自身の頬から、肩から血が流れるのも構わずミカゲは真っ直ぐに自身の父親を睨む。大切な主人を傷付けられた怒りでブラッキーは姿勢を低くし相手の喉元に食いつかんとする勢いだ。

対し、ミカゲの父親は楽しげに口角をあげている。側に控えるアブソルは静かに佇んでいるが、主人の指示があればすぐにでも鋭い爪で襲い掛かるだろう。

「ボスが負けたからってこのガキに腹いせか?大人げないってレベルじゃねえな」
「裏社会の組織に楯突くということは報復されても仕方がない。社会の常識を教えてやっただけだ」
「倫理観が欠けてるクソ野郎のクソみてえな言い分なんざ反吐がでるな」

昏い紫紺色から視線を一切そらさない。レッドに逃げろ、と一言だけミカゲはそっと溢す。

「でも、それじゃあんたが…」
「お前がいても足手まといなんだよ。どうせ今戦えるポケモンは殆どいねえんだろ?」

先ほどのサカキとの一戦で手持ちのポケモン達は確かに殆ど瀕死状態だ。加えて、ピカチュウの体力もあまり残ってはいない。そんな状態の自分がいては彼の言う通り足手まといになる。

そして相手は、かなりの実力者。恐らくミカゲと同等か、或いは。

静かに思考を巡らせていたレッドだったが「それに、」と続けたミカゲに意識を向ける。切れ長の桔梗色に宿るは絶対に退かない強い意思。

「…アイツは俺が戦わなければいけない相手だ」

親と子。二人の間には部外者が立ち入ることを許されない。言外に“邪魔をするな”と言われているのを感じ取り、レッドは無言のまま帽子の鍔を静かに下げる。

一触即発。今の状況を表すならこの一言だ。呼吸をすることすらままならないほどの緊張感。誰かが一歩でも動けば───はじまる。

「ブラッキー!」

ミカゲが相棒の名を呼ぶ。長年過ごしてきた相棒は指示がなくとも主人の意図を理解しているようだ。それは、トレーナーとポケモン同士の絆と信頼の証。

ブラッキーがゆらりとアブソルに近付きき、隙を狙い攻撃を仕掛ける。だましうちだ。対し、アブソルは鋭利な爪を活かしたつじきりで応戦する。

悪タイプ同士故に効果はあまりないが、それでいい。

ブラッキーは、レッドをこの場から逃がすための牽制の役目。

アブソルとブラッキーが交戦している最中にレッドは走り出す。互いに振り返りはしない。二人の少年はただ前だけを見据えている。

彼らの道が交わることはない。だが、トレーナーとして心が躍る一戦をしたこの相手は、何があっても一生忘れることはないだろう。

「“あくのはどう”!」
「“かまいたち”」

二匹の攻撃がぶつかり合う。余波は二人を襲うが、眉ひとつ、いや、瞬きすらしない。両者の実力は互角。故に、一瞬でも戦況を見逃せば敗北に繋がる。

とん、とブラッキーとアブソルが後ろに飛び退きお互い牽制し合うように距離を取る。

「まさかたった一人の子供に敗北させられるとはな。だが、このままで終わるはずがない」
「…どうだかな。いずれにせよ終わりがみえている組織に俺はいるつもりはねえよ」
「ははっ、随分とつまらない戯れ言だな。…ミカゲ。この組織から離れたとしてお前の居場所はどこにある?───あるはずがないだろう。生まれながらにこの組織の一員として手を汚し続け、光の差さないこちら側で生きてきたお前の場所はここにしかない」

口元に弧を描きながら昏い紫紺色が心底愉しそうに実の息子を映す。

少年の桔梗色の瞳が揺らぐ。

わかっているのだ。例えこの組織から逃れられたとしても、居場所など何処にもないことなど。

───それでも。

「…それでも、俺は。この場所で手を汚すことから、お前に──…実の父親に暴力を奮われる日々から抜け出せるなら、居場所なんてなくてもいい」

少年はいつだって、組織から、父親からの自由を焦がれるほど夢見てきた。だがその望みは、決して叶うはずのない夢物語だった。逃亡したとして、巨大な裏社会の組織の追っ手から易々と逃げ仰せるはずがないからだ。捕まれば、待ち受けるのは裏切り者への制裁。リスクを犯してまで自由を求めるつもりはなかった。───…最も、まだ年端もいかなかった自分を捨て組織から逃亡した母親は結果的に追っ手から逃れたらしいが。

たった一人の少年が首領を敗北に導かせたことにより、幼い頃より渇望した自由が手が届きそうな位置にある。

この好機を逃すわけにはいかない。

少年の傍らにいるブラッキーが主人の邪魔をするなというように低く唸る。少年の切れ長の桔梗色の目は、昏い紫紺色を確りと見据える。

「俺は、こいつらと一緒にここではない場所で生きていく」
「聞き分けがない奴だ。…まあいい。それが砂上の楼閣だということを身をもって思い知れ」

少年に立ち塞がるは実の父親。だが、自由を掴み取るには対峙を避けられない相手。

戦局は、まだ始まりを告げたばかり。



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