※ヘミングウェイが実装される前に書いたものです。
ランプの橙色の明かりばかりが灯る部屋に、次第に月光が差して混ざっていく。ぱらぱらと零れるように降るピアノの音の中に、こつこつと混じる足音に気付いてナマエは手を止めた。椅子から腰を上げ、そっと振り返る。さみしい部屋だ。遮音の壁紙を貼っただけの部屋の中央にやや小ぶりのアップライトピアノがひっそりと置かれているばかりで、あとはがらんとしている。だからこそ、時に上ずったように乱れる暖かな日差しのような足音は異質だった。
二、三度ノックの音がして、やや立て付けの悪い扉が開く。扉の隙間から見えるプラチナブロンドの髪に、ナマエは少し意外な気持ちになった。薄暗い中にあってもきらきらと輝く彼は、「グレート・ギャツビー」の著者であるスコット・フィッツジェラルドその人である。シツレイシマス、とわざと言い慣れないように口にした彼は、面食らうナマエに向かってにっと笑った。
「Hi, いい夜だな!」
「――、そうですね、こんばんは」
スコットは気さくにそう言うと、部屋の中央のピアノに足を向けた。普段身につけているファーや上着を取り払った彼はやや落ち着いて、少し寒々しくも見える。触っていいか、と問う彼にこくりと小さく頷けば、彼はその指でそっとピアノに触れた。つるりとした木目調の表面に指の肌色が浮かび上がっている。自然と俯き気味になる身体に釣られて、胸元のコサージュが傾く。胸元に縫い付けられた黒い蝶が今にも羽ばたきそうに揺れていて、それがなんだか不思議だった。
「俺はピアノの良し悪しにはあまり詳しくないが、いい音だったぜ」
しばらくして満足したのか、スコットは顔を上げるとぱっと笑った。明るく、奇をてらわない無邪気な笑みだ。その嘘のない笑顔に乗って、賞賛の言葉もすっと胸の奥に吸い込まれていく。ナマエはぱちり、と瞬きをすると、彼の笑みに釣られたようにわずかに頬を赤らめてはにかんだ。ピアノの腕を褒められるのは久しぶりだった。
「あ、ありがとうございます」
その言葉にスコットは余計笑って、それから軽くナマエの背を叩いた。ナマエもわっ、と声を上げて、それから笑ってしまう。明るい人だ、と改めて感じた。眺めているときはほっそりした指だ、なんて思ったけれど、背に触れた彼の手のひらは力強い。なにかを引っ張っていくことのできる大きな手だ。それでもふと視線を向けた彼はこの優しい夜に馴染んでいて、そのくせ彼は夜明けまで煌々と輝く喧噪もいっとう似合うのだから、どこまでも不思議な人だった。
立ってないで座ってくれよ、とスコットに促され、ナマエは再びピアノと揃いの椅子に腰を下ろす。スコットさんは、と訊ねれば、彼は軸足に体重を預けながら飄々とした風にひらりと手を振っていた。こういう仕草が気障に感じられないところがまた彼らしくて、ナマエはくすりと笑みを零す。当の本人がきょとんとしているのが、またおかしかった。
「しかし、図書館にピアノがあるなんて意外だな。だって図書館だろ?」
そう不思議がるスコットに、ナマエはこのピアノが見つかった経緯を話すことにした。そもそも、このピアノは以前倉庫の片付けをした時に見つけたものだが、なぜ図書館にピアノがあったのかは定かではないのだ。館長曰く、ここがまだ侵蝕現象に対抗する戦地になる前、ここが普通の図書館だった頃に使われていたものなのではないか、ということだが、何分館長もアルケミストとなってから館長の椅子に就いたものだから、以前の細かなことには詳しくない。幅を取るから処分してしまおうか、という意見もあったが、しかしそれはもったいないという館長自身や一部の文豪からの要請もあって、居住区から離れた建物の隅にあるこの部屋に置かれることになったのだ。
「Wow, じゃあこれは時を隔てた掘り出し物ってわけか」
「あっ、確かに」
当時のことを思い出しながら白鍵に指を滑らせていたナマエは、スコットのその言葉に顔を上げる。ピアノの屋根に軽く肘をついたスコットは、言葉と変わらないきらきらとした表情で笑っていた。その華やかながらさっぱりとした顔立ちは、今は橙色の電灯を受けてやや柔らかく見える。反対に、青白い月光は彼の表情に一抹の影を与えていた。
「……でも、今となっては侵蝕現象のない世界なんて考えられませんね」
「Exactly. 残念なことに、な」
そうして、二人の間がしん、と静まりかえった。一秒が引き延ばされて、一分とも一時間とも言えるような長さでナマエのもとに迫ってくる。一転してつめたさのある静寂が支配する中で、ナマエは口に出してしまったことを悔やんだ。ぐっと喉元までせり上がってくる感情を押し殺すように、ぱっと目を逸らす。後悔先に立たず、というけれど、まさしくその通りなのだ。こういうときに自分が引っ込み思案の口下手であることを思いだしてしまって、どうしようもなく暗澹たる気分になる。
ごめんなさい、とナマエは呟いた。ともすれば張り詰める静けさにかき消えてしまいそうな、そんな小さな声だ。おずおずとスコットの表情を覗き込めば――、しかし、彼はなんでもない風にきょとんと首を傾げている。それからナマエの視線に気付いたらしい彼は、いくらか悩んでから何かに気付いたようにぱっと片目を瞑ってみせた。
「No problem! それを解決するために俺たちがいるんだろ、親友?」
その言葉に、ナマエは胸が張り裂けそうになる。ナマエが睫毛を震わせながらこくりと頷けば、彼は花が咲くように笑った。きゅっと弧を描く口元は彼の表情に親しみやすさとわずかな幼さを添えていて、細められた目と相まってその整った顔立ちにとても映える。その笑顔を見ているうち、ナマエはなんだか唐突に彼がぐっと近しい存在になってしまったように感じて、かすかに目を瞠った。親友、と呼びかけられる声が唐突に甘やかな響きを帯びていくのを、はっきりと自覚してしまったのだ。スコットは本当に、明るくて優しくてずるい人だ。わずかに鼻の頭を赤らめて押し黙ったナマエの頭をくしゃりと撫でながら、スコットはそういえば、という風に切り出した。
「お前はピアノが好きなのか? ……ああいや、愛の定義の話をしようってんじゃないぜ」
「好き」という言葉にぴくりと肩を揺らしたナマエを見て、スコットは笑いをかみ殺しながらそう訊ねた。愉快なアメリカンジョークをうまく転がしてみせるスコットに釣られて、ナマエもくすくすと笑う。「好き」という言葉を気にした理由は別にあるのだけれど、スコットからはそんなに初心だと思われているのだろうか。わずかに口を尖らせながら、ナマエはスコットを見つめ返した。ややつり目がちの目が緩んで、金の瞳がちかちかと煌めいている。まるで星のようだ。
「……正直、好きか嫌いかでいえば、特には」
ナマエの返答に、スコットは意外そうにぱっと目を見開いた。
「Oops! 聞いちゃ悪いことだったか?」
「いえ、そうじゃなくて……。つまらない話ですけど」
「気にするなよ、水くさいな。俺たち作家は自分語りの専門家みたいなものだぜ、なあ?」
口を噤んだナマエを気遣うように、スコットはそう口にして愉快そうに表情を緩める。笑顔の絶えない人だな、とナマエは思った。陽気で明るく、人を楽しませることが得意な人だ。ナマエははじめ彼がさみしい夜に似合うことが意外だったが、きっとそれは思い違いで、彼はどんな時でもすっと胸の奥の欠けたところに収まってしまう人なのだろう。それはパーティの中であれば明るくなるし、こういう夜ならば静かにもなる。けれどもスコット自身は限りなく明るく、どんな状況にも揺らがない強さを持っていることもまた確かだった。スコットのその優しさに甘えながら、ナマエはそっと口を開く。不思議と言葉は滑らかだった。
「もともと、別にピアノに深い思い入れもないんです。私にとっては、単なる習い事のひとつで。でも、最近久しぶりにあったおばあちゃんから……、私のピアノが好きだった、って言われて。ピアノなんて、もう長らく弾いてなかったのに」
それで、なんとなく、こうして。言い終えたナマエはそっと息を吐いた。べつに、悩んでいたわけではなかった。自分にとって特に気にしていなかったものだとはいえ好きだったと言われたことは嬉しいし、けれども自分を慰めるための言葉である可能性も十分にあって、好きだという言葉自体に重さはない。けれども、それにしては理由もなく心に引っかかっているのだ。
「わかるぜ、その気持ち」
「!」
スコットの同意は思いのほか重く、夜を滑るようなつめたい響きがした。意外に思ってスコットの表情を覗き込もうとすれば、彼は顔を逸らして窓の向こうの月をじっと見つめていた。ナマエの座る場所から見えるのは片目ばかりで表情はとんとわからなかったが、それにしては傾いて差し込む月光がその表情にいやに影を落としている。ナマエの視線に気がついたのか、彼はぱちりと瞬きをした。
「誰かの理想でいるのは、難しいもんな」
そう言って振り返った彼の表情を見て、――ナマエは彼に青白い月光が似合うと、はじめて思った。
彼の美学と私の言い訳
スコットの寂しい部分がすごく好きで、確か実装すぐに書いたやつだった気がします。実装直後の熱に当てられて書くことがすごく多い。
title:白鉛筆