夜風に紛れてしまうほどの、秘めやかな囁き声だった。
もうとうの昔に人間の体には慣れたつもりだったのに、その夜はなぜか冴え冴えと意識が鮮明なままどれほどじっと目を閉じていても眠りという感覚がどうにも手繰り寄せられないでいた。胸の奥が落ち着かない感覚に痺れを切らして長義は半ば意地で頑なに閉じていた目蓋をゆるりと開く。無意識に漏れたため息には僅かな焦燥感が隠しようもなく滲んでいた。
夜風にでもあたるか、と。それはある種逃避めいた考えだったのかもしれない。ひやりとした夜の空気など吸ってしまえばただでさえ掴み損ねているまどろみの気配がさらに遠のいてしまうことなど自明の理であったのだから。それでもその時の長義にとっては停滞した静けさだけが満ちる自室の空気よりも、冷たい夜風にざわめく木々の音の方がよほど意識が引き寄せられてならなかった。
ふらりと惹かれるように自室を出るときに枕元に畳んであった布を手に取ったことには何ら深い意図はなく、静かに自室の障子を閉めたあとでまるで外の冷え込みを気にしたような自らの行動に長義は随分と人間臭くなったものだ、と自嘲めいた笑みを零す。当然ではあったが廊下に明かりらしきものは見当たらなかった。物音といえば遠くからわずかに聞こえる虫の鳴き声と本丸の庭に植えられた木々の葉が擦れ合う程度のもので、日中に比べればほとんど無音と言っていいほど静かなものだ。
さほどの躊躇いもなく長義は廊下を踏み出した。この本丸に配属されてからまだ夜戦に出た経験はないが、長義が打刀である以上少なからず夜目は利く。夜の静謐に恐れを抱くほどに臆病な質でもなかった。
しかしまあ──さて、どこへ行ったものか。刀剣たちの私室が集まっているこのエリアは早めに抜けるべきだろう。己の都合で他者の眠りを妨害するなどというのは著しく信条に反する。書庫に行ったところでこの暗さでは満足に何か読み解くこともままならない。道場でも構わないが竹刀を振る気にもならないし、厨にはそもそも用がない。中庭で月でも眺めていればいいか、などとふと空を見上げて、今日が新月だったことを思い出した。通りで暗いはずである。
思いつく限りの共用スペースを思い浮かべながら当て所なく足を進めていたはずが、廊下を曲がりかけてはた、と長義は立ち止まった。考え事のせいか無意識のうちについ行き慣れた場所に歩を進めていたらしい。この角を曲がった向こうは審神者の私室兼執務室だ。いくら常日頃から近侍を任されているとはいえ、こんな時間に女性の部屋を訪ねることがどれだけ非常識なのかということくらいは理解している。引き返そうとまっすぐに踵を返したところで、思わず長義はぴたりと足を止めてしまった。
夜のかすかなざわめきにすら紛れてしまいそうなほどの秘めやかな囁き声が、ふたり分。
「……に……だから、……くて」
「……は……いる……」
声の片方が己が主のものであることにはすぐに気がついた。長義は気配を押し殺して壁に背中を預けると眉を顰めて耳をそばだてる。盗み聞きという体になるのは些か美しくなかったが彼女は普段ごく限られた刀剣男士にしか近侍や側仕えといった役割を任じない。そんな彼女が少なからず深くなったこの時間に易々と誰かと言葉を交わすとはどうにも考え難く、また声の響きからしてどうやら私室の中ではなく外──おそらく庭に面した縁側で話をしているのだろうと伺えた。彼女が夜番をつけているという話は聞いたことがなかったが、例えそうであったとしても話をするならば私室の中ですればいいことだ。もう随分と夜の冷え込むこの時分にあえて外に出る理由はあまり考えがつかなかった。
あたりに目をやって気配を探ってみるが、彼女ともうひとつの声以外の気配を感じることはできない。隠蔽に優れる短刀などがもし控えでもしていたらお手上げではあるがここに辿り着くまでに何らかの形での妨害が何一つなかったことを考えれば、誰かが控えている可能性は限りなく低いと見積もっていいだろう。
「……みたいだから、もう少し、考えなきゃいけないかなって」
「そう……ですねぇ……」
息を殺して耳を澄ませれば先ほどよりははっきりと相手方の声も聞き取れた。その声音に僅かな覚えを感じて長義はふっと考え込む。非常に癪ながら長義以外に彼女から近侍を任じられるあの写しの声ではない。長義に覚えがあるのだから、遠縁の長船、もしくは他に縁のある──いや、違う。
そうではない、と思った。そうではない、この本丸に所属する刀剣男士、そのすべてとは違う。そうでは、なくて……
「──聞いてる? ……ね、……こんこん?」
「────」
「ううん……寝ちゃったか……」
──ああ、なるほど。
驚かせないでくれ、と非難したくなって咄嗟に押し殺した吐息でもってその言葉をすり替えた。ここで呟くなど少しでも声を上げてしまったらきっと彼女はひどく驚いてしまうだろうし、そんなさまはこの静かな夜には似つかわしくないだろう。何事もなかったのだからそれで良い。話し相手であったらしい管狐はどうやら眠ってしまったようであるし、すぐに彼女も私室に戻って布団に入ることだろう。長義は彼女の刀として、彼女が私室に戻るまでここに座り込んで護衛の真似事をしていればいい。
彼女の身を案じたとはいえ盗み聞きという低俗な手段を用いたことにやや抵抗感がないでもなかったので、今審神者の前に姿を見せるのは長義としても少し遠慮したかった。
「こーん、起きたら明日油揚げサービスしてあげるよ」
「────」
「こんってばぁ……」
起きたら、などと言っている割に彼女の言葉はひどくささやかでひっそりとしたものだ。ここは刀剣男士たちの私室が集まっている場所からも適度に離れているのだから、本当に起こしたいのならもう少し声を上げたって誰も起きて来やしない。そんなことは審神者とて分かっているだろうに、こんなことでは起きるこんのすけも起きないというものである。起こしたいのやら起こしたくないのやら、よくわからない彼女の様子に長義は少しばかり呆れて、耳を澄ませたままするりと目を閉じる。
その後も何度か囁き声でこんのすけに呼びかけていた審神者だったが、ついに起こすことを諦めたらしい。これまた音量を随分と絞った吐息がふう、と彼女から漏れた。やっと戻るだろうか。どうせ眠れないのだ。別にここで待つことが苦なわけではないが長義がここについてから半刻ほどは経ってしまった。あまり遅くなるようでは明日に差し障ってしまう。
しかし予想に反して呼びかけるのをやめてからもいつまでも自室に戻る気配のない審神者に長義はさすがに目に余ると判断して立ち上がった。審神者に対して必要な注意を促すのも近侍の務めだ。後ろめたさに退いている場合ではない。
「──主」
驚いて大声でも上げたらかわいそうだといざとなれば口を塞げる距離にまで近付いて声を掛けたというのに、審神者はまるでびくりともしないで長義の呼びかけに対して緩やかな仕草で振り向いた。
「ああ、長義くんだったんだ」
「……なんだ、ばれていたのか」
「わたしだって審神者だもん。わたしの刀が近くにいたら気配くらいわかるよ」
誰か、まではちょっと難しいけど。彼女はそう首を傾げながら膝に丸まった管狐の毛並みを穏やかな手つきで整えている。道理でいくら声をかけても起きなかったわけだ。少しばかり意識が浮上したところでそんな風に撫でられていれば心地よさにもう一度眠りに誘われてしまって当然だろうから。むにゃむにゃと政府の使い魔にあるまじき和やかさで審神者の掌を無意識に乞う仕草に長義は瞬きほどの間剣呑な目つきを向けてから口を開く。
「それならもう少し気を張った方がいいんじゃないかな。君は女性なのだからもう少し自分の体にも配慮すべきだし、護衛役としてその使い魔は些か不足だと思うけど」
「わたしが眠れないからって気を遣ってくれたの。ちょっと薄情ではあるけど」
彼女はそう言って悪戯めいた笑みを浮かべるとぐりぐりとこんのすけの頭部を指で押し込んだ。「うぅ……審神者様ぁ、もう食べられません……」夢うつつでむずがるこんのすけに審神者も流石に苦笑を漏らして「どんな夢なの」と指を離す。
「ごめんなさい、心配してくれたの?」
「当然だろう、俺は君の刀なのだから」
「ありがとう」
はにかむように笑う審神者から長義は僅かに目を逸らす。礼を言われるようなことではなかった。
「それで、まだ自室には戻らないのかな」
「……眠れないの。部屋にいたら気が滅入っちゃって」
眠れない。不眠症の類だろうか。いや、しかし。さほど長いと言える付き合いでもないけれどいつもの彼女は基本的に健康そのものといった風だ。食事も十分に摂っているし、職務中の集中力も悪くはない。何なら時折本丸の短刀たちと鬼ごっこに興じている。人の身にとっての睡眠の重要性を考えれば、それほど重篤なものでもないのかもしれない。
何気なく背に掛けたままにしてあった布を外して審神者の肩に羽織らせた。大した防寒性もないだろうが、風除けくらいにはなるだろう。肩を冷やしてしまっては体調にも差し障る。
ぱちりと驚いたように瞬く彼女の瞳を見つめ返して長義は微かな笑みを唇の端に乗せた。
「隣に座っても?」
「え、……ああ、うん、どうぞ」
幾分か遅れて呟かれた「ありがとう」の言葉には曖昧な相槌で返して、了承の意を込めてか僅かに体をずらした審神者の隣に腰掛ける。我が物顔で彼女の膝に居座る管狐は相も変わらずまどろみの中だ。
「……えっと、あの、長義くん」
「何かな」
「なにか、用があったとかじゃないの?」
「日付もとうに跨いだこの時間に伝えなければならないような要件があるなら、君もこうのんびりとはしていられないと思うけどね」
それもそっか、なんてふわりとした呟きを落として頷いている彼女には前々から思ってはいたが少し危機感が足りないように思われた。本丸の運営体制については特に物申すことも見当たらないが、そこばかりは多少改善するべき点と言えるだろう。
特に用があるわけでもないと知った審神者が「ならば尚更なぜ」とさらに瞳に困惑の色を乗せるのを少し愉快な心地になりながらしばらく眺めて、長義は月明かりの当たらない庭へと視線を滑らせた。
「俺も今夜は少し眠れなくてね。君がここにいるなら隣に置いてくれるかな。護衛も兼ねて」
「それは全然構わないけど……眠れないって、どうして?」
「さて、どうしてだか」
事実、理由らしき理由はあまり思い当たらなかった。政府で監査官として働いていた頃も、この本丸に配属されてからも眠れないなどということは経験していない。あえて、まあ理由をつけるのであれば。慣れない環境での出陣や執務といったものに対し疲労が溜まっていた、というところだろうか。そんなつもりはなかったのだけれど。
何を思ってか考え込むように目を伏せた審神者を横目で見やって問いかける。
「君は?」
「……え?」
「君はどうして眠れないのかな。普段は健康そのもののようだけど」
「ああ……んー、どう、言えばいいのかな」
する、と審神者の指先がこんのすけの毛並みをなぞる。迷うように彷徨わせた視線は結局膝上のそれに落ち着いて、彼女は相変わらず夜に紛れるほどの囁き声で言葉を繋いだ。
「月のない──新月の日は、いつもこうなの」
「……眠れない?」
「そう。何だか、月の満ち欠けに霊力が左右される体質らしくて」
「それは」
困ったことではないのか、と。眉根を寄せた長義の言葉を遮って、審神者は緩慢に首を振る。
「大したことじゃないよ。眠れないだけ。別に体調も悪くならないし、ちょっと翌日は寝不足になるけど目が冴えてて眠くはないの。今までも他の子には気付かれていなかったし」
「今まで、誰にも?」
「うん、こんのすけ以外には」
彼女は逡巡する様子もなく頷いた。そうして少し困ったような様子で長義を見上げて笑みを作る。管狐を撫でていた指先がそろりと持ち上がって、彼女の口元に静かに人差し指があてられた。
「このこと、みんなには内緒にしてね」
「──眠れないということを? それとも、供も付けずに夜分に部屋から出ていたことを?」
「どっちも」
うちは心配性なひとたち多いから。心配をかけてしまうと言わんばかりに眦を下げる審神者に、それだから彼らも心配性になるんだと思わず呆れてしまう。心配をかけるようなことならば大人しく心配させてくれればいいのに、平気そうに振る舞おうとするから余計に気に掛けざるを得ないのだ。この本丸にいる者は多かれ少なかれ彼女の声に応えてここにいるのだから、ただでさえ彼女を憎からずは思っていないというのに。
そう思って鋭く息を吐いてはみるものの、長義とて主人が密かにしたい事柄をあえて皆の前で詳らかにするような趣味は持ち合わせていなかった。
「いいけれど、やはりこうして部屋を出るというのは感心しないな。これからの季節、夜分は大層冷え込むだろう」
「あー……そう、だね。うん、努めて控えます」
嘘だな、と長義は片眉を微かに上げる。曖昧に笑って髪を耳にかける仕草は審神者が気まずさを感じたり嘘を吐いたりする時によく用いる癖だった。
──君のそんな拙い方便で俺が誤魔化されるとでも?
口に乗せかけた非難の言葉をぐっと飲み込み、長義は出来得る限りの柔らかな語調でもって「そうしてくれ」と頷く。その嘘を今この場で追及したところで、長義と審神者に何か益が発生するとは思えなかった。新月の夜、と審神者は言ったのだ。気にかかるのならば己自身で様子を見にくればいいだけのこと。それを億劫に思わない程度には、長義は彼女を主人として尊重していた。
彼女は僅かに安堵したようにも見える顔で頬を緩めて視線を長義から逸らし、空へと向ける。つられるように長義も空を見上げるが、先ほどまでと変わらず、長義にとって月明かりのない夜空はただの暗闇でしかなかった。
「新月の日はね、星がたくさん見えるから好きなんだ」
「星、ねぇ……」
「長義くんは星、好きじゃない?」
「さて、どうかな……。俺が蔵にしまい込まれるまでに所有していた主人たちに星見の文化はなかったからね」
「そうなの?」
不思議そうに尋ねる審神者に長義は浅く頷きを返した。天体観測──星見というものが娯楽という概念で消費されるようになったのはこと日の本においては近代以降の感覚だ。天気や暦を読む目的でのそれ自体は古くから行われていたものの、月を愛でる風習はあれど星を愛でることは少なくともあまり一般的ではなかった。
「こんなに綺麗なのに。もったいないね」
ぽつり、と落とされた彼女のつぶやきはことさらにささやかで、うっかりすると聞き逃してしまいそうなほどに小さかった。怪訝に思って彼女を見やったところでふと、図ったかのような頃合いで冷たい夜風が審神者の長い髪を掬い上げ彼女の表情を隠してしまう。
乱された髪を整える彼女の顔は変わらず穏やかであったけれど、それならば。先ほどのささやきがやけにさみしげに長義の耳に響いたのは──錯覚、と呼ぶべきものであったのだろうか。
181224
ちょっとだけつづきます
←|TOP