世界は君を許しはしない


「風邪だな」

 少女は常と変わらぬ淡々とした調子でそう吐いた。……かぜ。掠れた声色で鸚鵡返しのように呟く。息が苦しかった。
 いつものように前触れなく訪ねてきたと思ったら玄関を開けた俺に呆れたような顔をして背を押されるままに寝室に舞い戻ったのが先ほどのこと。片付けるのを忘れていた布団に突き転がすように寝かされて「君、自分の体調のことも分からないのか?」と尋ねられた瞬間に初めて。異様に体が熱いことと手足の重だるさに気がついた。
 「生粋だな」と今度こそ呆れ返った様子で呟かれては返す言葉もない。

「正確には『ようなもの』だ」
「……? どういう、意味だ」

 ひとつ言葉を吐き出すのにさえ体力が要るのだとこういう時実感する。は、と上がった息は熱っぽいのがありありと分かる調子で、我ながらなぜ気付かなかったんだと思わずにはいられない。
 なまえは俺の様子を分かっているのかいないのか、少しそのまま待っていろとだけ言い置いて部屋を出て行ってしまった。遠ざかる足音をぼんやりとした思考の奥で聞いて、そういえば今日の彼女は何の用があったのだろうと疑問が浮かぶ。最初は、確か……見ていられなかったから。イレギュラーにも程がある俺の召喚(インストール)に然るべき答えを差し出したのが彼女だった。
 ──その英霊は君の可能性だ。
 いずれ成るもの。いつかそうだったもの。あり得たかもしれない俺の可能性そのもの。衛宮士郎という人間の、ひとつの完成がこの身に応えた英霊だった。応えたというより引き寄せたと言う方が正しいけどね。骨の髄まで衛宮士郎だな、君も──。滔々と語る彼女の口調は俺に説明を施しているようでその実どちらかといえば独り言にも近しいものだった。なぜなら俺は彼女の語った話の半分さえも未だ完全には解していないのだから。
 二度目は何だっただろう。お腹が空いたとかいう馬鹿げた用件だった気がする。高次の使い魔のくせにと悪態を吐けば「誰かのためじゃないと燃えないタイプだろう?」なんてふふん、と勝ち誇ったような顔で言う彼女にバレないようこっそりとカップラーメンを戸棚に戻した。
 三度目、負った傷の手当をしてくれた。魔術は使わないよ公平じゃないからな、とよく分からないことを言う彼女の巻く包帯は少しだけ歪によれていた。
 四度目、そうだ四度目だ。彼女がここを訪ねてくるのは。ほんの少し前までただのクラスメイトでしかなかった彼女と自分の間柄は随分とここに来て様変わりをしてしまった。別に彼女とだけに限った話ではない。あの日──美遊と初めて出掛けた、あの日から。
 美遊。
 頭を過ぎったその名前に俺は布団を跳ね飛ばして起き上がる。何をしているんだ、俺は。こんなことで休む暇なんてない。早く戦わないと。戦わなければ。何もかも捨てて、選んだ美遊を一刻も早く助けなければ。だって俺にはもう、そんなことくらいしか美遊にやってやれることは──。

「寝ていろ、と言ったのが聞こえなかったのか?」
「っあ……、なまえ……」

 いつの間にやら戻ってきていたらしいなまえは腕に風呂桶を抱えて入り口の障子に気怠げに体を凭れさせている。秀麗な顔立ちは苛立ちに顰められており、はあ、と彼女はため息を吐いてこちらに歩み寄ると布団の枕元に腰を下ろした。

「なまえ、その、俺は寝ている場合じゃ、」
「うるさい。まともに立てもしないくせに強がりを言うな」

 がしりと片手で顔を掴まれて問答無用で枕に押し付けられる。熱で茹だった体にはそれだけでも充分な刺激だったようで、ぐらりと頭の中が掻き回されるような目眩を覚えた。気持ちが悪い。
 う、と呻く俺に少しばかり溜飲を下げたのか、こちらを鼻で笑ったなまえはちゃぷん、と風呂桶につけ置いていたらしい手ぬぐいを取り上げて軽く絞り上げる。

「美遊、が……」
「うるさいと言っているだろう」

 声色は恐ろしく低いのに手ぬぐいを俺の額に乗せる仕草はひどく丁寧だった。額に触れた冷たさに思わずびくりと肩が跳ねる。

「士郎、いいか。君のその症状は魔力回路への外部的要因からなる刺激によっての活性化と過負荷であって──」
「待て、わるい、俺が悪かった。俺がわるかったから、今はむずかしい言葉を使うのはよしてくれ。頭が回りそうだ」
「……別に魔術師である君にとって難しいことは何一つ言っていないんだがな」
「……すまん、その、いまはちょっと、だめだ」

 説明された端から抜けていくのではなまえにも悪い。ぐるぐると胸の奥でとぐろを巻くえもいわれぬ重たい質量にふるりと頭を振って、やっとのことで枕元のなまえを見上げる。なまえは俺と目が合うと一瞬気の毒げにも見える表情で眉を顰めて幾度めかのため息を吐く。次の瞬間にはいつもの平坦な顔に戻っていたから気のせいかもしれない。

「簡単に言えば動きすぎてるんだよ、魔力回路が」
「……動くのは、いいことだろ……?」
「そりゃそうだ。魔術師が回路のひとつも動かせないんじゃ話にならない。でもそういうことじゃないんだよ」

 この場合問題になるのは動き始めた原因が、君自身の訓練という自発的な要因ではなく、インストールカードという外からの媒介を通してだというところにある。

「カードからの、影響を受けてるってことか?」
「影響を受ける、というような生易しい言い分じゃないな。無理やり同調させられている、といったところか」
「同調? 俺とあのカードが?」

 こくり、となまえは頷いた。曰く、あのカードに召喚した英霊の性能に俺が引っ張られているという話だった。

「その英霊の出自は話したな。君の未来、成るかもしれなかったモノ、並行世界の可能性……色々と言い方はあるが、基本的には同一人物と考えればいい。片方はカードという『役』だが、君がふたりいる。それは重大なパラドクスであり、世界との摩擦そのものだ。その摩擦をどう解消するか。片方に片方を侵食させるか、片方から片方との同一性を奪い取るか。この場合片方が『役』なのも手伝って世界は前者を選んだようだな」
「……カードに、俺を侵食させる、ってことか」
「そもそも同一人物なんだから魔力の波長も似通っていて、方向性も同じ。まあ引きずられない理由がない」

 そう言って彼女は俺が跳ね飛ばした布団を拾い上げ、ばさりと俺の体の上に落とす。

「インストールを繰り返せば繰り返すほど、強制的な同調はどんどん早まって君の身にはまだ過ぎた力が君自身を殺すだろうさ。今日のは体が悲鳴をあげた結果だな」
「……でも、このまま戦えなくなるのは、駄目だ」
「そう言うだろうと思ったよ」

 桜の手を取れなかったその日から、俺の道は決まった。俺は兄として生きる。美遊が幸せになるために、どんな手段でも使ってみせる。それがたとえ今までの自分を否定することになったとしても。絶対に、それだけは譲れないのだ。

「安心しろよ、士郎。言っただろう。原因は活性化と過負荷だって。同調の初期で魔力回路に負荷がかかり過ぎている状態なんだ、今は。一晩でも安静にしていれば最低限動けるようにはなる。あとは適当に魔力でも自分の体にぶち込んでおけば戦闘も……まあ不可能じゃない。勧めはしないが」
「……止めないのか」
「止めてほしいのか?」

 いや、と俺は首を横に振った。それでも、先ほどからなまえの言動には俺に対する気遣いや心配がところどころに見え隠れしているのは事実だった。やけに俺を見る目が冷めたものなのもそういう理由なのかと思っていたんだが、勘違いだっただろうか。勘違いなら少し恥ずかしい。熱でどうやら呆けた判断しかできなくなっているという証拠だ。

「──どうせ止めたって君は聞かないんだろ」
「なまえ……?」
「……なんでもない。水を持ってくる。いいな、今日は静かに寝ていろ。聖杯戦争の参加者にしたって、どうせまだ動いている奴も少ないんだからな」

 聖杯戦争の動きについて、彼女が何かを零したのは後にも先にもこの時だけになる。きっとなまえにとってその言葉は純粋な、友人たる俺に対しての言葉だったのだろうし、その時は俺自身もなまえがどういう心境でそれを示唆したのかわかるほど察しのいい性格ではなかった。
 なまえ、と立ち上がった彼女を引き止めたのはほとんど無意識みたいなものだったけれど、掠れて聞こえづらいこと甚だしかったであろう俺の声に振り向いた彼女に告げた言葉は紛れもなく本心だった。

「ありがとな。その……心配、して、来てくれたんだろ」

 どこかぼやけて判然としない視界の中では彼女がどんな顔をしていたのかまでは窺い知れなかったが、少し間を置いて響いたなまえの声はやけに優しかったものだから笑っていてくれればいい──なんて、そんな久方ぶりの穏やかな思考に少しばかり笑ってしまいたくなった。

「おやすみ、士郎」

181002


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