ナマエは後悔していた。
手の中でかたかたと微かに震えるグラスに注がれたワインは、嗅いだこともないような芳醇な香りを漂わせている。冬の間の気付けとして使うようなただ強い酒とは比べものにもならないそれに、ナマエは後退りするほどに怯えていた。だって、たぶん文字通り桁違いのものだ。偶然出会ったゴルドマリーと酒を飲むことになって、彼女のお勧めだという店に足を踏み入れた時点で気付くべきことだっただろう。ゴルドマリーは学園にいた頃から料理が得意で、自分の料理に自信を持っているぶん、その目は厳しかった。
助け船を求めるようにゴルドマリーに視線を向けて――この事態の元凶はある意味ゴルドマリーでもあるのだから、助け船が来るわけがないのだとは思い至らずに――、ナマエは再び後悔した。自分と違って、ゴルドマリーは至極当たり前のような顔をしてグラスを傾けているのだ。その白く滑らかな指が細いステムを持って、香りを楽しみながらゆっくりと味わう姿は、飲み慣れない上質なワインを手に困り果てるナマエとは違ってずいぶん様になった。
「ナマエは、もしかしてワインは苦手でしたか……?」
耳に届いたか細い声に、はっとして顔を上げる。目の前のゴルドマリーの不安げな表情を見て、ナマエはすぐに後ろめたさを感じた。ゴルドマリーは確かにマイペースな人物だが、他人を慮ることができないわけでは決してない。彼女に不要な気遣いをさせたことが申し訳なくて、ナマエは慌てて首を振った。
「ううん、そうじゃなくて……、なんか、緊張して」
緊張、とゴルドマリーは復唱する。しばらく俯いて考え込んでいたゴルドマリーは、やがて合点がいったとばかりに頷くと、わざとらしく頬に手を当て、庇護欲を煽るような表情で口を開いた。
「まさか、わたしの魅惑的な顔を前にして緊張してしまったんですか……?」
突拍子のないゴルドマリーの言葉に、ナマエは面食らって目を瞠る。そんなナマエの様子などいざ知らず、あなたを怖がらせてしまうような美しい顔ですみません……、などと宣うゴルドマリーは、ナマエのよく知る学生時代の彼女とまったく変わらない。そのことに、ナマエはひどく安堵した。震えるほどに強張っていた身体から、ゆっくりと力が抜ける。ダイニングチェアの背もたれに身体を預けながら、ナマエは苦笑を浮かべた。
「……普段は適当な安酒しか飲まないから、こういういいお酒にちょっと身構えちゃって」
ナマエの返答に、今度はゴルドマリーが目を見開いた。意外と言わんばかりの露骨な反応にナマエが口を尖らせれば、ゴルドマリーはナマエを宥めるようにくすくすと笑った。
「だって、お酒に誘ってきたのはナマエの方じゃないですか。だから、わたしはてっきりナマエはお酒が好きなんだと」
「いや、お酒は好きだけどさ。でも、だからこそ、必ずしも量と質とが比例するわけじゃなくって」
「ああ、なるほど……」
世知辛い話を持ち出せばやっとゴルドマリーは納得したらしく、彼女もまたもの悲しく萎れた声で相槌を打っていた。学生時代は本質的には気にしたこともなかったような事柄が、当たり前のように会話に出るのが、少し不思議な気分になる。特にゴルドマリーは、邪竜との戦争での功績によって在学中から叙勲を受けていて、学園を卒業した現在も騎士としてオルテンシアに仕えている。そうした面では同期といえど大きな隔たりがあって、だからこそゴルドマリーとこんな生活感のある話をすることになるとは、昔のナマエは思ってもいなかった。
「それなら、なおさら、ナマエにはこのお酒を楽しんでほしいです……」
そう言って、ゴルドマリーは花が綻ぶような微笑みを浮かべ、そっとグラスを差し出した。彼女に倣って、ナマエもぎこちない手つきでグラスを手に取る。まったく手を付けられていないナマエのグラスに比べて、ゴルドマリーのそれはすでに半分ほどになっていた。そのことに気付いたナマエはなんだか馬鹿らしくなってしまって、なかば呆れたようなひどくゆるやかな心持ちでグラスを傾けた。途端に、鮮やかな酸味と華々しい香りが、いっそ暴力的なまでにナマエの舌を襲った。
「どうですか、お口に合いましたか?」
「うん、すごいね、これ。今まで飲んだことないような綺麗な味がする」
「ふふ、さすがこのわたしの勧めたお酒ですね……」
ゴルドマリーの相変わらずな言葉に、ナマエはあいまいに相槌を返す。アルコールに痺れる感覚を覚えながら、ナマエはイルシオンではあまり作られないような酒だな、とうっすら思った。おそらく、この酒は適当に冷やして飲むことを想定されて作られたものだろう。イルシオンという常冬の国にあって、わざわざ温度を調節する必要がある酒は一種の嗜好品と言える。その疑問をゴルドマリーに尋ねれば、彼女はずいぶん嬉しそうに笑って頷いた。
「ええ、このワインは、フィレネで作られたものなんです」
「え、フィレネの?」
予想外の答えに、ナマエは思わず鸚鵡返しに聞き返す。フィレネといえば、イルシオンからはリトスを挟んだ海越しの場所にあることから交流も希薄で、青々とした緑と肥沃な大地はイルシオンにとっては縁遠いものだった。
「フィレネも先の戦争で邪竜の手によって港を焼かれていますから……、資金繰りのこともあって、蔵にしまい込んでいたものも含めて、普段より多く売りに出すことにしたらしくて」
その言葉を、ナマエはどこか複雑な気持ちで聞いていた。フィレネが邪竜との戦いの中で被害を受けていたことなど、ナマエは初めて知るのだ。生まれてからこの方イルシオンを出たことがないナマエにとっては、ゴルドマリーがときどき語る広い視座の話は、まったく現実味のないものであった。靄がかったようにはっきりとしない思考を酔いに責任転嫁して、ナマエは頼んでいたローストビーフに手を付ける。二枚、三枚と頬張って、勢い任せにワインを煽って、それから、ナマエは行儀悪く机に突っ伏した。
「ナマエ?」
「ごめん、なんか……ゴルドマリーから、そういう、他国の情勢とかの話が当たり前のように出てくるのにちょっと驚いて……」
ゴルドマリーの驚いたような声が、ひどく遠くに聞こえる。言いながら、自分が思ったよりも参っていることにナマエは驚いた。学生でありながら騎士の叙勲を受けてオルテンシアに仕えるゴルドマリーのことを、ナマエは誇らしい学友と思いながら、同時にどこかで隔たりを感じていた。その隔たりはあくまで自分から作ったものであるというのに、いざゴルドマリーから自分との違いをちらつかせられて卑屈になるのは、ずいぶん勝手な振る舞いと言えるだろう。喉元を通り過ぎていったワインの酸味が、ナマエをなじるように舌に残って主張した。
「……わたし、ナマエに相談があるんです」
その声は、ひどく甘やかな響きを伴ってナマエの耳に触れた。その声にナマエは赦されたような、咎められたような、そんな不思議な気分になって、決まりの悪さからゆるゆると顔を上げた。ゴルドマリーはナマエの額に貼り付いた前髪をそっとかき分けると、やわらかく微笑んだ。ゴルドマリーに触れられた場所が、ぐらぐらと燃えるように熱かった。
「相談って?」
ゴルドマリーの言葉を反芻するナマエの喉は、いやに乾いてひりひりと痛んだ。
「はい……オルテンシアやロサードにはできない相談です……」
まるで胸が鷲掴みにされたような、そんな錯覚に陥る。主君であるオルテンシアにも、オルテンシアを主君と仰ぐ相棒であるロサードにも言えない相談という響きは、ナマエをひどく誘惑した。ことここにおいて、ナマエは自分に酔いが回っていることを自覚せざるを得ない。だって、少し落ち着いて振り返れば、オルテンシアやロサードにできない相談というのは単に条件があってのことだとすぐに分かるはずなのに、それでもナマエはいやにほの暗く浮き足立つ心を抑えられなかった。ナマエは浮つく胸中を隠し、あくまで余裕たっぷりと言わんばかりにゴルドマリーに言葉を促す。平静を装うことは、学生の頃に比べたらずっと得意になった。
「実は、学園の先生方から、教師にならないかと誘われていて……」
その言葉を受けて、ナマエが先ず感じたのはゴルドマリーへの素直な賞賛だった。イルシオンは叡智の国と自負するだけのことはあって、学園の教師たちはみな高い水準の人材を揃えている。そこに加わるということは名誉であるはずで、しかしゴルドマリーの口ぶりはどこか躊躇っているようにも見えた。作り物めいたかわいらしさや美しさが失せた、あくまで等身大の迷いが覗くゴルドマリーの表情は、けっしてこの「相談」がナマエを慰めるためのものではないのだということを、痛いほどにナマエに知らせていた。
「……でも、悩んでる?」
ナマエは小さく息を吸い込んで、わざと直接的な言葉でゴルドマリーに尋ねた。ナマエの言葉にゴルドマリーはしばらく視線を漂わせて、それからゆっくりと頷く。
「先生方に認められたことは、とても嬉しいです……。けれど、学園に戻るとしたら、騎士としてオルテンシアに仕えることは、きっとできなくなってしまう」
おそらくは、その二律背反こそがゴルドマリーの決断を鈍らせている原因なのだろう。以前にゴルドマリーから聞いたオルテンシアとの出会いを踏まえるのであれば、その迷いは無理もないと思う反面、ゴルドマリーがオルテンシアへの忠誠を真摯に語るその様子は、ナマエにとっては少し妬ましくも映った。きっと、この場でナマエがゴルドマリーの迷いに判断を下したとして、それはゴルドマリーにとってはまったく参考にはならないだろう。
「陳腐な答えだけど――、それってオルテンシアをそばで支えるか、それともイルシオンという国を支えるか、その違いだけだと思うな」
自分の声は、ともすれば縋っているようにも聞こえた。声が震えていなければいいな、と思う。言い訳のように聞こえていなければいい、とも。ナマエの言葉にゴルドマリーはわずかに驚いたように目を見開いて、それからそっと微笑んだ。
「ふふ、確かに、そうかもしれません……」
ゴルドマリーの返事を聞いて、ナマエは言葉を遮るようにワインを喉へ流し込んだ。わずかに温くなったワインは段々とそのシャープな酸味が失せ、まろやかな味へと転じていた。アルコールによって次第に浮ついて覚束なくなる思考が、羞恥心と後悔とを丁度よく頭の隅へと追いやってゆく。明らかにわざとらしくばたばたとしたナマエの振る舞いに、ゴルドマリーは揶揄うようにゆらゆらとグラスを揺らした。
「やはり、こういう赤裸々な話は、お酒の力を借りるに限りますね……」
そう言って、ゴルドマリーは乾いて少し固くなったローストビーフに手を伸ばす。アルコールによる理由のない万能感を賛美する割に、自身は酒を飲むでもなく副菜に手を付ける様子はどこか皮肉っぽく、ちょっぴり意地悪だった。
「ゴルドマリーでも、そういう風に思うの?」
「もちろんです。お酒の力を借りれば、完璧なわたしがもっと完璧になってしまいますから……」
ゴルドマリーの指先を追いかけるようにローストビーフにフォークを突き刺しながら、ナマエはぼんやりと尋ねる。その問いかけは意趣返しが半分、純粋な疑問が半分といったところで、たいした意図があるわけではなかった。けれども存外当たり前のように返ってきた答えに、ナマエは共感するとともに少し惨めな気分になる。
だって、泥酔状態による万能感を心理的な箍が外れた状態と言うのであれば、ナマエはそれすら満足にできない。本当に自由に振る舞えるなら、酔いを言い訳に膝枕でもなんでも強請って、ゴルドマリーとの隔たりを一方的に埋めてしまうことだってできたかもしれない。けれども踏み出すことができない自分は、結局のところ、世界を巻き込んだ戦争に身を投じた誇り高い騎士とは似ても似つかない、いかにも平凡な臆病さに満ちていた。
ナイト・メロウ・シンドローム
ゴルドマリーの友人になって、彼女の傍若無人なだけじゃない側面に触れて優越感を感じたい……ってところからの産物です。主人公はオルテンシアよりロサードの方により嫉妬してそう。
title:Ise(わたし)