はちみつ。

「おはよう。」
「ああ、おはよう。」

今日もいつも通りの朝にコーヒーとフレンチトーストと言ういつも通りの朝食。
そしていつも通りの"隣人"。

「私思ってたんだけど、コーヒーだけでよく昼まで持つわね…?」
「そうか?案外行けるぞ。」

隣人。文字通り"隣にいる人"。

小学校のとき隣に越してきた彼の名は赤井秀一。
母親がイギリス人で父親は日本人。
彼の容姿も日本人とよく似通っていて(しかもイケメン)、学校でも注目を集めていた。

対して私は父親も母親も普通の会社員だった。
容姿だって極めて目立ったものもないし、運動神経も学力もずば抜けてよかったわけじゃない。
クラスでは出来るだけ目立たないように生きてきたし、図書室に通うような、友達の少ない人生を過ごしてきた。

そんな私と彼であるが、どうして10年近くも一緒にいる事になったかと言うと。

「そう言えば例の出版社、やっぱり新装でホームズの文庫出す気よ。」
「……そうか。彼処が最後の砦でもあったんだがな。」

言わずもがな、二人とも"シャーロキアン"である。
小学校の時は読んでいる人も多かったしお互い対して意識していなかったが、そのまま持ち上がった中学になると本を読む人間が激減、結果、悪目立ちして彼に正体がバレてしまったという訳。

彼が途中で引っ越してからは連絡先も知らないしそこまで特別興味があったわけでも無く特筆するような事件は何も無かったが、大学でまさかの再会。
私はホームズ好きが幸いしてか不幸してか犯罪心理学をそのとき専攻していて、他専攻の彼が自分の興味だけで取っていたが為だった。

なんとなくお互い頼れるところも人も無かった事情から自然に一緒にいることが増えた。
その間に私は彼がこれからどうしようとしてくか知ることになるし、彼は私の野望を知る事となる。

そしてそれがきっかけとなり、今に至る訳であった。

「今日の会議、貴方は出るの?」
「いいや、生憎組織の方の動きが緊迫していてな、潜入する事になったんだ。」
「……そう。」

当時の私の野望、それはFBIに入る事だった。

きっかけと言えば当時本国で放送していた「SHERLOCK」__シャーロック・ホームズの世界を現代版にアレンジした超人気ドラマ__だが、それに私はドハマリしており、今思うと大分生半可な気持ちでFBIに志願していたと思う。

彼らが護るNYやワシントンは田舎から出てきたばかりの私には凄く魅力的に思えたし、もちろんシャーロックの卓越した推理力にも相変わらず惚れていた。
当時憧れであった心理学の教授が制作に協力していると言う安易な理由で見始めたものだったが。

まぁそんな事や他にも色々事件があり、そうなりたいと思っていた。
そう思っているところに出現した彼は私にとって充分運命的だったし、恋に落ちるのにも充分だったのは言うまでもないかと思う。

小さいときから女の子に囲まれていたし、大人になったらもっと格好良くなるのは幼いながら小学生当時の私も予想していたが、それの比ではなかった。
母親がイギリス人であるだけの英国紳士ぶりに加えてミステリアスな雰囲気は大学生になった彼には似合いすぎていて、まるで王子、ビジュアル的には騎士の方が合うが、まぁ取り敢えずそう言う扱いだったのである。

こっそり出来た(彼は気付いていたけど)ファンクラブに、彼の隠し撮り写真も闇取引されていた。
犯罪心理学を学んでいた生徒達からしたら彼女達は完全に学習対象であり絶好の教材だったのだが彼女達はまだそれに気がついていないと思う。

大学を卒業してからも彼のモテぶりは私のなけなしの友人から聞いていたし、一緒にいるものの到底手の届かない人物だということは分かりきっていたので半年もあれば諦めはついた。

しかし、ここで神は私のやっと諦めのついた恋心を無理矢理捻くり出すような真似をしてくる事となる。

FBIは通常、数年間社会経験が無いと入れない。
私は卒業後すぐに引き抜きがあったので意外とすんなり入れたのだが、彼はそれを断って実際に試験を受けることを選び、しばしの別れを告げていた。
その後は前述の通り、彼への恋心は冷め切っていたし対して意識もせず、忘れかけていたくらいだった。

せっかく忘れかけていたのにも関わらず、数年後彼はうちに配属されたのである。

ブラックも名高い我が課が追っているのはとある組織であり、優秀な彼がそこへ駆り出されるのにもなんとなく納得出来た。

「潜入、ねぇ。」
「ああ、という訳でお前とはしばらく朝食を共にすることは無理そうだ。」
「OK。んで、どうやって潜入するつもり?」
「一人、女に目星が付いてる。」

彼が視線をやった先に目を向けると余りあからさまに見てやるなとしかられたが、彼女は日本人のようだった。
なるほど、恋人の趣味はお母さん譲りな訳ね。

「彼女はどうするの?あの子を引っ掛けるんでしょう?」
「別れた。」
「え?ジョディと?」
「ああ。俺は一度に二人愛せる程器用じゃない、と言ってな。」

溜息を吐く。
どうりであの子の元気が無かった訳ね。

どうしたのと聞いても答える気はなさそうだし、取り敢えず呑みに誘っても一向に回復の兆しなし。
何があったのかわからないまま、時間が解決した、みたいな感じになっていたが、そう言う訳だったとは。

「貴方、最低ね。」

彼の仕事にひたむきな姿は課内でも一定の人気を博していたし、仕事一本の人間が集まる場所でもそれなりに人気だ。
その数ある女性の中で彼を一番初めに射止めに掛かったのが今迄付き合っていたはずの彼女、ジョディだった。
ジョディは明るいし、周りからの人望もある。
諦め半分の中彼を追い続けてしまう私とは違って行動力もあれば、自分に自信もある。
そしてなによりも、自分の感情を表に出すのが上手かった。

そんな完璧にも近い子が彼の彼女になるのは至極当然のように思えたし、大学時代からそういうのには慣れてきた私にはもう嫉妬の二文字すら頭に浮かばなかった。

私の恋心は何時も一方的だし、もう片想い出来るだけ幸せだとか、彼の隣で朝食を食べられるだけで良いとか、完全に消極的な方向へ走って5年近く経っていたから。

彼女と彼が付き合う事に納得していたからこそ、その言葉を聞いた瞬間には悶々としたものがあった。

二人がある程度上手く行っていた事は知っていたし、お互いに喧嘩した事は多分数えられるくらいしかない。
そんな状況下で、ハニトラ相手と付き合うから別れてくれ、なんて言われて彼女は納得しただろうか。
納得してないからのあれなのだろうが、その前にそんな理由で別れを迫る彼に嫌気すら差した。

「それ、本心なの?」
「半分くらいはな。もう半分は、彼女の為を思ってだ。」
「でも彼女、まだ貴方のこと好いているわよ?どうして、」

そこまで言って、大体の想定が自分の中でついた。
どうせ此奴の事だ。大方自分じゃ彼女には不相応とかそう言う事だろう。

「やっぱり言わなくていいわ。余計彼女が不憫になる。」
「そうか?多分君が思ってる理由とは違うぞ?」
「いいえ、違わないわ。何年一緒にいると思ってるの、それくらい想像はつくわ。」

貴方に言わせればまだ無能な私にも、と嫌味を付け加えて、コーヒーカップと皿を片付けようとカウンターに向かう。

ふと、カップの底が目について、じっと眺めてしまった。

いつも私が飲むコーヒーは底に豆の粉がこびりついて洗うのが大変だ。
なのに、今日は何もない、キレイなカップの白が見えている。

それを見た瞬間、幼いときの思い出が脳内で上映される。


人付き合いが苦手で保育園でも上手くいかず、どうしようもなくなった共働きの両親は私を祖母の元へ預けていた。
祖母の趣味は占いで、そこは流石に女の子だった私も食いついた。よく占ってもらっていたし、その種の手習い的なことも(両親は止めていたけど)してもらっていた。

その時。

その、大切な人がこの世から消え去ってしまう数週間前のことだった。
どこの国発祥だったとか教えてもらった気もするけど、もうそんな事は覚えていない。
ただ、占いの最も不吉な部分だけを記憶していた。


もう一度、手元のカップの底をのぞいた。
何度見ても結果が変わりっこないことなんて、今までの経験から判り切っていたけど、見ずにはいられなかった。
白い、底。残らない、豆。

あの人が死んだときと一緒だった。おばあちゃんが、しんだときと。

コーヒーカップ占いにおいて、白い底はその人にとって最も不吉なことが起こることを暗示していた。
今の私にとって一番嫌で、一番失ったら辛いもの、それを失うと言う事だった。

何だ。私が、大切にしているもの、って、失ったら嫌なもの、って。そんなの、あり過ぎて。


どうして、今。どうして、彼がいなくなる前なの。
そんなの、どこからどう考えたって、彼の身に何かが――

「おい、」

手元を見ると、もうカップは無かった。

「ああ、ごめんなさい。
ちょっとボーっとしちゃって。」

割れた白が、私を見つめていた。
自分でも意識しないうちにカップを落としてしまっていたらしい。
急いで破片を集めようとすると、手首を掴まれた。

「もし手でも切ったらどうする。お前の商売道具だろう?」
「え?ああ、大丈夫よ。これくらいで切るなんてそんなもろくないわ。」

貴方を、次は貴方を失ってしまうの?――そこまで考えて、この年になってまで占いを信じるなんて馬鹿らしいと思った。
大丈夫だ。ただの迷信、科学的根拠のない偶然。そんなものを信じるなんて、FBIのハッカー失格だ。

「お前、」
「え?」

見ると、指先から紅が滴っている。

ああ、もう駄目だ。なんでだろう、無性に泣きたいし叫びたい。

占いなんかで動揺する自分も嫌だし、数年前からの片想いを振り切れない自分も嫌だった。
結果、彼の心配した通りの結末になっちゃったじゃない、私。ほんと、だめ。

「・・・・・・ごめんなさい。」
「ごめんと思うならちょっとはその注意力とやらの育成をしたらどうだ。」

代わりに破片を拾ってくれている彼に、何時か消えてしまうかもしれない彼に皮肉を言われながら指に絆創膏を巻きつける。そう言えば昔にもこんな皮肉言われたなとか思いながら急いでもう一度破片を拾おうと取り掛かったらお前は馬鹿なのかと言われる始末。

「いいですよ私はどうせ馬鹿ですからぁ?」
「そんな事で怒るなんて本当にお前は昔から短気だな、だから失敗するんだ。」

この皮肉合戦もじゃあ今日で終わりなのか、とか、映画の中の女の子たちだったら考えそうな気もするけど、実際そうもいかないもので。結局本部までそれから一切口を利かなかった。



..............................




「さっさと降りろ。」

ワシントンの蜃気楼、物騒な事件、その中で私は彼の車に乗っていて、シートベルトを外す手を途中で止めている。

「おい、聞いているか?」
「え、ああ!ごめんなさい、今日なんか変ね、私。」

カチッと鳴った音に、作り笑いを浮かべて行き場をなくした声を自分を嘲るものに変えた。

ああ、どうしよう。
彼はこの次の瞬間からもう「諸星大」として潜入するらしい。
即ち、私と会話するのが無事に戻ってこられなければこれが最後になってしまうかもしれないという事。
それなのに彼は全然気にする様子も無くて、私は彼にとってその程度の存在か、と勝手に落胆。
結局最後まで恋してたのは私だけ、って訳。

「・・・・・・もう顔も合わせられなくなるが、大丈夫か?」
「何がよ、貴方なんていなくたって平気よ。」
「そうは見えないがな。」

君、さっき泣いていただろう。

そう彼は私に言った。

確かに私はカップを割る一瞬、泣いていたと思う。
はっきり言って私の意識外の事で、落としたことも割ったことも全て鮮明に理解できずにいた。

それを彼は、私が自分と別れる事で動揺している、と位置づけたのだろうか。
随分と自分に自信があることで、と思う一方、図星なのかもしれない、と自身でも分からない感情を当てたことに驚いていた。

彼は、私の気持ちに気が付いていたのだろうか。
昔から、ずっと私が貴方を想っていた事に。

そんな訳ない、だって私は完璧に隠してきた。
彼が色んな女の子たちに恋文を貰うのも、その配達役を買って出た事だって隠すのにはもってこいと思ってやっていたことだもの。彼に露見してしまうことなんてあるはずない。

だけど、ふとそう思った瞬間に口から零れ出た、二文字。

「・・・・・・好き。」
「何か言ったか?」

ああ、私は本当に、朝から何をやっているのだろう。彼に聞こえなかった事だけが幸いだったとしか言えない。
さっきから全く自分が理解出来なかった。

これが俗に言う恋の病なのか?
それにしても発症が遅すぎるからそれはない?

「ああもう、何を言ってるのよ私は!」

何もかもが分からないし、今頬を流れているこの滴は何なのかも分からない、分からないと言うより理解することを脳が拒否しているようだった。

気が付いたらしゃがみ込んで手のひらで顔を包み込んでいた。

「お願い、行って。気にしないで、」
「行ける訳無いだろう、昔からの"大切な友人"が泣いてるときに。」

そんなに俺と離れるのが寂しいかなんて茶化して聞かれたって、答えられるわけないじゃない。
私が苦労してきた約10年を沼に投げ捨てるような、そんな貴方に気付かれるような真似、死んでも出来る気がしない。

「馬鹿、ほんとばか。」
「人を無条件に罵るのはどうかと思うぞ。」
「煩い!」

そう言って私を包んだ彼の胸をポカっと殴った。
彼にはうんともすんとも効かないだろうけど。

「貴方は、"諸星大"になるのよね?」
「ああ、もう俺じゃなくなる。」
「じゃあ、今から言う事も全部忘れてくれる?」
「それはどうかな。」

じゃあ言うの辞めようかな、なんてぼやくと、何故か彼が焦って分かった、忘れるよと言って来た。
本当に良く分からない。昔から。

馬鹿、あほ、おたんこなす。

「あのね、」

排気ガスの中に残る僅かな酸素を吸い込む。



――私は今から、苦労してきた約10年間を泥沼に投げ捨てようと思う。