つかめもしない恋ならば


 たぶん、きっと、ものすごく酷いことを言ったんだと思う。僕の前では沈んだ表情さえ滅多に見せなかった彼女が、別れ際うっすらとだけれど涙を浮かべていたのだから。もう随分と寒さの和らいだ季節だったのに微かに震える腕を抱いて、それを悟らせないようにと穏やかな笑顔を浮かべようとしては失敗する彼女が、いじらしくて切なくて愛しくて、今すぐ駆け寄ってその肩を力いっぱい抱き締めたかった。もう信じられないほどふざけたことを言う男だと思われても構わないから「嘘だ」と囁いて「愛している、どうか傍にいてほしい」、と、そんなことを言えたらどれほど幸せなのだろうと必死に奥歯を噛み締めた。絶対にそんなことを言わないように。せめて優しく別れようとする彼女の言葉を、万が一にも遮ったりなどしないように。

「うん、そんなあなたが好きだから、…………さようなら──安室透さん」
「……さようなら、名字さん」

 背中を向けて歩き出した彼女の、風に靡く柔らかな髪を掴まえようと無意識に伸びかけた右手を堅く握り締めて落とす。当たり前だ。それを選んだのは自分自身なのだから、触れる権利なんて最初からずっとなかったんだ。

 でも、せめて。覚えていても、良いだろうか。
 君を愛した僕がいたことを、覚えていることくらいは、許されても良いだろうか。

***

「降谷さん?」
「え、あ、……はは、ごめんね」

 随分久々に聞く声にふと意識を引き戻された。久しぶりに彼に会ったから、こんなことを思い出してしまうのだろうか。先程まで電話に応じていた(恐らく奥さんであろうと推測する)彼、工藤新一くんは少し心配そうな表情でこちらを伺った。

「大丈夫ですか? お仕事が忙しかったり……」
「いや、ちょっと考え事を。それより新一くん、蘭さんと結婚したんだね」
「っ……は、はい、まあ」

 だろうと思った。薬指に嵌っている金色の指輪はまだあまり使い込まれていないようだし、2、3年前と予想する。当たっているかどうかは別段改めて確かめずとも良いだろう。あの頃から想い合っていた仲なのだ。3年前だろうと5年前だろうと、はたまた10年前だろうと大した違いなどない。新一くんと蘭さんはそういう関係性だ。
 あの大きな組織の関わった事件からもう随分と時間が経った。あの幼かった少年が(それはまあ飲まされた薬のせいもあったのだけど)今では自分の事務所を構えて探偵業を営む立派な大人だ。年月は日々過ぎていく。今日は先日偶然公安の捜査に居合わせた彼に捜査協力の礼を改めてしようと食事に誘ったのだが、そう礼を述べると「まさか公安の案件だとは思わなくて。余計な首を突っ込んですみません」だなんて殊勝に過ぎる返事が返ってきて驚いてしまった。何となく彼にはいつも自信満々でいてほしい気もするのだけれど、やはりこういうのも成長であると言うのだろう。
 そのことが何とも言えず嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。

「あいつ、最近連絡取れないんですよね」
「え?」
「、あれ、さっき、なまえのこと考えてたんじゃねーのかな、って思ったんですけど……違いました?」
「……どうして?」
「何となく? 降谷さん、優しいけどちょっと苦しそうな顔してたから。あの頃なまえを見てた目とおんなじ」

 事もなげに言ってのける新一くんに思わず声が詰まる。そんな目をしていたつもりはなかった。殊更に子供らしく振舞ったり疲れたように思わずため息を漏らすさまなんかを、概ね彼女の隣に居た目の前のあの頃は少年だった彼と一緒に観察していた覚えはあるが。

「そう、かな」
「はい」
「……それで、連絡が取れないって?」

 優しく笑うようになった彼の微笑にやや居心地の悪さを覚えつつ、やはり少し気になったので尋ねてみれば、「連絡が取れなくなったのはここ1、2年なんですけど」と話してくれた。

「あいつ、高校卒業してからすぐ渡米したんです。オレも卒業する直前に聞いたのですげーびっくりしたんだけど、向こうの方が向いてるからとか何とかって。それでまあ、暫くは定期的に近況報告したりしてたんですけど、それがここ最近ぱったり無くなって。電話掛けてもどうやら番号変えたみたいで繋がらないし、灰原も連絡つかないって言ってて。あいつのことだから大したことないとは思うんですけど、ちょっと心配してるんですよ」
「……最後連絡した時は何か言ってた?」
「確か──あと少しだから踏ん張りどころだ、とか。どういう意味か聞いたら、驚かせてあげるから待ってろ、とか言ってましたね」

 それだけでは何とも言えない発言だ。まあ、驚かせたいという意図がある以上当たり前なのだろうが。「へえ」と相槌を打ちながらこれ以上何かを尋ねるのも違う気がして口を噤む。
 新一くんの微苦笑を視界の端に捉えつつそれを深く追求するのもやめておいた。これは藪蛇のパターンだろうし。
 それからいくつか世間話をして彼らの幸福そうな近況に久方ぶりの微笑ましさを感じ、この後仕事が入っているのだと頭を下げる新一くんに首を振って伝票を机に戻させた。

「でも」
「いいんだ。今日はお礼だったし、いい話もたくさん聞けたからね。せめてこれくらいは出させてほしい」
「……そうですか? じゃあ、お言葉に甘えます。……降谷さんは?」
「まだもう少しゆっくりして行くよ。あの事件がひと段落したから暫くは休めるんだ」
「そっか、良かったです。それじゃあ降谷さん、お元気で」
「新一くんも」

 ぴんと伸びた背中を見送って、自分が年を取ったことをなんだか改めて実感した。彼と会ってふと思い出した彼女も、彼のように立派にもう自分で立てる大人になっているのだろうか。

「……それは、すこし寂しいな」

 今日の空は、彼女と別れた日の青空にとてもよく似ている気がするのだ。

***

 彼女の姿でやはり一番記憶に多く残るのは少女の時のものだ。甘え上手で誰が見ても愛らしいと思うであろう理想の少女として振る舞いながら、自分の前ではちょこちょこぼろが出ていたのはきっと当時思っていた以上に自分は怪しまれていたのだろうと今なら分かる。途中から半ば諦めたように自分の前で仮面を捨てた彼女に、ぼろを出した時のあの必死に取り繕うさまはとても可愛かったのに、なんて意地の悪いことを思ったこともあっただろうか。
 けれどやはり、彼女を思い浮かべて真っ先に脳裏に浮かぶのは最後に出会ったあの日の姿で。その頃僕は事件の収束に向けてあちらこちらを駆けずり回っていた時期で、彼女は彼女で日本警察はもちろんのことFBIやCIAなどといった海外機関からの事情聴取にうんざりしていたような時だった。これが警察からの最期の聴取だと伝えた時の露骨にほっとした顔に苦笑いしてしまったことを覚えている。

「なまえちゃん」

 聴取を終えた彼女を部屋の外で呼び止めて「送っていくよ」と声をかけたのは多分もうこれから先会うことがなくなるだろうと予感していたからだったと思う。彼女も恐らくそれを承知していて「少し遠いから助かるわ」なんて微笑んだのだ。

「でも降谷さん、お仕事は? いいの?」
「ああ。今日はもうこれで上がるつもりだったから」

 降谷さん、と彼女に呼ばれたのはこれが初めてだったはずで、今にして思えばあの時の彼女の言葉の響きを明確に思い出したいなどと考えるのだけれど、その時の僕には様々な要因からあまり余裕がなかったためにその時のことは朧げにしか記憶していない。そんな目の前の感慨以上に、彼女の別れの言葉を受け止めるための心の準備で手いっぱいであったのだ。
 車に乗った彼女がずっと窓の方を向いて話をしていたのは、きっと別れる場所を探していたから。時折聞こえる笑い声を洩らす顔が見れないのが悔しくて、彼女にそんな場所を選ばせる自分が歯痒くて、やたらとアクセルを踏み込みたがる自分を何とか律していた時に「ねえ降谷さん、ここで降りよう」と柔らかな声が聞こえた時、思わず泣きそうになってしまってぐっと唇を噛み締めた。

「……いいよ」

 彼女が選んだのは平日の午後の、人の少ない森林公園。穏やかな風に揺れる葉の隙間から差す透明な日差しを受けながら、少し前を歩く彼女に手を取られてゆったりとした歩調で歩く。絡めた指はひどく緩やかで少し手を振れば振り払える程度のものだった。ずっと昔に捨ててきたはずのそんな時間がどうしようもなく手放し難くて、出し掛けた言葉を何度も呑み込んでは違う言葉にすり替えた。彼女は他愛のないいくつもの言葉に、それまでとはまるで別人のような穏やかさで応えながら仕方なさげに笑っていて。

「ねえ、降谷さん」

 だからあれは彼女の優しさであったのだ。自然な所作で手を離した彼女が数歩歩いて振り返る。穏やかな風に靡く髪を押さえながらこちらを見据える彼女の表情は何の濁りもない無垢な「幸せ」そのもので。
 ──どうして。どうして、最後にそんな風にきれいに笑えるんだろう。
 いっそ泣いてくれれば良かった。怒ってくれたって良かった。そうして詰って、どうしてと縋ってくれたら、僕はその華奢な肩を支えてあげることが出来たのに。

「私、あなたのことが好きよ」

 そう言って微笑んだ彼女に僕が何と言って返したのか、今になってどうしても、思い出すことが出来ないのだ。


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