『私の進路は銀八先生のお嫁さんです』
『バカかおめー、俺はお前みたいなガキ興味ねーよまな板』
そんな話をしたのがつい最近のように思う。
でも、あの人の生徒でいられるのは、
これで最後なんだなあ。
▼△▼
卒業証書を丸めて配布された筒にしまい、徐に席に座った。一年間使った机は授業中に描いた落書きも残ったままで、この机で過ごした思い出がどんどんと溢れ出た。授業中ではうつ伏せになるための道具。昼休みは友達とご飯を食べるために使った。時には違う生徒に行儀悪く机に座られ、掃除の時間には別の生徒に運ばれた。そして
「──…」
担任の授業では、彼を見つめるために頬杖をつくための台だった。
同じように頬杖をついて見つめる先に彼はおらず、在校生が書いてくれただろう送りの言葉や可愛らしいイラストなどが描かれた黒板があった。
いつもは賑やかな教室も今は自分一人しかいない。
(もう、ここにいれるのは最後か)
卒業式なんて長い話を聞くだけの行事にすぎない。それが終わった後の教室にいる方がよっぽど自分が卒業するという実感が湧き、目尻が熱くなるのだ。
それでも、最後まで担任はだらしない目でだらしなくまとまらない話を簡潔にするだけだった。最後まで彼らしいといえばらしいのだが。
「おーここいたのか八代」
「…先生」
ガラリ、と教室の扉が開けられたかと思えば、視線を向けた先には銀八がいた。担任である彼はとても普通の教師とは言えない男だったが、どこか人を惹きつける魅力を持っていて何だかんだ皆に好かれていた。
紗枝も、そんな周りと同じで、だが周りより少し違う。
「お前、大学行くんだっけ」
「そうですよー」
「よくもまぁ受かったよな本当。お前みたいなバカが」
「それ教師が言う言葉じゃないんですけど」
銀八はペロペロキャンディーを咥えながら、教壇の横にある担任用の席に腰を下ろした。
紗枝の席は窓際の一番後ろという絶好の席だ。そして同じく窓際にある銀八の席。遠くではあるが正面に銀八がいる。まぁ、彼は外を見ていてこちらを見る気配はないが。
「…先生、私ねー」
「あ?」
「教師になろうと思うんだ」
「お前に教えられるなんて未来の子供も終わったな。せっかくゆとりも終わったってのに破滅の世代が出来あがるじゃねーかよ」
「ひっどい言い様だな相変わらず」
銀八は、妙な縁で三年間自分の担任であった。そんな生徒は稀にいることなので、それが奇跡といえる程のことではないと勿論分かっている。ただ、紗枝にとっては新しい学年になる日、担任を知って内心でとても喜んでいた。
『おーい八代さーん』
『なに』
『「なに」じゃなくて。進路希望がまっさらなんだけどコレ。何で提出されてるのか先生ちょっと分かんないんだけど』
『入学して数ヶ月、やっと高校生活に慣れてきたような生徒に卒業後のこと考えろって言う方が私には理解できません先生』
『うっせーなこっちだって言われてる立場なんだよ何でもいいから書けや。こんなん別に何の役にも立たねーからとりあえず書くだけ書いとけってんだよ。なに?魔法使いにでもしとく?』
『そこまで痛い子に成り下がりたくありません』
『じゃー考えろ10秒以内に。はい、10、9、8…』
『…じゃー先生のお嫁さんでいーよ』
『何だその1マイクロも愛のこもってない告白』
『だって愛なんか無いもん』
一年の夏に入る頃、銀八に呼び出されて進路希望を書かされたことがあった。未来のことなど考えるより今がいっぱいいっぱいだし、今が楽しくて今を満喫していたい年頃だった紗枝が、銀八に絞り出せと言われ何となく言ってみた“先生のお嫁さん”
先生に恋をするなんてそんな少女漫画みたいな話あるわけがないと思っていた紗枝。実際当時の彼女は担任も所詮は担任であり、一人の教師としてしか見ていなかった。
それが、一人の男性として見るようになったのはいつからだろうか。
一見ふざけた言動と行動、外見。授業中に煙草も吸ったことがある男だ。そんな彼を教師とは思えず尊敬の欠片も抱いたことはなかったが、己の中にある一本の真っ直ぐとした信念を垣間見せた時…あの死んだ目が不覚にも格好良く見えてしまった。
それから今まで、ずっと担任に恋する少女漫画モードが始まってしまった。
まぁだからといって、進路希望で毎回「お嫁さんになる」と言ったって相手にはしてくれなかったが。当然といえば当然なのだろうけど。
それでも良かった。そうやってアピールしているのも好きだったから。冷たいことを言いつつちゃんと相手にしてくれているのが分かるから、くだらない会話をできるだけでも幸せだった。
「もう俺のお嫁さんなんていうバカげた夢は諦めましたか」
一人思い耽っていると、まさに考えていることを相手から話題にしてくるから驚いた。銀八は相変わらず窓から外を眺めたまま。驚きで最初言葉が出なかったけど、銀八の横顔を見つめふっと笑みを浮かべた。
「それが残念。諦めていません」
「…あ?」
紗枝の言葉にようやく視線を向けてきた銀八に、更に笑みを深める。
「先生みたいに皆に好かれるような教師になってまたここに戻ってくるから、待っててくださいね」
「…何で俺が待たないといけねんだよそれ。俺に一生独身でいろってか」
「数年我慢してよ」
「バッカおめーは若いから大したことねーだろうが俺そんなに待ってたら列記としたオッサンだからね」
「オッサンでも先生をずっと好きでいる自信があります」
この手の話題には始終ポーカーフェイスでいる銀八が、僅かに目を開いた気がした。
「先生、好きだよ」
──思えば、「好き」と伝えたのは初めてかもしれない。
どこかで生徒と教師という立場に遠慮していて正面を切った告白ができなかったのか、と紗枝は内心で笑った。
“彼の生徒”というポジションが終わってしまうことを悲しんでいた筈なのに。
「…八代、その呼び方じゃあ一生俺の嫁にはなれねーぞ」
「……は?」
「自分の生徒、嫁に貰うつもりねーんだわ」
頬杖をついてにぃっと笑った銀八は、悔しいが格好いいと思える表情をしていた。
最後まで変わることのなかった彼の、見せてくれた違う一面。何となくそれは心を許してもらえているような気がした。不思議と笑いがこみ上げてきて、静かだった教室には紗枝の笑い声と銀八の溜息が聞こえてきた。
「…それじゃあ、私がお嫁さんになったら、その呼び方は通用しないね?銀ちゃん」
「……馴れ馴れしいなオイ」
(生徒じゃなくなったら結婚してくれるっていう意味で、受け取っていいの?)
やっと手に入れられた元担任の連絡先を見つめ、紗枝は小さく笑った。
分かりづらい人。でもきっと彼なりに気持ちを伝えてくれたんだろうと思って、自然と気持ちは舞い上がっていた。
大学生活も頑張れそうだ。