何かが落ちるような物音が、つめたい静寂を割くようにしてナマエの耳に飛び込んだ。はっとして、徐に身体を起こす。丁寧に磨かれた机の滑らかな質感に貼り付いた頬が、ぱりぱりとかすかに音を立てて剥がれてゆく。凝り固まった身体から、ナマエは自分が長い転た寝をしてしまったことを自覚した。司書室の窓から見える風景はもうすっかり暗くなって、ぼんやりと浮かぶ街灯の光がやけに目に痛かった。
 まだ覚めきらない意識のまま、ナマエはやや覚束ない足取りで司書室を出る。この日の業務はもう終えたとはいえ、館長らとともにこの図書館を監督する人間として、不意の物音の原因を確かめる必要があった。
 司書室の鍵を閉めるかすかな音が、静かな廊下に反響して聞こえる。転生した文豪たちの住まう棟はともかく、こんな夜では図書館の本館に近い司書室の周りに人気はない。先ほどの物音も、それが元で却って大きく響いてしまったのだろう。廊下を包む秋にしては珍しいほどにしんしんと冷え切った空気に、ナマエはだんだんと自分の思考が目覚めてゆくのを感じた。
 そうして薄らと残る記憶を頼りに物音の出所を探るナマエは、ふと足下に見慣れないものがぽつんと落ちていることに気がついた。その物体は黒く、触ってみればざらざらとして固い。拾い上げて振り返って、――ナマエはこの黒いものの転がっていた場所が階段の前であることを知った。なるほど、おそらく先ほどの物音は、この物体が階段を転がり落ちた音だろう。その正体はいまだ掴めないが、この固さなら音が響くのも頷ける。
 ナマエは物音の原因に得心がいって、それからこの物体の持ち主を考えた。この物体が落ちてきたのであれば、おそらく階上にはその持ち主がいるはずだ。この時間に図書館を彷徨っているのであれば十中八九転生した文豪の誰かだろうが、それならそれで早い内に返した方がいいだろう、とナマエは思う。薄暗い階段を踏み外してしまわないように、ナマエはゆっくりと階段を上り始めた。
 こつ、こつ、と響く靴音が、かすかな熱を持ってナマエの耳に響く。やがてくの字になった階段の踊り場に立ったナマエは、月明かりがぼんやりと差す階上に人影を見た。じっと目を凝らして、それからナマエはあ、と声を上げた。
「ボードレールさん、と、――ランボー……?」
「ウィ。いい夜だね、キミ」
 ナマエの見上げる視線に気付いてか、ボードレールはその紫の瞳を細めて微笑んだ。ほの明るい夜の中で普段通りに飄々と振る舞うボードレールの、しかしその首筋からは雪のように白い髪が突き出すように覗いていた。言うまでもなく、ランボーのものである。肩を貸すように、あるいは背負うようにランボーの身体を支えるボードレールの姿は、ひどく奇妙に、そして存外馴染んで見えた。
 ナマエはボードレールのもとに駆け寄ると、その身体に凭れるランボーの様子を確かめた。転生した文豪の肉体は錬金術の結晶である。錬金術師として異常が起こっていないかを検分しようとするナマエに、ボードレールはさも愉快そうに小さく吹き出して、それから身体の重みに耐えかねるように緩慢に手を動かして、ランボーの頬をするりと撫でた。
「眠っているだけさ。できるなら、静かにしてやってくれるかい」
 声を細めたボードレールの様子に、ナマエも頷いて口を噤んだ。微かな寝息を漏らすランボーの姿について、ボードレールの伏せた瞳が何より雄弁に言葉を語っていた。行き場のなくなった腕だけが、底冷えのする季節外れの寒さにそっと震えている。振り下ろした腕のもう片方が主張する重さで、ナマエは漸くこの階段を上った理由を思い出した。
「そうだ、これ……。下に落ちてて」
 差し出したそれに、ボードレールはわずかに目を眇めて、それからああ、と声を上げた。
「メルシー、キミが拾ってくれていたんだね。それは旅人くんの双眼鏡さ。僕は生憎両手が塞がっているから、それはキミが持っていてくれたまえ」
 双眼鏡、とナマエは反芻した。両手が塞がっていると嘯くボードレールは、しかしひらひらと手を振って見せる。ナマエは始め、これが偶に聞くボードレールの労働に対する言い訳と同じものかと考えて、それから首を振った。
 ボードレールの両の肩には、いまも眠りから覚めることのないランボーの身体が凭れている。細身のボードレールに対し、あてどなく放浪を続けるランボーのしっかりとした身体はひどく不釣り合いにも見える。きっと、それを支えきるための両手なのだろう。よしんばほんとうに自分の労苦を厭うたための言葉だとしても、ナマエにはそれはどこかやさしい響きを伴って聞こえた。
 ナマエは暫く考えて、それからボードレールにそっと手を差し出した。ボードレールの靴は細く高いヒールのあるもので、その様子では背に眠るランボーの重さを支えきることができたとしても、ここからランボーの部屋に彼を送り届けるのは難しいだろう。ナマエは女性で、ランボーを支えてやることに関してはボードレール以上に見込みがないが、二人の膂力を総合すればまだなんとかなるはずである。
 ボードレールは差し出された手の意図をしばらく考えると、それからやや呆れたように溜め息を吐いてその手を取った。蒲萄酒の色をした手袋の感触の向こうに、冷え切ったボードレールの手があった。
「ふうん、ずいぶん頼りない手だな」
「いや、まあ……、運動とか、してないですし」
 潜めた声と似合わない悪態を聞き流しながら、ボードレールとナマエは一段一段、ゆっくりと階段を下ってゆく。行きよりもずっと鈍く響く足音は、しかし二対になってばらばらに響いた。普段はその言動も相まってかとても華やかな印象を受けるボードレールが、それに反してじっと身を潜めるように振る舞っているのは、おそらく夜のせいだけではないのだろう。見たことのない表情だ、とナマエは思う。何か重大な秘密の共犯者になってしまったような、そんな気持ちをナマエは一方的に抱いた。
 いつもの倍の時間をかけて階段を下ってから、ナマエはボードレールの様子をちらりと伺う。その唇はなかば色が失せ、割合薄着であることも相まってか寒々しい印象を受ける。これはどこかに落ち着かせた方がよいのではないか、と考えて、ナマエはふと司書室に備え付けられた仮眠室の存在を思い出した。
 ナマエは基本的には業務が終わり次第、転生した文豪のものとはまた別の宿舎に戻ることになっている。しかし、急速な侵蝕などの有事に対しては、その仮眠室に詰めて待機することもあった。メフィストフェレスとの決着を付けてからこのかた、その仮眠室はすっかり使われることはなくなっている。今日もナマエはこのまま宿舎に戻る予定であったわけだし、そこを彼らに宛がうことは難しくはない。そう提案すれば、ボードレールはなるほどね、と頷いた。
「そういえば、――こっちの棟に何か用事でもあったんですか?」
 司書室へ戻る道すがら、ナマエは疑問に思っていたことをボードレールへ訊ねた。そういえば、と口に出して、それから慌てて声を落とす。神経質になっていることに自覚はあったが、それでもナマエもこのつめたくもあたたかい時間を守りたかったのだ。ナマエの気遣いにボードレールは満足げに微笑むと、満足げに口を開いた。
「ああ、あのテラスから天体観測をしていたのさ」
 その言葉に、ナマエはあからさまに顔を顰めた。さんざん寒さを感じているように、今日は秋にしてはずいぶんと冷え込んでいる。そんなときに軽装で長時間外にいることで想像できる結果は、あまりよいものでないことはすぐにわかるだろう。
「それは……タイミングが悪かったんじゃ……」
「ノンノン、キミはわかってないね。こんな澄み切った夜、星を見るのにぴったりだろう?」
 思わず苦言を呈したナマエに対して、ボードレールはその星を宿しているような瞳を窓の外に向けて呟いた。釣られて、ナマエも夜のとばりをそっと覗き見る。満天の星を湛えた空に、しかしナマエは寸でのところで歓声を上げることを自制した。手のひらを返したように喜んでしまうことは、自分の中の何かが許さなかったのだ。ぐ、と喉奥で鳴る声に、ボードレールは揶揄うようにころころと笑った。
「……ほら、着きましたよ」
 そう言って、ナマエは上着のポケットに仕舞った鍵を取り出すために、繋いでいた手をそっと離す。するりと離れていく熱は、相変わらず手袋越しにしかわからない。司書室の鍵を開ける音が、なぜだか鍵を閉めたときよりも小さく聞こえるような気がして、ナマエは不思議な気持ちになりながら扉を開ききった。ボードレールは、ランボーのくたりと力の抜けた身体が扉に支えてしまわないように気を払っている。その気遣いが、ナマエにはどこか愉快に、そしてやわらかく映った。
 ボードレールが司書室に入ったのを確認して、ナマエはそっと扉を閉める。そのまま仮眠室まで案内すれば、ボードレールはその殺風景な内装にわずかに眉を顰めた。あくまで緊急的な用途で使われることを想定された部屋だから仕方がないとは思うが、ボードレールにとってはあまり好ましくはないだろう。ボードレールは諦めたように溜め息を吐きながら、ごくごく平易なベットのもとに跪くようにして、ランボーをその寝台へそっと横たえた。そうしてランボーの胸元あたりまでをブランケットで覆ってから、ボードレールとナマエは仮眠室を後にした。
 限りなく音を小さくするように努めながら仮眠室の扉を閉めて、それからナマエはようやくほっと胸を撫で下ろした。やさしい静寂は、保つことには努力がいる。机に下ろした双眼鏡は、その張り詰めた努力の象徴のようにも見えた。薪を並べ、ぼう、という音とともに暖炉に火を点したナマエに、ボードレールは訝しむような表情を浮かべる。振り返って、そういえば詳しいことは伝えていなかった、と思う。やっぱり、先ほどまでのどこか非日常的な独特の空気に飲まれていたのだろう。
「一応、防犯上の観点から無人の場合は鍵を閉めておかないといけないんですよね」
「へえ、なるほどね。ランボーが隣で寝ているから、キミは鍵も閉められず、不在にすることもできないわけだ」
 ボードレールの淀みない推察に、ナマエはこくりと頷いた。司書室はさまざまな機密を扱う場所であり、そういい加減にすることは難しい。もっとも、基本的には都度軽い封印を施しているため、錬金術師ではない只の泥棒には盗み出すことなどできはしないのだが、錬金術というのは警戒するに越したことがない技術であることも相まって、司書室の管理に関しては規則として厳格に定められていた。
 ふうん、とつまらなさそうに声を漏らしたボードレールの様子からして、司書室の事情に関してはじきに興味を失うだろう、とナマエは思う。そもそも、ゲーテの研究の誘いについても色よい返事を返していないと聞く。錬金術については、そもそもあまり関心がないのだろう。火かき棒で火の様子を見ながらそんなことをぼんやりと考えていたナマエの耳に、ぱちぱちという薪の爆ぜる音に混じって声が聞こえた。
「ねえキミ、珈琲を淹れてくれたまえ。ああ、ワインでも構わないよ」
 その声に、ナマエは思わず振り返る。予期しない動作に、火かき棒についた灰がぱらぱらと散った。ソファに深く腰かけたボードレールは、助手業務を頼んだ時と同じように、ごく当たり前と言った様子でこちらをじっと見つめていた。え、と声が零れる。ボードレールの「お願い」は、ナマエにとって予想外のものだった。
「部屋に帰らないんですか?」
 ナマエの問いに、ボードレールは悪戯っぽく片目を瞑る。
「旅人くんが起きるまでだよ。彼、放っておいたらすぐにどこかにいってしまうだろう」
 その返答は、ナマエも納得するものだった。ランボーの放浪癖についてはこちらとしても扱いあぐねている部分もあるし、なにより寝起きの人間をそのまま外に放り出すのはあまりよろしくないだろう。ランボーについて多少なりとも扱い慣れているボードレールが相手をしてくれるのはこちらとしても助かることだし、何よりボードレール自身もそれを望んでいるのではないかと感じることもあった。
「じゃあ……、そうですね、ホットワインでも作りましょうか」
「セボン! ヴァンショーか、この寂しい夜にぴったりだ」
 ボードレールの歓声に、ナマエは火かき棒を置いてソファの方へと近寄った。背後で燃える暖炉の火が次第に勢いを増して、つめたくなった部屋がじんわりと温かさに包まれる。ボードレールの唇も、だんだんと色を取り戻している。なんだか、こういうのも悪くない。ナマエはとりとめのないことを考えながら、ワインの在処をぼんやりと脳裏に思い浮かべた。
もうはんぶんの夜が明けるまで

元ネタは悪の華で二人が言葉の星を眺めてた場面です。「旅人くん」呼びが好きなことがバレる。
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