ナマエがゆったりと歩くとそれに伴ってコートの先が翻った。本当は空調の整った施設であるはずなのだけれども、視界いっぱいに広がる青色と魚たちがどこか寒々しい印象を作っていた。天板から明かりが取り込まれることがないために仄かに暗い回廊を、ナマエと虚子は歩いていた。硝子がふんだんに使われた外壁の向こうでは夜行性の魚がすいすいと泳いでいる。ナマエはたっぷりと視線を向ける時間を作りながら回廊を歩き、虚子もときおり立ち止まってぺたりと硝子の壁に手を押し当てては息を吐いていた。虚子にとってこの空間は考えるよりもずうっと不思議なもので、陽光の代わりのかすかな月光が魚たちの餌のようにふわふわと漂ってはこの光景を浮かび上がらせていた。虚子が近寄るとちいさな小魚は餌を求めるようにこつんとその壁にぶつかって、鼻を赤くして萎んだ様子で帰っていった。ナマエが僅かばかり置かれている洋燈に手をかざすと、途端にこの回廊は光を失ってだんまりになった。虚子ははっと息を呑む。ナマエは洋燈から手を退けて、ふわりと笑った。
 虚子とナマエは水族館に赴いていた。虚子が私的な買い物へ出かけたときにちょうど商店街がなにかの催しをやっていて、その一環として籤を引いたら偶然にもこの水族館の切符が手に入ったのだ。この切符の特異なところは、日程が決まっている代わりに夜間の観覧を主としてあつらえた非日常的なそれを楽しむことができる点だという。虚子は正直なところそういった自分の死後にうまれた娯楽についてはとんと疎いのだけれど、受け取ってしまった以上どうしようもなくて、自分たちの行動を管理する立場にある司書と館長に報告したのだ。ナマエからは、転生した文豪のことはごく少数の関係者以外には明かされていない厳重な秘密であるために夜間などのあまり意図しない外出をさせるわけにもいかないから、行くつもりなのであれば司書を伴ってゆくように、と言い含められた。その時点で虚子にとってはあまり意欲的なことではなくなってしまったから、新しいものが大好きな碧梧桐やこういう娯楽に一定の興味を示す師などに譲ることも考えてみたのだけれど、結局みんな「引いた虚子が行けばいい」と言って受け取ってもらえなかった。手に入れてしまったものを無駄に手放してしまうこともどうにも惜しくてナマエに都合を付けてもらった結果が、いまこうして魚たちに囲まれながら歩いている状況だった。訪れたくて訪れているわけでもなくて、その理由はほとんど偶然に近いけれども、虚子もナマエも値段相応にはこの幽暗で幻想的な場所を堪能していた。
「ここを抜けたら先が淡水魚らしいです」
「そうか」
「あ、あとお手洗いと自販機が向こうにあるんですけれど、なにか飲み物とかって」
「俺はいらないが、お前はどうだ」
「んーと、じゃあお言葉に甘えてお茶買ってきますね」
 そう言ってナマエはぱたぱたと回廊の奥へ消えていった。虚子はなおぺたりと硝子に手を重ねて、その奥にゆらゆらと気儘に泳ぐ魚たちをじいっと見つめた。なめらかにまあるく硝子を加工したこの回廊も、ここにくるまでに見た球体のようになっていた水槽も、河にいればたちまちこどもたちの餌にされてしまうような鮮やかな魚も、ぜんぶ虚子には見覚えのないものだった。大きく息を吸って、吐く。生きている。心臓が動いている。硝子に反射した自分のすがたは覚えのないものだった。おおきな魚が虚子に気が付いて、ごんという音を立てて壁にぶつかった。虚子ははっとして、それからくつくつと笑いながら硝子越しに魚の頭を撫でた。魚はまるで虚子の手を食べ物かなにかと勘違いしたかのように口を開けては水を吸い込んでいて、はくはくと空気を求めるように口を開閉する魚がどこかかわいらしかった。月の光は虚子の視界いっぱいを覆ってふわりと浮かび上がらせた。硝子から手を離して回廊の先を見れば、ナマエがペットボトルの蓋に悪戦苦闘しながら歩いていた。虚子はそちらへ向かって歩いて、なにも言わずにナマエの手からペットボトルを奪って蓋を開けた。ナマエはくすくすと笑っていた。
 淡水魚の区画には虚子が見たことのあるものもちらほらといた。碧梧桐や子規と無邪気に笑いながら川を眺めた記憶がよみがえって、はらりと落涙する。ナマエは虚子の様子を見てもあわてたりはしなくて、ただじいっと口を噤んで虚子から心情を吐露することを待っていた。ぐずぐずと鼻を鳴らす。ふたたびこの世に生まれ落ちて以来、虚子の涙は枯れることがなかった。ナマエは淡水魚たちを指先でつつくようにしてひらひらと躍らせていて、それにいともたやすく引っかかって彼女の思うとおりに動かされてしまう魚がすこし哀れでもあった。不思議な場所だ。どうしてもかなしくなってしまう。碧梧桐にこんなどうしようもなくて情けないような顔を見せなくてよかったと思うし、彼がこうして悲しむこともまた想像がつかないけれど、それでもきっと彼はこの魚たちを見て悲しく思うのだろうと思った。
「他の皆さんにも見せたいですね、この光景」
「ああ」
「……虚子さん、だいぶ目元とか涙の跡が残っちゃってますけど」
「う、なら顔を洗ってくる」
「はい、ここで待ってますね」
 やわらかく笑って手を振るナマエに、ほんとうに悪態をつくときはとびきりいじわるなやつなのにと思う。けれどもその悪態をいまの自分が引き出せるつもりはなくて、それよりもはやく生乾きになった涙の筋をどうにかしてしまいたかった。洗面台に手を突いて自分の顔をまじまじと眺めると、たしかに右頬にくっきりと色の違う部分があった。水を出すハンドルを捻って冷たくなった手でぐいとそれを拭うと、不意にほのかな熱が手に移っていった。おのれの体温と、そのうえでぐちゃぐちゃになって生温かくなった涙のかけらだ。虚子は自分の涙の塩辛さに、またぼろぼろと泣いた。子規さんの名前も秉のちからもふたりと抱いた大切な夢も、ぜんぶ自分のために奪っていってしまったときに虚子は人前では泣けなくなってしまったから、ナマエの前で泣いてしまったことはひどく羞恥心を煽った。いまだに涙がべったりと張り付くかんばせがかっと赤くなる。
 若くてみずみずしいままの手で蛇口から水を掬って顔に押し当てると、熱がだんだんと引いて行くような心地がした。鏡に映った自分は以前の自分とは似ても似つかないかたちをしていたけれど、こうして変化したことを恐れるくらいにはかつての自分とおんなじなのだろうと思った。ちり紙でぐいと顔を拭く。濡れそぼったそれを屑籠に捨ててナマエのもとへ戻ると、彼女はふらりと向こうの水槽へ移動しようとしていた。手を伸ばして彼女を引き留めようとして、それから口に出す言葉が見当たらなくて、閉口して手を下ろす。振り返ったナマエがおかえりなさいと言ってぱっとあざやかな笑顔を浮かべた。こういうとき、虚子はナマエのことを心底不思議で難解なひとだと思う。だれかを労わってねぎらうだけのやさしさと女性的なたおやかさを兼ね備えているというのに、ときおり距離を置いたようなちょうどいい冷たい空気をまとって虚子を落ち着かせることがあった。やさしさにおぼれてしまいそうなときに、ナマエは抑えるように虚子を突き放す。おおきく息を吐いた。
「虚子さん」
「どうかしたか」
「魚、かわいいですねえ」
「……顔面はともかく、たしかにひらひらと絹のように揺れる尾はかわいらしいな」
 ぶっきらぼうに言葉を返すとナマエはからからと笑った。いとおしげな視線を水槽に注ぎ込む彼女は美しかった。それは姿かたちに依るものではなくて、それよりももっとずうっと近しいなにかによって感じる美しさだった。虚子はひそかに詰めていた息を吐く。ナマエが移動した先の水槽は虚子の見たことのないような魚もちらほらと入り混じっていたが、そばに張り付いた説明書きを見るとその魚たちは北の寒い場所に住む魚たちらしかった。虚子さんはみたことありますか、とナマエが問う。虚子は黙って首を横に振った。わたしもです、と彼女は苦笑した。全国をぐるりと回るように歩いていた碧梧桐であれば見たことどころか食べたことのある魚もあったのかもしれないけれど、あいにく虚子は碧梧桐ではないから、その魚についてはずうっと知らないままだった。知っていたとしてもそれをべらべらと喋るたちではないから、どちらでもいいと思った。
「また、今度はみんなで来たいですね」
「そうだな」
「碧梧桐さんとかと」
「それまで待っている」
「!」
 ナマエは心底嬉しそうな顔をした。虚子がまたこの場所に来たら泣いてしまうかもしれないけれど、そのときはまた涙の枯れるまで泣いて、ナマエのつめたい空気で熱を冷やせばいい。碧梧桐が虚子と同じように泣いたら、それはもうさんざんに煽ってやって、ナマエから川の水のようなひんやりとした心地よさのある適度な距離で慰められてみればいい、と思った。虚子はかすかに笑った。
不治の夏

自分でもすごく気に入ってる話のひとつです。すごく好きな距離感。
title:よふかし