明日にはこの地方を発たなければいけないのに随分遅くなってしまったと息を吐く。

そういえば、彼は最後に何と言ったのだろうか。首をひねり、先ほどまで彼がいただろう場所を振り返り見つめるけれど、そこには深い闇が広がっているだけだ。

恐らく自分の見間違えだと思うけれど、別れるときに親に置いていかれるような、そんな寂しそうな表情をしていた気がする。

「…あの子はいま、どうしているのかしら」

ぽつりと呟かれた言葉に返事はない。代わりに腕の中に抱えているプラスルがあくびをする。

過去を悔い、彼が私に前を向かせてくれた言葉をかけてくれたあの時、微かな月光に照らされはっきり映ったのは切れ長の鮮やかで美しい桔梗色の目。

あの子も同様の色を有していたけれど、まさか。

決して忘れはしない愛しいあの子と、先ほど出会った優しい彼。

可能性は限りなく低い。目の色が類似しているというだけで結び付けるのはあまりにも根拠が薄弱すぎる。

けれど、あの鮮やかで美しい桔梗色は、きっと。

後ろを振り返る。私を赦してくれた優しいあの子はもういない。

「ありがとう。──…ミカゲ」

名前を紡げばより一層愛しさが増す。

到底叶うことのない夢物語だけれど、ミカゲと、かつて愛したあの人とも一緒にこれからの人生を過ごすことができたらと願ってしまう。

取り返しのつかない過ちを犯してしまい、失った時間はもう二度と戻らないけど。

でも、今からだって遅くはない。たとえ昔のようにあの人に暴力を振るわれたって、私はもう決して逃げない。

いつか、あの子とまた会えたときには。

離れていた時間と距離を埋めるように目一杯愛して抱きしめてあげたい。

「ふふ、でも男の子だしあの年頃だからきっと邪険にされるわね」

けれど、優しいあの子なら眉を寄せながらも受け止めてくれるだろう。だから、そのときまで。

「元気でね、ミカゲ」

言葉に出した便りは夜空に溶けていく。あの子もこの同じ空の下にいるのだろうかと思いを馳せながら、星を見上げた。











































澄んだ冷たい空気と静寂に包まれるこの場所は相変わらず代わり映えしない。

煙草を吸いながら何もない光景を視界に入れる。野生ポケモンへの牽制のためにアブソルを出しているが、此方を警戒しているだけで襲い掛かろうとはしない。自分達の力が及ばないことを理解しているのだろう。実力の差がわからないほど愚かではないらしい。

やはり他を支配するのは圧倒的力だ。情などという生温いそれは必要ない。

俺と血の繋がったアイツは誰もが一目で親子と分かる容姿をしているのに、思考は似ても似つかなかったと想起する。

(…下らない)

絆だとか信頼だとか、そういった類いのものは酷く滑稽だ。そんなものに必要性を見出だせない。いや、見出すことすら馬鹿馬鹿しい。

俺にとって必要なのは、利用価値があるかどうかだ。

その点、俺の血を受け継いだ息子とかつて俺の側にいた女は実に優秀で利用価値があったといえよう。

生憎自分の息子だろうと俺の子を生んだ女だろうと、情などは持ち合わせていない。

ただ、あの女の深海のような深い双眸が柔らかく笑み、その表情が俺に向けられる度に悪くないと思っていたのは、恐らく───

そこまで思考を巡らせてかぶりをふる。最近ろくに睡眠を取っていないからそのせいだろう、こんな下らないことを考えてしまったのは。

寒さが身に染みて息を吐く。煙草のフィルターはいつの間にか短くなっている。

吸い終わった煙草をそのまま地面に捨て、先ほどの馬鹿げた考えを消すように靴底で踏み潰し二本目に火をつける。

煙を燻らせた向こうには、柔らかく笑む瑠璃色の双眸が俺の側から姿を消したあの夜のような静寂と微かな月明かりが降り注いでいるだけだった。


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