コガネに続く道を歩けば聞こえるのは酔っ払いの喧騒、どこかで喧嘩をしているのか響く怒号。少し町を外ればそこは掃き溜めだ。

たまに絡んでくるのは態度だけでかくて実力が伴わない奴らばかりで辟易しながらブラッキーとグラエナで相手を一掃していく。
 
誰かと酒を呑むというのは昔の、というより組織にいた頃の俺じゃ考えられないことだ。付き合いで呑む機会はあっても回数はそれほど多くなかったように思う。

無論酒が呑めないわけではなく、何か──例えば、主に草タイプや毒タイプのポケモンが使う、相手を状態異常にさせる技を人間が死に至らない程度に調合した毒や痺れを引き起こす粉。それらを入れられて寝首をかかれでもしたら終わりだ。少しでも隙をみせれば命すら危うい環境下で過ごしてきた。

酒はもちろん食べ物だって迂闊に口に入れることはできなかった。人から渡された物なら尚更。

まあ、仮に毒だろうがなんだろうが万一の時のために耐性をつけてあるからある程度は大丈夫だが。

そんな俺が今さっきシラヌイと酒を酌み交わしたことが不思議だと他人事のように思う。

勿論シラヌイが毒を入れたりする人間だとは微塵も思っていないが、警戒することを余儀なくされる環境で長年過ごしてきたのだ。染み付いた思考はそうそう消えることはない。

けれど、出された酒に何の戸惑いもなく口をつけたのは、きっと絆された証なのだろう。

「…本当に、昔の俺じゃ考えられねえよなあ」
「ブラ?」

怪訝そうな表情で俺を見上げるブラッキーの頭を撫でる。

「きゃあっ!」

突如聞こえた女の悲鳴に何事かと思わず振り返る。酔っ払いあたりにぶつかられたのだろうか。鞄から物が飛び出し、しゃがみこんで周りに散らばっている物を必死にかき集めながらも何かを探すように視線をさ迷わせている。

誰一人として手を貸す者はいない。仕方がないと少し息を吐いてから女の方へと足を進めた。

「大丈夫か?」
「あ、ありがとう…」

拾い集めていると一枚のカードか目に入る。なんてことないただの身分証明書。だが、そこに書かれてある名前を見た瞬間、思わずどくりと心臓が一際大きく鳴る。

(この、名前……)

顔写真にも目を向ければ、俺と同じ黒い髪に自信なく下がった眉。深海のような瑠璃色の目は忘れられない鮮烈な印象をもたらす。

呼び起こされる微かな記憶と照らし合わせれば、自ずと導きだされる答え。

まるで三流映画やドラマのような展開に自嘲する。

(…一体何の因果だっていうんだ)

生んだくせに自分を捨てた母親と邂逅したのは。

「コ、コンタクトが…」
「は?」
「ぶつかったときに落としてしまったのかも…。プラスル、マイナン。手伝ってくれる?あっ、違うのよ、今は遊んでいる時じゃないの…!」
「…………」

二匹にじゃれつかれる光景を見ながらいろいろ大丈夫だろうかと心配になると同時に、本当に俺の母親かどうか疑わしくなる。

「暗くて見えねえし、誰かに踏まれた可能性もあるからもう見つからないんじゃねえの」
「う…、そうかもしれないわね…。手伝ってくれてありがとう。助かったわ」

柔らかく笑んだ瑠璃色の双眼が俺と交錯する。

街灯が少なく深い闇が辺りを包むこの場所だから単純に見えていないだけか、───それとも、捨てた息子の顔など記憶にないのか。戸籍上は俺の母親といえる女は、何かを手繰り寄せるように俺と視線を合わせている。

「…何だよ」
「ごめんなさいね、じろじろ見てしまって。…私ね、息子がいるの。きっと貴方と同じぐらいの年頃だなあって思ってしまって」
「…………っ、」

思いがけない言葉に口から声にならない声が漏れ、俺のことを覚えていたのかと、何かが込み上げてくるのを唇を噛むことで堪える。

「…私、自分の子供を捨てたのよ。それも、あの子が年端もいかないうちに」
「…………」
「酷い話よね。本来なら愛情を与え、慈しむはずの存在のあの子を私は突き放した。どんな理由があっても赦されることではないわ」
「…後悔、してるのか?」
「…勿論よ。どうしてあの子のまだ小さな手を取らなかったのか、悔恨に苛まれない日はないわ」

いつの間にか喧騒は止んでいて辺りには俺達しかいない。静かな夜に懺悔の言葉だけが聞こえる。

「ごめんなさいね、貴方にこんな話をしても仕方がないのに。でも、何故だか貴方には聞いてもらいたいと思ったの」
「…ずっと、」

どうして捨てたのだと思っていた。それは単純な疑問でなく、自分を生んだくせに結局は捨てた母親への恨み言。

年を重ねていくと同時に母親の記憶も薄れていき、どうでもいいと思うようになった。いや、正しくは感情に蓋をして平気な振りをしていただけだ。

“捨てるぐらいなら最初から生まなければよかっただろ”

そう言ってやりたかったのは過去の話だ。真意を知った今、伝えるべき言葉は違う。

「…ずっと、自分の子供を捨てたことに罪悪感を感じながら生きてるんだろ?…俺なら赦す理由なんてそれで充分だ。それに、自分の母親がそんな生き方をしているのなら……もういいんだと、俺はそう伝えたい」

“赤の他人”にこんなことを言われるとは思っていなかったのか、驚いたように目を見開いた後、ふわりと微笑する。

その優しげに細められた深海のような色をした双眸が、淡い記憶の中にある懐かしい姿と重なった気がするのは自分の都合の良い想像だろうか。

「…ふふ、ありがとう。でもこれは私が背負わなければいけない罰だから、降ろすわけにはいかないわ」
「…難儀な生き方だな」

先ほどの月のような儚げな横顔で過去を悔いていた表情とは違い、芯の強さをみせ微笑した顔に俺もつられて口角をあげる。

「いろいろとありがとう。気をつけて帰ってね」
「それはこっちのセリフだ。一人で大丈夫かよ?」
「ふふ、ここから近いし、何よりこの子たちがいるから心配いらないわ」

と、二匹を指差すも、好き勝手に遊んでいる。

「ああ、もう…。勝手に行動したら駄目じゃない」
「…本当に大丈夫か?」
「だ、大丈夫よ。それに、こうみえてこの子たちバトルは強いのよ?」

ね?と問い掛ければ二匹は元気よく返事をし、ようやく安心感が芽生える。

夜空を仰ぎ見てそっと目を伏せる。恐らく、二度と逢うことはないだろう。最初で最後の邂逅。

「じゃあな。───…、」
「…?本当にいろいろありがとう。…さようなら」

怪訝な顔をしているを見るに、最後の俺の言葉は耳に届かなかったのだろう。

伝える気はない。これでいい。遠ざかっていく母親の後ろ姿を目に焼きつけるように暫し見つめる。

珍しく静かにしていたブラッキーがいいのか?というように紅い双眼で俺を見上げている。グラエナも同様だ。二匹の頭を撫で、ふっと息を吐く。

「…いいんだ。親に甘えるような年じゃねえし、もしかしたら新しい家族がいるかもしれねえしな」

それに、あの男のことだから母親にも暴力をふるっていただろう。そんな男の面影を持つ俺がいたら苦痛なだけだ。せっかくあの男から離れ平穏に暮らしているというのに、わざわざ想起させる必要はない。

いずれ決着をつけなければならない昏い紫紺色が脳裏に甦り、自然と眉が寄る。

ふいに感じる温かな体温。二匹が側に寄り添ってくれているのだとわかり、頭を撫でる。

「…ありがとな」

一人ではない確かな温もりに表情を緩める。夜空に浮かぶ淡い光を放つ月は、どこまでも優しげに辺りを照らしていた。


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