03


 久々のオフに見慣れない番号から電話が掛かってきたと思ったら「久しぶり工藤くん。お時間あったらお茶しましょ」とあまりにも予想外の声が聴こえて、思わず手に持っていたカップを取り落とすところだった。
 蘭に行き先を告げるのもそこそこに事務所を飛び出して指定された喫茶店に向かうと、少しばかり大人びたような楽しげな笑みに出迎えられてほっと肩の力が抜ける。どうやら自分は思っていたよりも彼女のことを心配していたらしい。

「ど、したんだよ、いきなり」
「びっくりしたでしょー」
「あっ……たりまえだろ! オメー2年も連絡寄越さねーで」

 半年前は繋がった筈の番号に掛けて繋がらなかった時のオレの気持ちが分かるか、と向かいの席に座りながら詰め寄るとなまえは「ごめん」なんて軽く笑いながら身を引く。
 ──そういえば、そんな話を一週間前にしたばかりだ。受けた依頼が公安の案件だと知った時には冷や汗をかいたが、予想に反してその事件の担当だったらしい降谷さんに丁重に礼をされて面食らったものである。あんな風にあの人と穏やかな他愛のない話をするなんてあの時でも滅多になかったことで、ひどく物珍しくて月日は流れているのだなぁなんて妙な感傷に浸ったりした。

「そのあとちょっと大きな潜入捜査の任務があったから暫く連絡出来なかったの」
「潜入捜査……って待てお前、ホントに今何やってんだよ? オレはオメーがアメリカ行ったところまでしか詳しいこと知らねえんだぞ」
「言ってないもの。あなたも訊かなかったでしょ」

 悪びれずにしれっとそう答える彼女だが少し違う。聞かなかったのではなくてはぐらかされていたのだ。定期的に取っていた連絡も概ねこちらの近況報告でそっちはどうなんだと水を向けても「楽しい」だとか「充実している」だとかそういう意味合いのことばかりで具体的なことを何一つ彼女が漏らさなかったのである。その張本人が「訊かなかったでしょ」とは何とも忌々しいことだ。訊いたって答えなかっただろ、と返してやりたい。ただそんなことを言うと負け惜しみね、なんて鼻で笑われるのが目に見えるので言わないが。言わないが。
 けれどこうやってわざわざ呼び出してまでそんなことを言うということは何か言うつもりがあるのだろう、とそう訊ねると彼女はぱっと顔を華やがせて得意げに笑う。

「FBI捜査官。大学出て入ったの」
「……コネ的なアレか?」
「失礼ね! アカデミーにも行ったし捜査官試験も受けたわよ! もうすっごく厳しかったんだから!」
「分かってるって」

 コネとかそういう簡単な組織じゃないことも、そういうことに大して彼女が潔癖な質であることも。ただ、その、何というか予想外すぎて驚いたのだ。10年ほど前の記憶ではあるものの当時の彼女は荒事にはあまり慣れていなかったはずで、あの組織の事件に巻き込まれてから両手両足ではまったくもって足りないほど何度もあらゆる事件に遭遇したが彼女が死体を見慣れることはついぞ無かったし、恐怖という感情に身を竦ませる普通の女の子だったはずだ。だからこそオレはどんな形にせよ彼女は普通の仕事に就いて平穏な幸せを得るのだろうとどこかでそう安心していたのだけれど。
 カラン、と先ほどコーヒーと一緒にテーブルに届いたばかりのアイスティの氷の音がやけに耳についてふと息を呑む。
 彼女の視線が窓の外に向くと同時に息を吐いて出し掛けた言葉を口にした。

「それで、なんでFBIが日本に?」
「休暇……っていうのは嘘で、仕事よ。特別任務。先月だったかな、国連で採択されたの。国際安全保障プロジェクト」
「ああ……」

 その名称自体は知っている。知っているというか、あの組織の事件以降提案されたプロジェクトで、ある意味当事者であるとも言える。とは言えそれは、

「いやでも、あのプロジェクトって凍結してなかったのか? 事件の騒ぎが沈静化してから全然聞かなくなったから結局駄目になったんだと思ってたんだけど」
「凍結っていうか、議論が進んでない状況だったの。国の安全に関わることだから、あれも譲れないこれも譲れないって言ってたら二進も三進も行かなくって」

 詳しい話に関与していたわけではないので当時のニュースや一般に出回る資料からの継ぎ接ぎだがいわゆる国際的な警察組織を作ろう、というような計画だった筈である。まあそうなると国同士の利権や責任など様々な面で問題が出てくるのは至極当然といえば当然で。そういったものをどこが統括するか、どこが責任を負うか、など話し合ううちに次第にプロジェクトは断念されたものだというのが世間的な見解だった。

「まあでもあれからも色々あったしね……いつまでも机上の空論じゃ意味ないからってFBIが主導して安全保障体制の強化を図ろうってことで合意したの。その日本チームの、統括」

 まあ統括なんて大仰な肩書きだけどここ1、2年は試験的な運用期間だから私しかこっちには配属されないけどね。
 色々と急展開といえば急展開で、そうでもないといえばそうでもない話だった。とはいえ、

「そんなことオレに話してもいいのかよ? その、機密とかじゃねーの?」
「近いうちに会見で発表されるわ。あなたのこと信用してるし。どうせいつか事件とかでかち合うこともあるだろうし、今のうちに話しておいてもいいかって」
「軽……」

 まあ確かに最近大きい事件の依頼の類もあるので一概にそれは無いとは言い切れないけれども。
 事情は概ね把握できたがそれでもまだ疑問は残る。目の前の彼女はまったくけろりとした何でもない顔をしているが、FBI捜査官──それもそんな大きなプロジェクトを一任されるような立場であるということはそれなりの実績を上げているということで。それなりの実績を上げるということは大規模な荒事も何度か経験している筈で。彼女が物事を中途半端な考えで決めることがない性格なのを加味すればそういったことを経験する、ということも彼女はその道に進む前から分かっていた筈で。
 オレの知る10年前の彼女は、不条理なことに怒って理不尽なことに心を痛める人間だったけれど、決して正義感の強い人柄ではなかった。自分の確たる正義のために何だって捨てられるような誰よりも強い人ではなかった。
 からりと溶け出した氷を彼女がストローでかき混ぜる。シロップもミルクも入らないそれは10年前から変わらない好みで、そんなことに少しだけ安心感を覚えるほどオレは彼女と離れていたのだと今更のように思い返す。電話越しの彼女の声はあまりにも変わらないままだったから、そんなことさえ忘れていた。

「どうしてFBIなんかに」
「……あなたもそう言うのね」

 非難する風ではなく、むしろ不思議そうに呟かれたその言葉が気になって「オレも?」と訊き返す。彼女は頷いて思い返すように目を伏せた。

「捜査官になって少し経ってから、一緒に仕事をさせてもらったことがあるんだけどその時赤井さんにも言われたの。『どうしてFBIに来た』って」

 彼はまるで責めるような口調だったらしい、と彼女が言うのを聞いて、ああそうだろうなとオレは思う。あの事件の間も彼はよく彼女のことを買っていたようだったし、だからこそ危険な職務を望んだ彼女を気に掛けての言葉だったんだろうと。「心配したんだろ」と率直に言えば彼女は苦笑して「私じゃないけどね」なんて視線を上げる。

「どういう意味だよ?」
「あの人が心配したのは私じゃないってことよ」
「は、?」
「まあでも、そうね、何でかしらね」
「……」
「追いかけたく、なったからかな」

 そう言って彼女は目を細めて笑った。彼女がこんなに穏やかに笑えることを、オレは今の今まで知らなかった。彼女はこんなに優しい声色で囁けるのだということをオレは初めて知ったのだ。
 ──ああ、そうか。名前なんて言わなくても分かる。彼女はあの人を追いかけたくて、この道を選んだのだろう。
 「愛は偉大だね」だなんてあの人はいつかオレに言ったけれど、彼女にもあの人は同じことを言えるだろうか。追いかけたくて、同じ景色を見たくて、あの人と同じものを大切にしたくて、彼女が選んだこの道を、あの人は肯定してくれるのだろうか。

「……なんで警察じゃなかったんだ?」
「だってここじゃあ一人前になる前にあの人に会っちゃうでしょ。私は同じものが見てみたかっただけで、あの人に育ててほしかったわけじゃないわ」

 プライドの高い彼女らしい言い分に思わず笑ってしまう。なんだ、変わったように見えて実のところ彼女は何も変わってはいない。相変わらず自分がエリートコースを歩めると確信する自信家ぶりだし(実際この年齢で大役を任されるくらい優秀なのだろうし)、負けず嫌いも相変わらずだ。

「ねえ工藤くん」
「ん?」
「私、あの人の隣に並んでも、いいかな」

 それはとてもささやかで、あの頃の彼女にとってどうしようもなく遠い話だったのだと思う。そんな小さな願いだけで叶えられるほどのものではなかっただろう。彼女はどこまでも普通の感性を持つ普通の女の子だったはずで、それは今でもきっと変わらない。理不尽も不条理も折れそうになることも嫌なこともたくさんあったんだろうと、オレは推測でしかなくても確信を持ってそう言える。そんな道を選ばなくとも彼女には平穏な幸せがあっただろうにと少し痛ましく思う気持ちだってある。
 でも、それでも。ひどくしあわせそうに尋ねる彼女を心から肯定することがオレ以外の誰に出来るだろうか。他の何よりもあの人の隣に並び立つことが彼女の幸せだというのならば、きっとそれは、とても美しいことなのだから。

「ああ。そのために頑張ってきたんだろ」
「──……そうね」

 もう随分とぬるくなったコーヒーは、どこか少し甘い気がした。


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