薄明かりに滲む


 山姥切長義、とそのひとは名乗った。光を受けて輝く銀の髪、澄み渡るような紺碧の瞳、西洋人形を思わせるほどの白い肌。まるで世界のすべてに祝福を受けたかのようにうつくしいそのひとは、刀のかみさまなのだという。
 最初は意味がよくわからなくて、何度か上司に聞き返した。だって刀剣男士というものは審神者によって顕現され、本丸で生活を送るものなのだとわたしはかつてその上司に説明を受けていたからだ。どういう意味でしょうか。よくわかりません。そう困惑するわたしに上司は「近々行われる任務の特例措置でね、」と苦笑いをこぼす。
「とにかく彼を頼んだよ。君が彼の傍についてやっていてくれ」
 そんなことを急に言われても困ってしまう。わたしは審神者ではないのだし、刀剣男士との接し方なんてなにひとつとして教わっていない。待ってください、と上司を引き止め話をするわたしに対し、その日彼はついぞ口を開くことはなかった。



「あの、山姥切さん、」
「ああ」

「すみません、山姥切さん」
「どうした」

「山姥切さん、こちらの件なのですが、」
「それはさっき修正案を提出しておいた」



 困った。ぽつりと呟く。
 何が? と呑気そうな顔で味噌汁を啜る同僚をわたしは恨めしい思いで睨みつけた。平日のランチタイムはうるさすぎない程度にざわざわと騒がしい。食堂の今日の日替わり定食はコロッケだった。数あるメニューの中でもお気に入りのおかずである。普段なら嬉々としてソースを回しかけて箸を伸ばすそれを、しかし今日ばかりはそんな気にもなれない。重い箸さばきでさくりとコロッケを崩しながら、はあ、と堪らない思いでため息を吐いた。
「あのひと、わたしより仕事が出来る……」
 ぶふ、と向かいの同僚が味噌汁を軽く吹いた。きたない。やめてほしい。げほ、と噎せながら慌ててテーブルに散った味噌汁を布巾で拭きつつ、「あの人って山姥切長義?」と同僚は漏れる笑いを堪えきれていない。まったく薄情な同僚だ。
「そうだよ、山姥切さん。ひとつ教えたら十のことができるし、パソコンも普通に使えるし、頭にいたってはわたしよりずっといいんだよ? ちょっと、笑わないで」
「い、いやそれは笑うでしょ……! 刀剣男士に仕事で負ける役人って何……っ?」
「うるさいなあ! だって思わないでしょ! 誰よ、刀剣男士にふつうにパソコンが使えるスキルを与えたのは!」
「いや、まあ……っていうか、でも仕事が出来るのはいいことでしょ。ラッキーじゃないの」
 自分の仕事、減るんでしょ。そう言って食事に戻った同僚はやはりどこまでも呑気としか思えない。時代はグローバル化だ。十数世紀前から人類が悩み続けている発展と同義の退化だ。つまり、わたしより山姥切さんの方が使えるという事実が判明してしまった場合、わたしは晴れて降格、左遷、最後は足切り丸投げポイだ。つまり無職になってしまう。それでは困る。わたしはまだまだ好きなことをしたいし、美味しいごはんも食べたいし、結婚相手は今のところいないけれどあと三ヶ月くらいで未来の素敵な旦那さまと出会う予定だ。予定は絶賛更新中である。
 わかっていない、と呆れて肩を竦めたのが癪に触ったのか、同僚がテーブルの下からわたしの足を蹴ってきた。地味に痛いからやめてほしい。湯気のおさまったコロッケをもう一度崩して、わたしはやっとのことでそれを口に運んだ。――やっぱり、美味しい。



 わたしの就活をサポートしてくれるでもない無益な同僚の話に付き合うのもそこそこにして、いつもよりだいぶん早くオフィスに戻ったわたしを出迎えたのは、彼ひとり以外に人のいないオフィスで黙々とパソコンの画面に向き合う山姥切さんだった。ぱちり、と瞬きをひとつ。
 確かに今までも彼はわたしがランチに出るその時も何かしら仕事をしていて、わたしが帰ってきたその時も何かしら仕事をしているひとではあった。ちらと時計を見やって、今が昼休みの真っ只中の時間であることを確認する。うーん、とわたしは少し躊躇ってから、でももしかしたら気付いていないのかもしれないし、とそうっと山姥切さんに声を掛けた。
 仕事中の彼に話しかけるのは業務連絡であってもいつも緊張してしまう。何せ、この世のものとは思えないほど美しい顔立ちの彼はただでさえすこし気後れしてしまうのだ。それが集中しているだろうと察せられる時であればなおさらである。
「……あのう、山姥切さん」
「、ああ、君か」
「もうお昼、過ぎてますよ。今からならまだ食べに行っても時間に間に合うと……ああいや、間に合わなくてもわたしから言っておきますし」
 いくらわたしより仕事のできる山姥切さんとはいえ、午後おなかを空かせたままでは少しかわいそうだ。腹が減っては戦はできぬ。オフィスは戦場である。
 山姥切さんはそのうつくしい瞳をきょとん、と何度か瞬かせてわたしを見つめる。くそぅ、睫毛が長い。肌もすべすべだ。こんなことが許されていいのか。……かみさまなのだからいいのか。
「……いや、必要ないよ。お気遣いありがとう」
 いつも硝子のように鋭く明瞭な声色が少しだけやわらいだような気がした。このひと、お礼とか言うんだ、とはなかなかに失礼な感想だろうと自覚はしているが、しかたがない。わたしはこのひとのお世話――お世話らしいお世話なんてついぞしていない――を任されてから一度も、このひとが人らしい振る舞いをしたところを見たことがないのだ。いや、べつに、かみさまなのだから人らしくなくても支障はないのだろうけど。
 と、いうか。
「えっお昼抜いちゃうんですか? だ、駄目ですよ、ごはんはちゃんと食べないと。栄養不足は体の不調の第一歩です! 貧血、吐き気、めまい、睡眠不良……とにかく様々な病的症状を引き起こすんですから! 食欲不振でも果物ひとつ口に入れるだけで違いますよ。いけません、人間……いえ、刀剣男士だって体が資本なんですから!」
 むしろ戦場に出ることを考えれば刀剣男士こそ体が資本である。わたしは知っている。食事を怠ることの恐ろしさを。みるみる体重が減っていくのに比例して体や心のバランスもみるみる崩れていくのである。なぜ知っているかって? 学生時代の無理なダイエットの副産物です。
 とにかく、それを経験してからわたしは決してごはんを抜いたりしないと心に誓ったのだ。三食きっちり。食べたい時にはおやつを食べてもいいのである。ただし運動もしよう。
 ひたと山姥切さんを見つめ拳を握って力説したわたしに彼は少しばかり面食らった様子でわたしの主張を最後まで聞き、「ああ、うん」と勢いに押された様子で頷く。さあごはんを食べてきてください。うちの日替わり定食のコロッケは絶品ですよ。きっと刀剣男士さまの舌をも満足させます。
「――いや、そうではなくてね」
 さあ、と促したわたしにふと我に返ったらしい山姥切さんはそう言ってわたしの弁を押し留める。くるりと椅子ごとこちらを向いた山姥切さんは顎に手を当てて「さて、なんと言ったものかな」などと呟いている。この仕草がここまで似合うひと初めて見た。かっこつけ感がまるでない。このひとの指先はきっとこのひとの顎に当てられるために存在したと言っても過言ではないほどしっくり来ている。なんだこれは。生きる芸術品だろうか。というか刀剣男士は「生きる」というカテゴリに含まれるのだろうか。
 そんなことをとりとめもなく考えていると不意に山姥切さんが息を吐いたような音を耳が拾った。何も呆れなくてもいいじゃないか。
「ふふっ……」
 ……? いや、これは呆れると言うより、
 笑って、いるのでは。
「はは、悪いね、心配をさせてしまったかな。俺が言ったのは食べない、ということではなくて言葉通り必要ない、という意味だったんだ」
「ひつようない」
 冷静沈着、クールビューティを地で行くほど表情が希薄だった山姥切さんの笑顔にキャパシティを大幅オーバーしたわたしには彼の言葉を繰り返すことくらいしか当分できそうにない。「ああ」と相変わらず口元に芸術品のような微笑みを乗せたまま、山姥切さんは頷いた。
「刀剣男士はね、基本的に食事を必要としないんだ。霊力があれば顕現時の姿のままで形を保てる。だから俺に食事は必要ないんだよ」
「え、でも」
「本丸に配属された刀剣男士は食事を摂る? うん、いい疑問だ。例えば君……お墓参りに行ったとして、墓前に供え物をするだろう」
 こくりと首を縦に振る。お墓参りなんて幼少期に二度三度、両親に連れられて行ったくらいだったがお菓子をちょこりと墓前に置いて、手を合わせたことはよく覚えている。帰り道の車の中でお供え物を食べるからわたしも食べられるものにして、なんてごねたこともあったかもしれない。
「供え物という文化は神の御前でも同じように行われる。これはそれそのものを食べるというわけではなくて供物へ込められた人の祈りや信仰を得る、というわけだから少し意味合いは変わるけれども、神がものを食べるということはあまり珍しくない。そうして俺――や他の刀剣男士たちは付喪神であり、物に宿る思いや祈りが形になったものだ。当然、古来より信じられてきた天津神や国津神と比べて神格は格段に落ちる。その希薄な存在を『在る』と定義づけるためにはどうするべきか? 食事というものを行えば必ず現世にその痕跡は残されるわけだ。刀剣男士は本丸という固有の場に自らの存在を示し、確立するために食事という『儀式』を行うんだ」
 立て板に水、とはこのことだろう。すらすらと出てくる彼の言説をわたしはきっと六割も理解していないのだろうが、「そうなんですね」と言わせる力がある。これも堂々と臆さず喋る山姥切さんの話し方ゆえだろう。まずい、交渉術まで負けてしまっている。勝てない。
「まあつまるところ存在を確立するという意味合いでいうならば人間の食事と概念的にもそう変わりはないんじゃないかな。ただ重点を人間は食事という行為そのものに置き、刀剣男士は食事の結果に置く、という違いだけだ」
「ええ、と……つまり、ですよ。山姥切さんは、ここに存在を確立させる必要がないので、食事を摂らない、ということでしょうか?」
「ああ、なんだ、存外物分かりがいいね」
 本当に意外そうに呟くのはやめてください。これでも国家試験通ってるんですよ。役人研修ではビリっけつだったけど! くそぅ、顔が良いからって何でも許されると思うなよ。
 ぎりぎり、と歯噛みしつつ、自分の言ったことにタイムラグを置いて少し違和感を覚えた。こういうところがきっと鈍臭いとか言われるんだろうな……と妙に落ち込んでしまう。
「山姥切さん、存在を確立させる必要がないんですか? 長いことお仕事するなら……」
「? ああ……そうか、聞いていなかったんだな。俺は今この任務が終わったらここの任から解かれることになっている。担当が優良な本丸であればそこへ送られ、優良でなかった場合は顕現を解かれ、また暫く倉庫入りだそうだ。癪ではあるが」
 ぽかん、と今度はわたしが目を見開く番だった。そんな、――いや、優良な本丸に送られる、というくだりはまだわかるにしても。そうでなくても顕現を解かれる? こんなに仕事のできるひとを?
「な、ど、どうして!?」
「俺に聞かれてもね。単純に霊力の節約じゃないかな。刀剣男士を維持するにもそれなりのコストが掛かるということだろう」
「こんなに仕事ができるのに……!?」
「ああ、これは褒められているのかな」
 べつに褒めてはいない。ちょっと忌々しくは思っていたけれど。「まあそういうわけだから」そういって山姥切さんは凛とした眼差しを穏やかに緩める。さらりとひかえめに流れた銀髪を耳にかける仕草はやはり息を失ってしまうほどにうつくしくて、わたしはきっとこれから先にこの彼以上に人を感嘆させてしまう人間をもう見ることはないのだろう、なんて益体もないことを考える。
 深い水底さえ思わせるような静穏な瞳が光を含んでわずかに弧を描くのを、わたしはただ言葉をのんで見つめることしかできなかった。
「少しの間だったけど君にも世話になったね。君に呼ばれる名は存外悪くなかった。礼を言っておくよ」
 はい、だとかいいえ、だとか。こちらこそお世話になりました、だとか。一介の社会人として言うべきことは色々あったはずなのに、喉につかえたそれらの言葉はなにひとつ空気を震わせることはなかった。
 言葉に詰まったままのわたしから彼はさして気分を害した様子もなく目を逸らして、ふたたびくるりと椅子を反転させてパソコンの画面に視線を戻す。キ、と安物のオフィスチェアが小さく悲鳴をあげるのがなんだかこの場にはまるで不釣り合いな山姥切さんを象徴しているようで、わたしは何かを得心して俯き、きゅっと唇を引き結んで自らのデスクに腰をかけた。
 ――ああ、でも、そうだ。せっかくだから、これくらいは言っておこう。
「あの、山姥切さん」
「何かな」
「審神者さんには、笑って接してあげたらいいと思います。……山姥切さんの笑顔、とても素敵なので」
「――――なるほど」
 それもそうだね、と。静かに呟いた山姥切さんの声は、なんだかとても優しく聞こえた。


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