「さみー…」

いつまでも居座るツバキをやっと追い払い、ブラッキーとグラエナを連れて冬の夜空の下を歩く。

もう何度も(いや何十回か)俺の家に勝手に押し掛けるツバキに諦めたのはいつだったか。自然とため息がもれ、白い息が吐き出されればいかに気温が低いかを物語っている。切実に炎タイプがほしい。

「…ヘルガーいいよなあ」
「ブラッ!?」

友人のパートナーである、悠然と佇む黒いしなやかな体躯に二本の角を持つポケモンを思い出していると拗ねたような、怒ったような表情をしたブラッキーが俺の足に爪を立てる。

「単に炎タイプが羨ましいってだけだから気にすんな。いてて、爪立てんなって」

ヘルガーに嫉妬したブラッキーを宥めるために頭を撫でれば前足がようやく離され、対してグラエナは静かに俺の側に佇んでいる。

ほぼ同じ頃に俺の手持ちになった二匹だというのに、一体どうしてここまで性格の差が出たのか。

甘やかしすぎたか?と過去を振り返れば思い当たる節がないわけではない。むしろありすぎる。まあ、元々コイツの甘えたがりな性格なことも関係しているだろうが。

自販機でコーヒーを買い一口啜る。冬の寒さを感じる夜空の下、温かさが身に染みる。

微かに聞こえる足音。人の気配を感じ、視線だけをそちらに向ける。

柔らかそうなアッシュローズの髪に、灰色がかった青い目。俺より少し年下であろう男はこの地方では見掛けないポケモン、エルフーンを連れている。

「エルッ!」
「あっこら、勝手に押したら駄目だろ」

ポチリと自販機のボタンを押したエルフーンに男が嗜めるのを横目で見つつ、見掛けない人間とポケモンに警戒しているブラッキーを撫でる。

「寒いですね」
「、そうだな」

突然声をかけられ一拍遅れて返事をする。

先ほど買ったばかりだというのにまるで冷蔵庫で冷やしたような冷たさのコーヒーを飲んでいると、何やら遠巻きにこちらを窺いながら二人の女がひそひそと話をしている。

「あの…、スイさんですよね?」
「ええ、そうですよ」
「やっぱり!あの、私たち撮影見てました!」
「本当?ありがとう、嬉しいよ」
「もしかしてそっちのお兄さんも俳優さんですか?」
「は?」

いやどうしてそうなる。

それはそうと、女の言葉から察するに男は俳優らしい。人好きのする笑顔と柔らかい態度で女の相手をしているのはさすがというべきか。

「違うんですか?でもすっごくカッコいいですね。あ、このブラッキーお兄さんの子ですか?可愛い〜!」

女が無遠慮に触ろうと手を伸ばした瞬間、ブラッキーはいつになく低い唸り声をあげて威嚇する。

元々警戒心が強く他人にはなつかず、尚且つ組織にいた頃は実験を繰り返されたせいで人間嫌いなコイツは女だろうが子供だろうが触れられるのを極度に嫌がる。初対面なら尚更だ。

「噛み付かれたくなかったら触んな」

そう一言だけ言えば女は慌てて手を引っ込め、もう一人の女に声をかけ足早に街の方へと消えていく。

「あの子達、行ってしまいましたね」
「なんか悪いな。さっきの二人あんたのファンなんだろ?」
「はは、ありがたいことにそうみたいですね」
「エル〜…!」
「ああ、エルフーン。俺が直すからじっとしていてくれ」

先ほどの女に乱されたのだろう、エルフーンの綿毛がぼさぼさになっている。短い手で一生懸命直そうとしているがあまり効果はなく、見かねた男が苦笑いしながら直していく。

「そういえばお名前聞いてませんでしたね。俺はスイ。イッシュで俳優をしています」
「…ミカゲ」

端からみれば無愛想な俺の態度にも目の前の男、スイは変わらず人の良さそうな笑顔を浮かべている。

普段なら初対面の相手に名前を名乗るどころか会話すらしないのだから、今の状況は自分でも不思議だと思う。男の柔らかい態度と毒気のない笑顔がそうさせているのだろうか。

…なんとなく、なんとなくガーディが尻尾を振っているような人懐っこさを感じる気がしないでもないが。

「俺、秋にこの地方に来たことあるんですけどもうすっかり冬ですね。時が流れるのは早いなあ」
「前にも来たことあったのか」
「ええ。久しぶりに休みがとれたので旅行に。あ、でも三年前にも来ましたよ」

(───…、三年前)

その言葉に一瞬だけ目を伏せる。

三年前、一度解散したはずのロケット団が復活の狼煙をあげるも再びたった一人の子供によって解散させられたことは俺の記憶に鮮明に残っている。

(…あれから、もう三年か)

「三年前は役者としてまだまだ駆け出しで…。懐かしいなあ」

過去を思い出すように灰色がかった青い目が細められる。ふうん、と相槌を打ちながらすっかり冷えた缶コーヒーを飲む。

「まあ、今も未熟なんですけどね。でも、子供の頃からずっと夢だった役者になれて、こうして仕事をいただけて。本当に幸せなことです」

(………夢)

俺には到底縁のない言葉だ。

あの陰鬱で血生臭い場所で生まれた俺にとって、夢や希望なんて未来を照らすものは何もなかった。

生きるために、守るために毎日が必死だった。

実の父親からは暴力を振るわれて。
その父親の言う事に逆らえず、実験では両手ではとっくに数え切れないほどの命を奪って。

吐き気がする毎日だった。夢をみることなんて許されない───いや、“夢”なんて空想、知らなかったのだろう、あの頃の自分は。

けれど、物静かに佇む姿とは裏腹に黒髪から覗く激情を宿した紅い目をしたあの子供と対峙した時。

抱いたのは、息苦しさを感じるほどの羨望と、妬み。

そして気付かされたのだ。俺が心の内に無意識に望んでいた、決して叶うことのない夢。

あの子供のように、旅に出たかったのだと。旅に出て、ジムに挑戦して、リーグに挑戦して──…

普通ならば誰しもが経験するであろうことを、諦めざるを得なかった。

たが、それも過去の話だ。あの時のような鮮烈な思いも、全て。

今はただ、僅かに燻った言い様のない感情が奥底にあるだけ。

ブラッキーが一声鳴いて俺の足にそっとすり寄り、グラエナは静かに俺を見上げている。どうやら付き合いの長いコイツらには俺の心情はお見通しらしく、苦笑して二匹の頭を撫でる。

「つうか撮影に来てる俳優がこんなところでゆっくり話してていいのか?」
「ちょうど今日の昼で終わりだったんです。あとはイッシュに帰るだけなので誰にも文句は言われませんよ。ま、帰ったら撮影続きの毎日が始まりますけどね」
「大変だな」
「でも俺、今が最高に楽しいんです。芝居を通じて人々に感動や笑顔をもたらすことができる…役者という仕事は、俺にとって誇りであり生きがいなんです」

灰色がかった青い目が俺から夜空へと移される。

役者としての仕事が本当に好きなのだろう。語る表情は生き生きとしている。

「ところで、ミカゲさんはイッシュに来たことありますか?」
「いや、ねえけど」
「いつかいらしてください。ポケモンと人が共存する良い地方ですよ」

飲み終わった缶をごみ箱に投げ捨てれば綺麗に放物線を描き、カランと音が響く。

「じゃあ、俺はそろそろ行きますね」
「おう」

次はイッシュでお会いできたらいいですねと、会った時と同じ人好きのする笑みを浮かべ去っていく。

イッシュねえ、と呟いた俺の言葉にブラッキーが期待に満ちた紅い双貌で俺を見上げる。

「…行きたいか?」

尻尾を振り元気よく一声鳴いて答えるブラッキーと、肯定するように静かに俺を見るグラエナ。本当にこの二匹は対照的だ。

「いつか行こうな」

“いつか”と言ったものの、嬉しそうにしているブラッキーとグラエナを見ると行くのは確定だろう。

あの日焦がれた夢は決して叶わないが、コイツらが側にいるならそれで十分だ。

二匹の頭を撫でながら俺自身も顔が緩んでいるのに気付き、思わず苦笑いが溢れた。



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