“研究のために必要な資金と設備を充分に用意してやろう。その代わり、組織に貢献し従属しろ”

持ちかけられた取り引きに乗り、男がカントー地方最大の裏社会の組織に入ったのはもう十数年前のことだ。

組織の人間は約束通り研究のために充分な資金と設備を男に用意した。

そして、自分の下についた一人のある研究員。

優秀な頭脳、助手としての的確なサポート。長く艶やかな黒髪に人目を惹く顔立ちをしていたが、いつも自信なさげに眉を下げていたのが印象的な女だった。

大した能力もないくせに男の容姿を目当てに擦り寄ってくる女達とは反対に、その女は黙々と与えられた仕事のみをこなしていた。その姿が男の目には珍しく映った。

他とは違う女に多少なりとも興味が湧いたのかもしれない。いつも生真面目に自分の下で働くアイツは、肌を重ねたらどんな“女”の顔をするのかと。

そんな些細な理由。

半ば無理やりに関係を持ち、何度も身体を重ねた。そこに愛はない。あるのは女に対して少しの興味。自分に従順なのはつまらなかったが、性欲処理の相手としては中々だった。

───子供ができたと報告されたのは、

「それで?お前はどうしたいんだ」
「わ、私は……あの、出来れば……」

顔を俯かせながら言い淀む女に男は生みたいのかと問えば、まさか男からそんなことを言われると思っていなかった女は驚きに目を丸くする。が、それも一瞬のこと。次の瞬間には女は花が咲いたような笑顔を浮かべ、肯定の返事をした。

心底嬉しそうに微笑む女を見たのは、これが最初で最後だった。



自分に暴力を振るう人だけれど、子供が産まれれば、家族ができれば変わってくれるのではないかと。

───それがいかに自分の愚かな妄想だったかを思い知るには、さほど時間はかからなかった。

「っあ、…ぅ、……!」

頭に強い衝撃。ぐらりと身体が揺れるそのまま床に倒れこむ。

自分を殴った男を女は怯えながら見上げる。

現実は、何も変わらなかった。

「…ああ、やはりお前はその表情が似合うな」

男は先ほど自分を殴った手で、今度は自分の頬をそっと撫でる。

男から与えられる痛みと温もり。そのどちらもがいまの女にとっては恐ろしかった。

このまま男の側にいたら自分はどうなるのだろう。

暴力を振るわれ、気まぐれに優しくされ。きっと自分は徐々に壊れていく。そして人形のように意思を持たず、ただ呼吸をするだけの日々を過ごすのだろうか。

(そんなのは、いや……)

じゃあどうすればいい?

自問自答に導き出される答えは一つ。

「…逃げ出したい」

男の手が届かないほどにどこか遠くへ















薄暗い室内の中、ふいに聞こえた幼子の声で女は思考を中断し何かあったのかと側に寄るも単に寝言だったらしく女は安堵する。

男との間に授かった子供は、一目で男の遺伝子を受け継いだとわかる容姿をしていた。

成長したら男と瓜二つの容姿になるだろう。

はた、と女はあることを思い出す。

親が暴力を振るう人間だった場合、半分以上の割合で子供も加害者になるということ。

(…この子も、もしかしたら)

男と同じように暴力を振るうようになるのだろうか。

可能性は限りなく高い事実に、自身の子供とはいえ眠る幼子の姿にひどく恐怖を覚える。

女は我が子から逃げるように視線を外し、痣ができている箇所に目を向ける。腕も、足も、衣服で見えないが腹にも。怪我はいずれ治るが、暴力を振るわれた過去は怪我のようには消えてくれないだろう。

男は女にとって初めて恋情を抱いた相手だった。

自分に暴力を振るう時とは正反対に、優しく温もりをくれた骨張った手も。
夜の闇を映したような濡れ羽色の髪も。
身体を重ねている時、普段とは違い余裕をなくした自分だけを映す切れ長の紫紺色の目も。

「……好きでした」

全て、過去の話。




───女が組織から逃げ出したのは、それから数日後のことだった。



* * *

男は煙を燻らせゆっくりと吐き出す。

女が組織から逃亡し幾日か経ったが一向に行方はわからない。

優秀な研究員、それも組織の機密事項も少なからず知っているのであれば上が躍起になって探すのも

男はもう一度煙草の煙を吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。

女の行方に興味はない。



「アイツはどこに逃げたんだ!!」
「必ず探し出しせ!!組織から逃げ切れると思うなよ!!」








結局自分は、男にとってただの都合のいい存在で。

変わってくれることを期待したのが間違いだったのだ。



今までも自分に対して暴力を振るうことは多々あった。殴られ蹴られる度に、お前はその表情が似合うのだと。そしてその後は気まぐれに優しくされる。


初めて恋慕の情を抱いた相手だったのだから、尚更。

あの人の側にいることはもう耐えられない。

組織から逃亡を企てる際、女には一つ懸念材料があった。

それは、男との間に授かった子供の存在。

まだ年端もいかない年齢の幼子に







「どうして、





「じ、じゃあ、どうして生んでいいなんて言ったのですか…!?」















夜の闇を映したような深い濡れ羽色の髪、つり上がった目尻。

男の科学者としての優秀な頭脳に目をつけた組織の人間が自分を引き抜くために提示した条件。









「虐待を受けた子供が親になると加害者になる割合は何%か知っているか?」
「っな、にを…!」

「約67%だ。自分はそうならないと思っていても半分以上が繰り返してしまう。断ち切れない負の連鎖だな」

「ミカゲ。いずれお前も俺と同じことをするだろうな」

唇を噛み、切れ長の桔梗色の瞳に苦しそうに歪ませる。

反論をしないのは、自分でもそうなるのだと薄々わかっているからだろうか。

「お前は本当に俺によく似たな」
「…嫌になるくらいにな」







髪を掴み目線を合わせる。夜の闇を映したような深い濡れ羽色の髪、つり上がった目尻。彩るのは桔梗色

“研究資金と設備を充分に用意してやろう。その代わり、組織に貢献し従属しろ”

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