補修室の前で立ち竦んだ。かりかりという補修の音がするりと耳に滑り込んできて、それはナマエの精神を否応に引き立たせた。扉を開けることが怖くてこわくてたまらない。寝台のうえに力なく横たわる彼のすがたを見ることはナマエにとっての恐ろしさをたぶんに含んでいた。碧梧桐が喪失の一歩手前まで迫るようなおおきな傷を負ったときに、ナマエは高浜虚子のたましいを呼び出していたために彼らに助力ができる状況ではなかったから、碧梧桐の傷は数値ばかりが飛び交っている胡乱な状況だった。同じ会派で潜書をしていた菊池に彼のことを任せて、ことを急いて虚子の魂を呼び出した。助手にしていた未明に虚子のことを任せきりにして作業場を飛び出してしまったことはとても申し訳ないけれど、どうしようもなくなってナマエは補修室へ走った。補修室の扉に手を掛けたときに、はじめて自責の念がナマエの両脚を縫い留めた。
碧梧桐は、清流のように綺麗なひとだった。底の見えるような水にこわごわと触れたときの鮮やかさを、ずうっと湛えたままに晴れ晴れと飛び回るひとだった。ルーチンワーク式だった作業がひと段落してくっと背を伸ばしたときにくしゃりと頭を撫でられてから、彼女は長くその空想を抱いていた。だからこそナマエはこの短い時間のなかで既に碧梧桐のことを兄のように慕っていたし、彼のことをずうっと上の場所に位置付けていた。己はどうしてまだ迎え入れて日の浅い碧梧桐を過信してしまったのか、彼が苦しみを抱いているのはなかばナマエ自身の責ではあるまいか、そうして考えてしまうと扉を開く手が鉛のように感じられた。そうしてしばらく震える手を握りしめては開いたりしていると、不意に扉の向こうの椅子がかたりと揺れる音がした。ナマエはまるで悪戯を咎められたこどものようにぴくりと肩を震わせた。やがてこつこつという靴の音がして、からりと呆気なく扉が開いた。
「ナマエさんか、なにか用だろうか」
白衣がひるがえって奥の光景が隠されることは、ナマエにとって幸福であったのかもしれない。ひとつだけ、遮光カーテンがぐるりと覆われていた。森はナマエの悲愴なかんばせを見てなにがしかの緊急事態になったのかとすこしだけ目を見開いたが、その視線がついと後ろに逸れて、それから腑に落ちたようにひとつだけ頷いて黙りこくった。手の震えは収まっていた。森は玲瓏な印象のあるナマエが案外控え目で奥手であることを知っているひとだったから、おそらくはそれまでの言動をかんがみて推察したのだろう。ナマエはお騒がせしましたとひとつ伝えると、きゅっと唇を真一文字に引き結んで音を立てないくらいの速さでぴしゃりと補修室の扉を閉めた。補修室の反対にある壁にずるずると背を預けると、碧梧桐がはらはらと言葉にした秋が息をしていた。
(わたしは意気地なしだ……。謝ったり、いろいろなことをできるし、しなければならないのに)
幸いにしてこの廊下を通るひとはすくなかった。居住区域とは反対側に位置する廊下だったし、なによりいまは昼食の時間だからおそらく多くのひとびとが食堂に集まっていることだろう。おおきく息を吐き出すと、次第にぐずぐずとなってどうしようもないような自分の性質がひどく疎ましく感じられた。ナマエが生きていたなかで彼女の性格を美徳というひともいて、それとは真逆に悪性だというひともいたけれど、いまのナマエはでどうしても自分の性格が悪性のように思えてならなかった。森はナマエのことをよく知っているからいまさらいけしゃあしゃあとナマエが再び扉を開けても嫌な顔ひとつしないのかもしれないけれど、それではナマエ自身がつぶれてしまいそうなくらいだった。自分がどうして碧梧桐に会えないのかなんて、それはナマエそのひとにもわからなかった。ただただ合わせる顔がないという自戒の心持からかもしれないし、もしかしたらナマエは彼の痛みを自分のように思ってしまうのかもしれないと思った。ほんとうは自分の悪手を認められないちいさな虚栄心からかもしれなかった。ナマエは膝を抱えて、おおきな溜息を吐いた。
からんという足音がこちらへと迫った。おそらくナマエは立ち上がらなければならないのだろうけれど、自分のことを嫌ってくたくたになったからだは錆びついた錻力のようにざらざらとした緩慢な動きしかできなかった。柱の影からひょこりと姿をあらわしたひとは、蹲るナマエを目に入れた途端に早足で近寄った。ひょっとすると自分は体調を崩しているようにも見えたのかもしれないと思って、わずかに顔を上げてへらりと笑ってみせた。人影はびっくりするくらい純朴にその目を丸くして、それからかすかに安堵したように眦を緩めた。それから猛禽のように補修室の扉を睨むきゅっと細くした目の底はてらてらと燃えていた。虚子さん、とナマエはひそやかに声を掛けた。
「碧梧桐さんに大事はありません、もうしばらくしたら全快して普段のような快活なお姿になられると思います」
「お前はどうしてここで蹲っていたんだ」
「……恥ずかしながら、決心がつかなくて。碧梧桐さんを負傷させてしまったのはわたしのせいですから」
虚子はナマエの言葉を聞いてから、彼女と視線を合わせるためにかがんでいた身体をすっくと持ち上げた。ぱちぱちと目を瞬かせて彼の一挙手一投足をぼんやりと見ていたナマエの眼前に、虚子はペン胼胝とすこしのバットの握りあとでごつごつとしていながらすらりとした印象を与えるような手を差し伸べた。おそらく立てと言われているのだろうから、ナマエはすこしだけ彼の手に重みを委ねて立ち上がった。かりかりという補修の音は、はじめにナマエが補修室の扉に手を掛けたときよりずっとゆるやかなものだ。碧梧桐の見舞いをしてもいいのか、と手を離さないままに虚子はナマエに問いかけた。一応は問題ありませんと返答をすると彼はなにかを言おうとして唇を動かして、それからぺたりと口を閉じた。手綱を引くようにぐいと掴んだ手から身体ごと虚子に引っ張られて、虚子はなにも気にする風もなく扉の窪みに手を掛けた。ナマエは体勢を整えてから虚子のかんばせを覗き込んだが、その瞳の底に見えた火はただぱちぱちとうつくしく舞っている。
「……言えるうちに言っておけ、でないと後悔するぞ」
「え、でも」
「いつかなんてない、とくにあいつにいつかなんて考えるな」
そう口にした虚子の炎は、触れているだけのナマエの身体をも包んで燃やしてしまうほどに煌々としたものだった。がらりと音がするほどに早急に扉を開けた虚子に、森は瞠目して、それから高浜くんかと口にする。虚子はこくりと頷くと、そのまま白い幕が下ろされた寝台にぐいぐいとナマエを連れて行った。ちらりと窺った森の表情はすとんと落ち着いたものだった。虚子が寝台を覆うカーテンに触れた時に、布一枚で隔てられた向こうから寝起きの呻きのような声が聞こえた。虚子は躊躇いなくカーテンを開けた。ナマエは虚子のその即断に心底恐れをなして、並び立ったときに見える彼の横顔ばかりを見つめていた。
碧梧桐は寝台に手をついてすこしだけ身体を起こしていた。ナマエのすがたを見ると繕ったようにへらりと笑って、それから虚子のすがたを目にして眼球が零れてしまうほどに目を瞠った。ややかすれてうわずった声でちいさく虚子の名を呼んだ。それから碧梧桐はナマエに向けるようにわずかに弱々しく笑ってみせると、心配させたかと茶化すように口にした。虚子は一寸苦々しい顔をして、俺よりもこいつの方がよほどだと言ってナマエの背をどんと押した。突然の衝撃にぐらりと足元を崩したナマエに碧梧桐はちょっとだけ驚いて、やめてあげなよ、とだけ口にした。ナマエはばくばくと跳ねる心臓を抑えて碧梧桐のそばに近寄って、ふかぶかと頭を下げた。ぐらぐらと慌てたようにナマエの様子を見てどうしたのかと言いかけた碧梧桐を遮って、ナマエはごめんなさいの一言を彼に投げつけた。碧梧桐はぱちぱちと目を瞬かせてからゆるく首を振った。そんなことはないと言わんばかりのやさしい眼だった。
「秉、大丈夫なのか」
「だいじょーぶ、っ」
碧梧桐は虚子に対してひらひらと手を振って、それからくらりと布団に倒れ伏した。さっと顔を青くしたナマエに碧梧桐は子供のように眉を下げて笑っていた。虚子はナマエのそばに回って碧梧桐の様子を見てから、すこしだけ眉を顰めてくちびるを噛んでいた。ふたりの重々しい顔に碧梧桐はどうすればいいのかわからないようにあわあわと手を動かして、それから布団を蹴飛ばして虚子とナマエを抱きしめた。碧梧桐のすこし跳ねた髪が首筋にあたってナマエがくすくすと笑うと、虚子は戒めていた表情をほどいていろいろなものを吐き出すように息をした。飛び出るかもしれないなんて思ってしまうような鼓動はいつしか規則正しいものになっていて、碧梧桐のたましいと、虚子のたましいと、それから#司書のたましいが重なった。重なった拍動は泣きそうな嗚咽にも心底楽しそうな笑い声にも聞こえて、ナマエは気分が落ち着くとともにじわりと涙が零れた。誰のものかもわからないやさしい指がナマエの悲しみの結晶を拭って、ナマエはほんとうにうれしそうに笑った。碧梧桐は悪戯好きのこどものようににっと口角を吊り上げると、最後にぎゅうと強く抱きしめてから腕を解いた。
「碧梧桐さん、ほんとに大丈夫なんですか?」
「うん、なんだろうね、そんなにしんどいのものでもないと思うから。 ……でも、うれしいなあ。俺、きよとナマエさんのために頑張ってこんなことにならないようにするからね」
碧梧桐はそう言って大輪の花が咲くようにぱっと笑ってみせた。ナマエはその言葉がうれしくてたまらなかった。わたしも碧梧桐がずうっと抱えていられるものになったのかと思うと、しあわせでたまらなかった。
夜汽車にのってもあなたから離れて
ゆける気のしないこんなご時世だから
以前双璧をがんばっていたときの産物のやつです。初めて書いた双璧夢だった気がする。今考えると解釈がすごく浮かれている……
title:よふかし