二度、軽くノックをする。深い木目の色をしたドアは、夜の暗がりに包まれてその色は判然としない。深夜と言っても差し支えのない時間にこのドアを叩くことは初めてで、それは虚子の心をわずかに引き締めた。しばらくして、軽い物音と、ドア越しにくぐもったどうぞ、という声が聞こえる。ドアノブに手を掛ければ、金属製のそれは木枯らしの吹く空を映してつめたく鈍く光っていた。
ドアを開けて、司書室に足を踏み入れる。部屋の中はほのかに温かく、虚子は思わず周囲を見回す。夏ごろに担った助手業務ぶりに訪ねた司書室は、いくつかの見慣れない点があった。暖炉もそのひとつである。天井から下がる白い照明に溶けるように、橙色をした暖炉の炎がちらちらと揺れている。それを見て、虚子は暖炉をもう出したのか、と思った。けれど、それから木枯らしが吹いていることを想起した自身を省みてみれば、もう年の瀬も近いのだ。
年月について考えると、どこか現実味のないような気分になって堪らない。転生してからこのかた、ずっとそうだ。
「虚子さん?」
部屋に入ったきりで反応のない虚子を見かねてか、ナマエは顔を上げた。こつん、というペンを置く音が曖昧に聞こえる。そうしてナマエと目が合って、見知った顔立ちの印象が違うことに驚く。けれどもその印象の原因に思い当たりがなく、虚子はわずかに首を傾げていっそう黙り込んだ。そんな様子をナマエはさらに訝しげに見つめてから、不意に何か納得したように頷くと、耳元に手を寄せた。
「もしかして、私が眼鏡してるところってあんまり馴染みないですか」
「……ああ」
思わず納得する。ペンよりも軽い音で、ペンの近くにそっと添えられた眼鏡は、確かに虚子には見慣れないものだ。フレームレスなんですよ、と説明するナマエの声に、あいまいな相槌を打つ。ナマエの言葉の通りにその眼鏡には縁取りがなく、印象が違うと思ったわりにはそのわけを掴み損ねたのも、この形状が原因だろう。眼鏡のつるに巻き込まれてこぼれた髪を整えれば、ナマエの様子はすっかり普段通りになる。
「書類仕事とかするとき、たまにしてますよ」
「それにしては、あまり見たことがないが」
「いや、今日はちょっと、そういうやつで……」
思いがけず問い詰めるようになった虚子の言葉を受けて、ナマエはあからさまに目を逸らした。そうしてずれた視線の先で、紙のうず高く積もる白い山がわずかに崩れる。紋切り型の、とまでは言わないが、おおよそどういった状況か想定できる程度には、執務机の上は荒れきっているのだ。ナマエは緩慢な動作でペンを取ると、諦念と疲労を洋墨にたっぷり滲ませながら書類に署名をした。そういうわけです、という声はひどくかすれて聞こえた。
虚子は思わず、出直したほうがよかったか、と考える。自分がいまこうして司書室を訪ねたのは、あくまで中庭から司書室の明かりがまだ点いていることを確認したためで、その内情については知る由もなかった。けれども、時計を見ずとも外は暗がりに包まれているのだから、そんな夜の深いころに司書室の明かりが灯っているということは、ある種の異常である。職務上定められている規定に背くわけではなかったが、想像できないことではなかったのかもしれない。考えた途端、虚子は軽い罪悪感に似た居心地の悪さを覚えて、言い訳めいた言葉を零した。
「邪魔をしたな。又明日訪ねることにする」
そう口にして踵を返そうとする虚子に、驚きからかナマエはあからさまに目を丸くした。ナマエはそうして表情を隠すように俯いて、いや、べつに、と歯切れの悪い声をもごもごと続けている。言い淀むナマエを宥めるようにじっと見つめていると、彼女はとつぜん、ばっと顔を上げて虚子のほうを見つめ返した。視線がぶつかる。
「そういえば、そもそも何の用でここに?」
顔を上げた勢いのまま、噛みつくようにナマエは疑問を口にした。その問いかけに、今度は虚子が目を見開いた。
「……言っていなかったか」
「うん……。何か、連絡事項とかあるのかな、とは思いましたけど」
いちおうの建前として特務司書と転生した文豪は上下関係があるのだが、それにしては緊張感のない気の抜けたやり取りである。虚子はしばらくぼんやりと閉口して、それから溜め息をついた。毒気を抜かれてしまったというのもあるが、なによりどこかやわらかな呆れのような、そんなくだらない決まりの悪さが頭を過るのだ。虚子の様子に司書ははじめ首を傾げて、それからくすくすと笑みを漏らした。
「何だ」
「いや、虚子さんもそういうことあるんだなって」
要領を得ないナマエの言葉を虚子は訝しがったが、ナマエは自身の内心について語るつもりはないらしかった。あからさまに愉快がっているような視線が寄越されるのは、同門の彼を思い出して虚子としてはやや不愉快だったが、だからといって静止することもできない。諦めてやりすごす構えの虚子を横目に、ナマエは相変わらず申し訳程度に押し殺した笑みを見せた。
ときどき、ナマエはこういう表情を見せる。虚子がナマエにとって意外性のある行動を取ったとき、ナマエはどこか喜ぶように笑うのだ。
「……それで、虚子さんの用事ってなんですか?」
一頻り笑って、ナマエはやっと落ち着いた様子で話を本題へと戻す。目尻に薄らと浮かぶ涙の粒が、天井から下がる乳白色の明かりでいやに光っている。
「いや、先程も言ったが、忙しいようなら明日で構わないだろう」
虚子は少し考えて、それからそう口にした。左手に握られた書類は、執務机に隠れてナマエからは見えない。虚子の性格上、さして重要なものではないとはいえ定められた規程に反する行為を取ることはあまり気が進むことではなかったが、眼前の状況を見てさらに扱うべきことを増やすのもまた憚られた。
「ああ、うん……。べつに、今でも大丈夫ですよ」
「そうなのか」
けれどもナマエは存外落ち着いた様子で言葉を促したから、虚子は意外に思った。ナマエは誠実で勤勉な人物ではあるが、それとはべつに極端に奥ゆかしいような性格ではなく、他人に恐縮しきったりすることはあまりない。だから、その言葉がナマエが虚子のために無理を通しているとは思わなかったが、それでもちょっとした驚きはあった。
「いや、明日に回してもらったとしても、今の作業がそのぶん前倒しで終わるわけじゃないので……」
感心もつかの間、ナマエの疲労感が透けて見えるどころではない言葉に、虚子は納得しつつも呆れたように溜め息をついた。べつに、ナマエが勤勉で誠実な人物であることに疑うべくはない。ただ、ここまで不安を覚える言動をしているのはあまり見ないとも思う。基本的に気さくな人物ではあったが、それがある種悪い方向に働いているのかもしれなかった。
「ずいぶん苦労しているようだが」
問い詰めるというよりは純粋な疑問に由来する声音で尋ねる虚子に、ナマエは量の多さを上げた。それについては、虚子も否定はできない。一部の文豪が住むような荒れきった部屋ほどではないが、まるで雨後の筍のようにあちこちに置かれた書類の山は、視覚的にもあまり気分のよいものではないことは確かである。その繁雑さが視覚的な疲労感に拍車を掛けているのでは、と虚子は思ったが、同時にその整理をする余力があればこうも疲弊することもないだろうとも思う。追い詰められた思考の行き詰まりは、虚子も生前何度も経験していたので、決して軽視することはできなかった。
「それに、……言い訳みたいですけど、書類仕事ってちょっと苦手で」
「ほう」
手の中でペンを弄びながら、ナマエはぼんやりと呟いた。意外だな、と思う。虚子が見てきた中で、ナマエが書類仕事に対して苦手意識を感じている様子はあまりなかった。その苦手意識をいままで虚子が感じなかったとしたら、それはひとえにナマエの勤勉さが成すものだ。それこそが、少なくとも虚子にとってはナマエを信頼に足る人物とする――今日のくだけた振る舞いによっても揺らぐことがない――理由である。
「こまごましたもの扱うと、なんか余計に気を遣って、やたら疲れるので……」
「……まるで秉のようなことを言うんだな」
ナマエのあげた理由に、虚子は聞き覚えがあった。河東碧梧桐のものである。共に子規門下の双璧と称された旧友である碧梧桐は、虚子とはずいぶんと気質が違う。碧梧桐は身軽かつ気さくな気質で、この場においてナマエの考えと近いのは、寧ろ碧梧桐のほうだろう。碧梧桐とは相手を知り尽くしているがゆえの衝突からはじまり、さまざまな場面でぶつかり合うことは多い相手だが、碧梧桐とナマエが似ていると考えるのは、どこか興味深かった。
何気なく思い浮かべた虚子の言葉に、ナマエは呆気にとられたように目を瞠って、それから今度こそ押し殺すこともなく笑い声を上げた。震える指先からペンが零れて、からん、と軽やかな音を立てて転がっていく。想定外に笑い出したナマエを、虚子は呆れのような戸惑いのような、そんな複雑な感情が綯い交ぜになった様子でじっと眺めることになった。
「ふふ、いや、なんか、すごく神妙な顔で言うから、面白くて」
「そうか……?」
ナマエは目尻に浮かぶ涙をいい加減に拭うと、あてどなく机を転がるペンを手に取った。ナマエの笑うきっかけは、相変わらず虚子には杳として知れない。
「はあ、ごめんなさい、笑っちゃった。それで、結局要件ってなんでしたっけ」
息を整えて、くずれた姿勢を正して、それでもかすかに微笑みながらナマエは首を傾げた。ナマエの肩越しに見える中庭の池に、半月がゆらゆらと揺れている。月の位置は、虚子が司書室を訪ねてからの時間を表しているようでもあった。左手に携えた巡回報告書が、仕事があると言わんばかりに虚子の意識の中で主張する。少しだけ、居住まいを整えた。緊張しているというよりは、業務上において互いに立場のある人間関係を持つ間柄として、できることはしたかった。
「大分遅れてしまったが、今日十八時から二十四時までの巡回の報告だ」
差し出した報告書を受け取って、ナマエは頷いた。帝国図書館が新たな形式に移行してから行われるようになった有碍書の巡回は、基本的に特務司書の監督はなく文豪だけで行われる。そのため、そこで発見された物品や確認された異常に関しては、報告書という形で巡回当番後に司書や館長に伝達することが規則として定められていた。
もっとも、帝国図書館に集まる文豪たちはそうした規則についてはいい加減になりがちで、厳格に行われているとは言い難い面もあり、司書も仕方なく黙認しているのが現状である。無事ならよし、傷があれば補修室へ、という原則の下、巡回は当番制で行われている。
「虚子さんは、いつも報告書まできちんと出してくれますよね」
「当然のことだろう」
「ああ、うん、それはそうなんですけど……。虚子さんはうっかりの記入漏れとかもほとんどないから、そういう点でもすごく助かってるんです」
虚子の提出した報告書を指で辿りながら、ナマエはどこか嬉しそうに口にした。書面を追う目は伏せられて、艶のある睫毛がかすかに揺れている。ナマエの期待に、虚子は少しだけ口を噤んだ。間違いを犯さず、正しくあること。ある種の自責の形ではあれ、その期待は昔からずっと虚子の肩にあったものだ。新たな責務が課せられることは、虚子にとって決して厭うべきことではない。
文豪による報告書は、基本的に内容について特務司書が目を通して、最後に押印、もしくは署名を行う。それによって特務司書の保証を得、帝国図書館の正式な書類として管理される。印鑑を探す手間を惜しんでか、ナマエは今回は署名で済ませるつもりらしかった。筆先を署名欄の上で走らせながら、ナマエはふと、そういえば、と口を開いた。
「碧梧桐さんで思い出したんですけど」
「ああ」
「先週、碧梧桐さんに提出して貰った書類にちょっとした不備があって」
「……ほう」
言外にさまざまな意図を含ませた虚子の声に、ナマエは思わずといった風に顔を上げた。そこまで驚くことはない、と虚子は思う。曰く、書類に書かれた日付と曜日が食い違っており、正確な日時について再度確認する必要があるらしい。その様子は、虚子にも容易に想像が付く。碧梧桐はべつに意図的にそういった規則を蔑ろにするほうではなく、寧ろ基本的には指示には従うほうではあるが、細部に関しては虚子ほど気を払わない傾向もあった。
「私から呼び出すのも変な話だと思うので、できれば虚子さんが伝えておいてくれると助かります」
「わかった。秉には言い聞かせておく」
虚子が頷くと、ナマエは感謝を述べながら虚子の報告書を雨後の筍、つまり書類の山のひとつに重ね置く。そうしてペンをふたたび手にしたナマエの様子を見てみれば、確かに書類仕事に対して戸惑うような、臆病になるような、そんな傾向は見て取れた。けれども、ナマエが苦手意識を持っていることを知ったうえで見ても、ナマエの振る舞いは不足なく必要なものを補っている。
時折走っては止まる筆記音だけが、司書室を薄らと満たしていた。窓の外は相変わらず暗く、中庭のわずかな木々の隙間からはかすかに星が瞬いている。脳裏で、ナマエの言葉をぼんやりと反芻する。虚子は堪らなくなって、口を開いて、それから言葉を探した。
「……俺が、茶か何かいれてこよう」
「え」
筆記音が止まる。行き場のなくなったペン先の足下に、洋墨溜まりがじわじわと広がってゆく。指摘すればナマエは慌てたようにペンを離して、それからじっとこちらを見つめた。ナマエの瞳に映る自分が、不格好でなければいいと思う。正しく人を導くべき存在であればいいと思う。
「虚子さんは、巡回終わりで疲れてるんじゃないですか」
「だからだ。茶でも飲んで、多少とはいえ疲れを癒やすべきだ。俺も、お前も」
意図をもって言葉を強調すると、ナマエは諦めたように笑って、それから軽く頭を下げた。ありがとうございます、と零す声が、かすかに震えている。さらさらと揺れる髪をかき分けた先にほのかに赤く染まった耳を見つけて、虚子は目を瞠る。途端に、見慣れたはずの司書の表情がまったく異なる何かを秘めていることを、いっそ暴力的なほどに思い知らされた気がした。
星、近付いて
気付けば無限にこういう話を書いてる。碧梧桐さんを絡めた日常のなんとも言えない話が、わたしの虚子夢のサビなんだと思います。
title:Ise(わたし)