。
 人の身に不慣れな刀が、慣れない暑さに不調を訴えることはままあった。このナマエとて、本丸を運営するようになってからの月日はそう短くない。自分自身を落ち着かせるように、頭の片隅から蓄えた夏の知識を引っ張り出しながら、普段は近侍の座る座布団を枕替わりに地蔵を横たえる。
「大丈夫? 暑い?」
「ああ……」
「やっぱり。それ、暑さによる不調だね。ごめん、少し襟元緩めるよ」
 言いながら、セーラー服のような意匠を施した黒い上着の下に纏う白いブラウスの釦をそっと外していく。張りつめていた気が抜けたのだろうか、眉を寄せて息をする地蔵の表情は苦しげなものだった。
 それから机の上に乱雑に乗せていた手ぬぐいに水差しから水を吸わせると、地面に面した縁側でそれを絞る。散らばるように首筋にかかる地蔵の藍白の髪をそっと払うと、その手ぬぐいを首元にするりと通す。肌に触れてすぐはその冷たさにびくりと身体を揺らしていたが、やがて地蔵は心地よさげにその目をすうっと細めて微笑んだ。
 おそらく熱中症だ、とナマエは考える。人間の身体はかくも熱に弱い。熱中症であれば塩分を補給するべきだろうと塩飴の包みを差し出せば、地蔵は弱々しくかぶりを振った。
「……吾のことはいい、古今を」
 そう呟く地蔵の瞳は不安げに揺れていて、その梔子色の瞳には、古今伝授の持つ満月のような瞳が反射しているようにも見えた。古今伝授は地蔵のことを慈しみ、地蔵もまた古今伝授のことを敬愛している。
 その言葉にナマエはこくりと頷く。とはいえ地蔵も不調を訴えているのは確かである。彼の処置もしなければ、と考えつつ、ナマエはいくつかの塩飴とグラスに注いだ水を置いて立ち上がる。
 塩飴の残りの入った袋と水差しを手に抱えたその様子に、地蔵はようやっと胸を撫で下ろしたようだった。そこまでひどい人じゃない、とナマエは内心で思う。ナマエが顕現させることを選んだ以上、どういった経緯があれ彼らは本丸の一員であるのだから。
「古今も暑さで?」
「そうだな……。おそらくは、我々行平のものは暑さに弱いのだろう」
 忌々しいことに、と地蔵は小さく付け加える。その言葉を、ナマエは不謹慎ながら興味深く思う。もしも行平の刀が刀派として暑さに弱い傾向を持つのであれば、それは把握しておくべきであろう。
 考えながら、執務室の窓や縁側に向かう襖を閉め切って冷房のスイッチを入れる。自分ひとりであれば光熱費を節約するために扇風機ばかりを使えばいい話なのだが、地蔵の様子ではそれでは足りるまい。ごう、と音を立てて冷気を吐き出す四角い機械を不思議そうに見つめる地蔵に、寒くなったら上向きの矢印のボタンを押すようにと伝え、ナマエは部屋を出た。
 古今伝授と地蔵の暮らす部屋は、とかく遠い。本丸に顕現した時期が遅いためではあるのだが、こういった緊急事態に即座に連絡をすることが難しいようならば、そろそろまた居住区を増築するべきだろうか。
 早足で歩く本丸の廊下は、そこかしこから暑さに唸る声が聞こえてくる。普段の日中に比べてやや閑散としているのは、おそらく一部の刀が涼を求めて万屋にアイスなどを買いに出かけたためだろう。
 この暑さの中で動く気概を持つ刀は、それだけでまるで誉を貰ったかのように誉めそやされていた。朝はそれを愉快な様子だと一瞥していたが、もはや笑い事ではないのかもしれない。冬の間はあれほどさんざんに求めた太陽のぬくもりも、今となっては毒である。
 絡みつくような暑さにじわりと汗を浮かべた頃、不意にナマエは見慣れた藤色の髪を目に留める。彼ならば、地蔵のことを見ていてくれるだろう。駆け寄ろうとして、手元の水差しを思い出してやめる。その代わり、塩飴の入った袋を持つ手をいっぱいに掲げながら声を上げた。
「おーい、歌仙!」
 歌仙兼定はナマエの言葉に、きょとんとした表情を浮かべてゆっくりと振り返る。その首筋には汗が滲んでいて、普段は肩に掛けている上着はその腕に抱えられている。彼も暑さには逆らえないようだ。歌仙はナマエが手にした荷物を目にすると、危機感を伺わせる瞳をすうっと細めた。
 話が早い、とナマエはありがたく思う。この本丸の歌仙はいわゆる初期刀ではなかったが、そうでなくとも長くを過ごした刀であるからして、そういった人の身の抱える不調についてもある程度は慣れがあった。
「おや主、誰かが暑さで身体を壊したのかい?」
「うん、古今と地蔵が、――行平の刀がだめらしい」
 その言葉に、歌仙はぱっと瞠目した。自分にとって古馴染みである刀の名前が挙がったからか、彼の瞳に案じるような色が乗る。歌仙は愛情深く甲斐甲斐しい刀だ。その傾向は修行に出て極の姿となってから、より一層強くなったように感じる。
 僕はどうすればいい、と暗に尋ねるような目はきりりとした意志の強さに満ちていて、ナマエはその変化にくすりと小さく笑う。頼もしくなったなあ、と思いながら、笑うナマエを訝しむ歌仙に弁明をするように口を開いた。
「地蔵が執務室で休んでるから、歌仙はそっちを見てやってくれないかな」
「わかったよ。主は?」
「私は古今の方に。地蔵に頼まれたからね」
「なら、あとで氷嚢や経口補水液を持って行こうか。もちろん地蔵の様子を見てから、だけれど」
「ありがとう、助かる」
 ぽんぽんと打てば響くような会話を何度か繰り返して、歌仙とはそこで別れた。廊下は立ち話をするにはあまりにも暑く、何より初めに地蔵が執務室に駆け込んできた時からずいぶん時間が経っていたためだ。纏わりつくような暑さは夏場と比べても遜色ないもので、軽視できる性質ではない。
 刀剣男士は病で折れてしまうことはないが、だからこそ人間の言う「生き地獄」のようなことを味わいやすい。古今伝授を長くを苦しめておくわけにはいかないと、ナマエは早まった駆け足で古今伝授たちの部屋へと向かった。手に持った水差しの水がとぷん、と音を立てて揺れる。通り過ぎる部屋の折々から漏れる燦々と輝く日差しが、少し恨めしい。
「古今、入るよ」
 結局、古今伝授たちの部屋に辿り着くまでは短くない時間をかけてしまった。今更ながら、ナマエの胸中をじりじりと焦りが焼いていく。投げかけた言葉の返事を待たずに扉を開ければ、そこには薄緑色の畳の上にぐったりと四肢を投げ出して伏せる古今伝授の姿があった。
 駆け寄る。息はある。死ぬことはないが、こういった身体的な不調は手入れで治らない分より質が悪いという。やや水の残ったグラスが二つ置かれただけの低い卓に抱えていた荷物を置くと、ナマエはゆっくりと深く息を吐いた。
 やることがある。それは審神者としての義務であり、それ以上に主として刀を慈しむ当たり前の愛情だった。それ以上のものがあるかと問われれば、口を噤んでしまうだろうけれど。
 押し入れから薄い敷布団を取り出すと、日差しを逃れるように陰になった部分に布団を敷く。その布団に横たえるようにと伏せる古今伝授の身体に腕を回して肩を組むように引き摺ると、彼のすらりとした身体は思うよりずっと簡単に持ち上がった。
 ひゅ、とナマエの喉の奥が鳴る。籠るような熱を宿した古今伝授は、やはりこの急激な暑さによって体調を崩してしまったのだろう。ナマエの脚に絡まるようにぶらりと垂れ下がったほそい脚は、薄紅の鱗文様と渦を巻くように這う倶利伽羅竜とが競うように浮き上がっている。つう、とその足先を伝って、一滴の汗が畳に吸い込まれていった。
 きれいだな、と思う。刀を持つようには見えない細い身体も、その身体に噛みついたように浮かぶ鱗文様も、憂いを帯びた美しい表情も、宵闇と満月をかたどったような眼も、すべて、すべて。
 そのまま布団の上に古今伝授の身体を横たえると、ナマエは彼の腕から羽織をするりと抜き取り、代わりに水を含ませた手ぬぐいをそっと首元に押し当てた。古今伝授の肌は普段から雪のように白いが、今はそれに輪をかけて青白く血の気が失せている。
 ほっそりとした体つきやじとりと浮かんだ汗も相まってか、古今伝授のその様子はひどく不安を掻き立てられた。死ぬことはないと言ったのはどの口だったか、とナマエは自嘲する。
 いやな考えを振り払うようにふるりとかぶりを振って立ち上がると、ナマエは壁に据え付けられた冷房のパネルに触れた。ぴ、ぴ、と機械的な音が返答を告げる。古今伝授と地蔵は今まで換気のみでこの暑さと戦っていたらしく、部屋にはがんがんと頭を揺さぶるような熱が籠っていた。
 ――ふと、声がする。
「……主、様?」
 その声にはっとして振り返れば、きょとりと不安げな色を浮かべた古今伝授の眼と、ちかり、視線がかち合う。その月のような瞳いっぱいにナマエの姿が映ると、古今伝授は今度こそ大きく瞠目した。
 うっすらと汗の滲む腕をついて慌てたように起き上がろうとする古今伝授に駆け寄ると、ナマエはその背に腕を滑り込ませた。案の定と言うべきか、その身体は半ばでくらりと大きく傾いてナマエの腕にぽすりと収まる。その身体は、未だ熱を持っている。
「古今、無理しないで」
「いえ、そういうわけには……」
 古今伝授の声は普段よりもずっと弱々しく、それは抱き留めた腕の絡まる力を知らずのうちに強くさせた。閉じ込めておきたいとか、そういう感情ではない。ただ、行き場のない感情がどうしようもなく身体を駆け巡ったのも事実だった。古今伝授は優しい刀だから、とナマエは思う。
 困惑しきった古今伝授の表情にナマエはようやっと腕を解くと、布団の上に落ちた手ぬぐいを再び古今伝授の首元へと通す。意図を測りかねたように首を傾げる古今伝授が、不意に弾かれたように口を開いた。
「そうだ、地蔵、地蔵は大丈夫でしたか?」
 捲し立てるように古今伝授の口から零れた言葉にナマエは驚いて、それから一拍置いてくしゃりと笑う。古今伝授と地蔵は、まるで兄弟のようによく似ている。
「うん、大事はない。今は歌仙が見てくれてる」
「歌仙が……。それなら、安心ですね」
 そう言ってほっと胸を撫で下ろしたように笑う古今伝授に、ナマエも相槌を打つように頷く。古今伝授はよく地蔵のことをかわいがっていて、その様子はほんものの兄弟のようにも見えた。あるいは、二振りがいっとう人間らしい感情の機微に富んでいるのかもしれない。
 机に置かれたグラスを水差しからの水で満たすと、ナマエはそれを古今伝授に差し出した。ありがとうございます、と言って彼は笑う。熱で乾いた喉を潤すように、こくり、とその細くとがった喉仏が上下する。布団を覆うシーツに溶けるかのごとく白い四肢には、じっとりと汗が絡みついている。
 ぱたり、とシーツに滴る雫にはっとして、ナマエは床を蹴るように立ち上がる。ナマエの慌ただしい様子に首を傾げた古今伝授を尻目に、ナマエは再び冷房のパネルを操作した。
 青い光で縁取られたひときわ大きなボタンを押すと、ぴい、という長い機械音とともに部屋の天井に備え付けられた冷房器具が動き出す。この部屋は二振りが顕現するまで長らく空き部屋だったが、それでもやや几帳面すぎるきらいのある加州や歌仙の主導により、掃除は欠かしたことはなかった。
「これは……?」
 問題なく作動した冷房から吹き出る冷気に驚いてか、古今伝授はきょとんとした表情を浮かべる。滑るように彼の身体を包むひんやりとした空気に、彼はかすかに目を細めた。火照った身体を急激に包む冷気に、彼はふるりと身体を震わせる。寒くないかと問いながら、ナマエは冷房器具を指で指し示した。
「気温を調節する機械だね。そこの白い箱から冷気を出して、部屋を冷やすんだ」
 その言葉を受けて、古今伝授はナマエの指の先にある白い機械をまじまじと見つめる。これからの季節に暑いと思ったらこの大きいボタンを押すように、と古今伝授に伝えれば、彼は曖昧な表情ながらもこくりと頷いた。その瞳の月は、蜜のようにとろりとした黄色をしている。
 そのままナマエは机に近寄ると、置かれたままにされていた袋からいくつかの塩飴の包みを取り出した。包装には檸檬が印刷されているもので、事実この塩飴は檸檬の味がする。
 やや煩雑にも見える華やかな包装を剥いて古今伝授に手渡せば、彼は同じようににっこりと微笑んだ。その笑顔にもだんだんと生気が戻っていて、ナマエは密かに安堵する。かり、と飴を噛み割る音は、塩と檸檬とともに喉奥へと滑り落ちていった。
 ナマエと古今伝授の間に流れる時間はゆったりとして、ぎらぎらという異様な日差しのみを残して心地よい冷気に包まれた部屋は理想的な春の心地を作り出している。言葉を重ねる二人の耳に、不意に廊下を歩く落ち着いた足音が響いた。その足元はこの部屋の前でぴたりと止まる。
「主、古今、入るよ」
 うん、と返事をする前にすぱん、と襖が開け放たれて、刀剣は審神者に似るというのはほんとうかなあ、などとくだらないことを思い浮かべてしまう。敷居を跨いで部屋に入った歌仙は、身体を起こした古今伝授の姿を見てそっと眦を緩めた。
「身体は大丈夫なのかい?」
「ええ、まだ多少の気だるさや眩暈は残りますが」
 歌仙の案じる言葉に、ふ、と微笑を浮かべながら古今伝授は答える。その返答に歌仙は心配そうに眉根を顰めると、古今伝授のその細い首筋にペットボトルを押し当てた。
 突如身体に触れる冷たさへの驚きから、古今伝授の肩はびくりと跳ねる。ナマエはそのペットボトルが見慣れた薄青のラベルであることに気が付いて、くすくすと小さく笑い声を零した。心配性だなあ、と胸中で呟く。
 歌仙はそのままするりと首筋からペットボトルを抜き去ると、先程古今伝授が飲み干して空になっていたグラスにとくとくとそのペットボトルの中身を注いだ。それは透き通った水ではなく、ほんのわずかに白濁している。ぱちり、と瞬きをしながら、古今伝授は差し出されたそれにゆっくりと口を付けた。
 不思議な味ですね、と古今伝授は呟く。甘いような辛いような、と続いた言葉に、歌仙はしてやったりと言わんばかりの表情で頷いた。経口補水液というものは不思議なもので、普段は塩辛く感じるのだが、身体が水分や塩分を欲している際は甘く感じるのだ。
「きみ、それを甘く感じるならまだ治りきっていないということだからね。養生することだ」
 一息に言い切ると、歌仙は軽く咳払いをする。布団の上で上体を起こした古今伝授と座り込んでいたナマエからは、見上げる歌仙はずいぶんと偉丈夫に見えた。顔を見合わせて、くすりと笑う。
 かあっと頬を染めた歌仙は、照れ隠しのように乱雑に手に抱えていた袋からいくつかのものを取り出すと、からり、と響く甲高い音とともにそれを卓の上に置いた。憎たらしいほどに燦々と輝く太陽の光を反射して、その瓶はきん、と空色に輝いている。
 それは懐かしい風情の漂うラムネ瓶だった。瓶の口はビニールで封をされていて、そこにはやや簡素な赤い筆文字で「ラムネ」と印字されている。ラムネ瓶はその独特な流線を描いていて、その首の部分は蓋になったビー玉を掬い取るためにゆるくくびれを作っていた。
「ラムネ、というのですか」
「うん。夏の風物詩だよ」
「これが……」
 初めて見るのだろう、古今伝授は膝立ちで机に近寄ってその瓶をじっと観察している。その様子なら氷嚢はいらないな、とやや拗ねたような声を零しながら、歌仙はぱさりと抱えていた袋を畳の上へと投げ置いた。
 ナマエはするりと一本の瓶を手に取ると、戯れるようにその瓶を指で弾く。太陽を透かして輝く光のように、瓶は高らかな音を立てた。傾ければ中のラムネがとぷん、と揺れる音がするし、耳を当てればしゅわしゅわと炭酸の弾ける音が響く。舌も、耳も、目も、すべてが晴れ渡る空色に染まる。
 ナマエとて二二〇五年の時代を生きているのだから、そう瓶ラムネに馴染みがあるわけではない。それでも、この空色の瓶はどこか郷愁のようなものを感じさせる魅力があった。現代に残るうつくしさの一端が、炭酸とともにこの瓶に詰め込まれているような気分すら覚えるのだ。
 押し黙った古今伝授の様子をちらりと見れば、彼はすらりとして細い指でその瓶に興味深げに何度か触れていた。伏せがちな視線は変わらずラムネ瓶に注がれていて、半月のような瞳はその裏面に感情を隠している。ナマエの視線に気が付いた古今伝授はぱちりと瞬きをして、それから頬をそっと緩めた。
「ふふ、これを詠む言葉を、わたくしはまだ持ちませんね」
 そう言って、古今伝授はその瓶を手に取る。薄青のガラスと中のラムネを透かして見る彼の手はぐにゃりと屈折していて、それを見て彼はまた曖昧に笑っていた。ぴん、と脳裏に閃きが瞬く音がする。見れば、歌仙も同じように口元に笑みを浮かべていた。
「古今、瓶の開け方、わかるかい?」
 笑いを噛み殺しながら尋ねた歌仙に、古今伝授はわずかに目を見開いく。彼はラムネを持たない方の手を口元に添えると、漏れるような笑い声とともに花の咲くような笑みを浮かべた。
「そうだ、地蔵にも飲ませてあげてください」
 ナマエはその美しい微笑に、しかしどうしても笑いを堪えることができなかった。歌仙も今度こそ包み隠さずに声をあげて笑うと、震える手でその瓶の封をべりりと剥がす。彼はそのまま蓋についた玉押しと呼ばれる部品を取り出すと、瓶の口に押し当てた。
「地蔵にも渡しているよ。僕を誰だと思っているんだい」
 ――ほら、こうするのさ。
 言葉と混ざり合う笑い声とともに、ぽん、という音を立ててビー玉が滑り落ちていった。
紫陽花の散るを待つ

蛇は体温が低いって聞いたので。実装当時に書いた気がします。
title:Ise(わたし)