02


 昨日、空港の搭乗ゲートで見送りに来た部下に「ご機嫌ですね」と笑われた。顔に出したつもりはなかったので「そう?」なんて首を傾げながら、ああ少し気を引き締めなければな、と浮かれている自分を叱咤する。

「久々の帰国になるんですっけ」
「そうね、10年くらいになるかしら」
「それなら浮かれるのも分かります」

 自分も祖国を離れているらしい部下のそんな言葉に肯定の意を返しながら、多分この感情は故郷への恋しさだけではないことを私自身がよく理解している。この大役を任されたことへの責任感と高揚感、必ず成し遂げるべき使命と、それから──


***


 最初は苦手なタイプだな、と思っていたはずだ。秘密主義で、食えなくて、すぐに人を試すし、いかにもあなたの秘密を知っていますよとでも言いたげな笑みには正直辟易したし、あまり積極的には関わりたくなかった。でもこの事件に巻き込まれた経緯ゆえによく隣にいることの多かった名探偵の傍にいれば必然的に彼との接触も多くなるわけで。
 いつそれが恋だと気付いたのだっただろうか。何でもない時に彼に目が惹かれる瞬間だったか。彼が私に声をかけた時、そのことにあまり躊躇を感じなくなった時だったか。それとも彼がふと零す本当の顔を初めて見た時だっただろうか。本当のところはよく分からない。恋は突然落ちるものだ、なんて運命を謳う可愛くて優しい本たちはそう言うけれど、私の恋は落ちるものではなくて少しずつ侵食されるようなものだった。その感覚は少しだけ不愉快でもあり、心地よくもあったのだ。
 彼と過ごした時間はあまり長くないけれど、思い出すのは存外穏やかな時間のことばかりだ。少しだけ多めに盛り付けてくれるクリームソーダのアイスとか、新作のデザートの味見を頼まれた時のほんのり温かいパンプキンパイとか。彼はとても完璧主義者の努力家で、本来の仕事に必要のないことまで完璧にこなしてしまうから「この人いつ寝てるんだろう」なんて不思議に思ったこともある。
 思ったよりその疑問が的外れでなかったことをこっそり知ってしまった日があった。どういう案件が立て込んだのかまではまったく関与しないことだけれど、カウンターに立つ彼の目元に本当にうっすらと、隈が残っていたことがあったのだ。ここで不用意に労うのも何だか変な感じがして、カウンターの席からそっと「蒸しタオルをのせるといいよ」なんて呟けば、当然ながら耳聡い彼はこちらに気付いてぱち、と目を瞬かせた。

「何の話?」
「……目の隈。うっすら残ってる」

 声を潜めて尋ねる彼に合わせた声音でそう答えると僅かに彼は肩を揺らして「……気付かれないかなー、と思ったんだけど」と苦笑いを零した。

「まあそこまでは気にならないけど、目敏い人なら気付くよ。あつあつの蒸しタオルのせたら血流が良くなってほとんど目立たなくなるの」
「君も夜更かしした時はそうしてるの?」
「滅多にないけどたまにね」

 睡眠不足は美容の敵だもの。そう澄まして言えば彼がおかしそうに笑ったのを視界の端でそっと捉える。調子自体はあまり悪くはなさそうだ。もしくはそういう風に見せているだけかもしれないけれど。
 やはり3つもの顔を不自然でないよう維持するのには多大な労力を掛けているのだな、と今更考えるまでもないことを改めて実感したのがこの時だったような気がする。この人はどれほどの熱意と信念があってそれを成し遂げているのだろう、とも。
 きっと私には一生涯掛かったってその信念は理解できない。そもそも立ち位置が違いすぎるのだから当時の私にとって彼はどうしようもなく遠くて、言葉を交わすたびにいつも少しだけ寂しかったことを覚えている。

 だから、あの時、最後の聴取が終わって部屋を出たあと、彼に呼び止められたことに実は少しだけ驚いていたりしたのだ。彼と会うのもこれで最後か、なんて感慨深くもう何度繰り返したかしれない言葉を吐きながらそんなことを考えていたものだから、私はなんだかとても嬉しくてそれが最後になることを分かっていてもふわふわした気持ちを抑えられなかった。
 彼の愛車に乗るのはそれが初めてではなかったけれど、視線の高さが違うだけでも少し物珍しくて気恥ずかしかった。車内にいる間中ずっと外を眺めていたのは、運転席に座る彼を見つめていたら「このままどこか遠くへ行けたらいいのに」なんて益体も無いことを考える私を振り払うためだったと思う。
 別れる場所ならここが良い、なんて物分かりのいい振りをしながらも無闇とはしゃいで車を出た彼の手を子供の姿の時のように引いてしまったのは、私自身、まだ整理がついていなかったから。我に返ってはっと手を離そうとしたところで、彼の手がそうとすら分からないほどの力で静かに私の手を引き留めたものだから、もう引っ込みがつかなくなって、指先だけ緩く絡めると彼は見たこともないほど優しい顔で微笑んだ。
 ──この、ひとは。
 自分がいったいどんな顔をして笑っているのか、本当に分かっているのだろうか。そんな、まるで幼い子供がわらうような、何の衒いもない顔で。そんな風に微笑まれたら、私はもう、無邪気な振りをするしかないじゃないか。
 柔らかに頬を撫でる風は暖かくて、木々の隙間から差す光はとても穏やかだった。彼の話す声はやさしくて、少しだけ震えているような気がして、私はその時初めて彼と私がひどく近い距離にいるのだということに気が付いた。……ああ、それなら、しかたないか。やさしい声をいつまでだって聞いていたいけど、彼には守るべきものがある。仕方ないのだ。私は彼をずっとずっと遠い人だと思っていたけど、彼はこんなに優しく笑える。彼はこんなに温かい。それなら、……それならやっぱり、しかたないのだ。私が言わないと、仕方ないのだ。

「ねえ、降谷さん」

 温かな体温を惜しがる左手をそっと背中に隠して、精一杯のしあわせと、溢れるほどのすきを込めて。忘れてしまったって構わないから、彼の人生がどうか末永く、尊いものであればいいと。

「私、あなたのことが好きよ」

 泣く準備ならとっくの昔に出来ていた。それこそ彼を好きだと気付いた瞬間から。だって彼は私とは違うひとだ。自分の幸せよりずっと、誰かのための幸せに力を尽くすことの出来るひとだ。力を尽くすもののためにすべてを捨てられる自分を、何より誇りに思うひとだ。だから、どんなに酷いことを言われたって私は大丈夫なはずだった。涙が枯れるほどたくさん泣いてから、ゆっくりと彼のことを忘れて幸せになれるはずだった。

「僕には、命に代えても守らなきゃいけないものがある。君を……僕は、大切にすることは出来ない。君を僕の何よりも守りたいものには出来ない」

 そのはず、だったのに。

「だから、きみは、きみを一番大切にしてくれるひとと……しあ、わせ、に──」

 どうして。どうしてそんな顔をするの。どうしてそんなに泣きそうな顔で、震える声でどうしようもない言葉を言うのだろう。だってそんなの、私を大切にしたいと言っているようなものだ。私が何よりも守りたいものになってしまうと言っていることと同じだ。あなたにとって別れなんて手慣れたものであるはずなのに、どうしてそれで済ませてくれないの。思ってもいないことがありありと分かるそんな顔で、どうしてそれでも私の幸せを願おうとするの。幸せに、なんて言うくせに自分を忘れろとは、言わないの。
 ──そんなの、ずるい。ひどい。
 忘れろと言ってくれたら良かった。そんなものは勘違いだと、いっそ断じてくれたら良かった。そうしたら私は気兼ねなく泣いて詰ってあなたに縋ってやれたのに。これじゃあ私は駄々をこねてあなたを困らせる子供の振りさえ出来やしない。物分かりのいい大人の振りをして、さようならと笑顔で別れなきゃならない。今まで散々子供扱いして私のことをからかったくせに、こんな時だけ真摯な言葉を返すなんて卑怯だ。ずるい。
 こんな時だけ優しいのは、ずるい。
 優しい思い出だけ残されたら、私はあなたを、追いかけたくなってしまうじゃないか。


***


 「随分ご機嫌だな」と今朝電話口で上司に笑われた。さすがに昨日のことで懲りているつもりだったので自分のあまりの分かりやすさにその場で膝を折りそうになって、ようやくのことでため息を吐く。
 『まあ特別な任務だからな。気分が上がるのは分かるが浮つかないように』
 新人の頃でさえ受けたことがないようなそんな注意を思い出して情けないやら悲しいやらでゆっくりと気持ちを落ち着かせるための深呼吸をひとつ。ふざけた醜態など晒せない。だってこれは必ず成し遂げるべき使命であり、この高揚は務めを任じられたことへの誇りであり、そして何より、

「日本警察の皆さん、初めまして。先ほどご紹介に預かりました国際安全保障機構──日本支部統括を担当致します、FBI特別派遣捜査官、名字なまえです」

 追いかけてきた人に私がどれほど近付けたのか知るための、唯一の機会でもあるのだから。


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