――ねえ師父、会いたいよ。
随分と久しぶりに耳にした小黒の声が揺れるようにその言葉を吐き出したのは三日前のことだ。スピーカー越しの荒削りな音ではいくら無限とて小黒の細やかな機微まで察することは難しかった。何かあったのか、と尋ねた無限の返答が本当に正しいものだったのか、事ここにきても無限は未だ計りかねている。
妖精館の建物に足を踏み入れればざわりと喧騒が広まったのが分かった。自分が館に直接赴くことは少ない。物珍しいのだろう。
――無限だ。何をしに。珍しいね。何かあったのか。
好悪問わず注目され遠巻きにされることには慣れた。今無限の胸を騒めかせるのはそのような些細なことではなくただひとえに、己を師と慕った小さな妖精が焦燥を募らせた声で己を呼んだというその事実だけだ。
館の喧騒に気付いてか、一人の妖精が表に出てくる。見知ったその顔は無限を見ると丸く目を見開いた。
「館長、」
「無限様……館にいらっしゃるとは珍しいですね」
「小黒が、今ここで世話になっていると聞いた。まだ出立してはいないだろうか」
「小黒? ああ、彼でしたら今はここの一室で……ご案内しましょう」
「頼む」
執行人である無限を知る者は無限が館になかなか立ち入らないことも知っている。申し出をありがたく受ければ館長は先立って館の奥に足を進めていく。表の賑やかさから少し遠ざかったあたりで「そういえば」と館長は口を開いた。
「小黒はあなたの弟子でしたね」
「……ああ。そうだな」
「やはり師がいいのでしょうね。とても優秀な働きをしていると近頃は噂ですよ」
最近はこうして、小黒の話を人伝に聞くことも増えた。流石はあなたの弟子だ、などという文言も何度聞いたことか。けれどその度に無限が返す言葉もまた、いつも同じものだった。
「――まさか。あの子の実力だよ」
*
案内された先の扉を手の甲で数度軽く叩く。返事は返ってこない。無限を案内した館長は小黒が任務帰りであったことを告げて立ち去った。休んでいるようなら出直した方がいいかと思わず考えを巡らせてふうと無限は息を吐く。全くいつまでも保護者感覚が抜けない。もう無限と小黒は四六時中道を同じくする旅をするもの同士ではないのだ。弟子となったばかりの頃の小黒と連れ添って西へ東へと飛び回った数年は無限にとって得難い鮮やかさで今も酷烈に胸中に焼き付いてはいるけれど、小黒も今や他の執行人や無限とも遜色ないほど立派に自らの任を務めている。小黒の時間と無限の時間が重なり合う機会はもうそれほど多くはなく、であれば改めるなどという選択肢は元より存在しない。
今更遠慮をし合うような間柄でもないと扉を押せばすっと音もなく滑らかに扉は開いた。部屋の中は薄暗い。後ろ手に扉を閉めて無限は部屋の奥を覗き込む。寝台に小さな影が一つ。小黒が猫の姿でくるりと丸まっているのが見えた。
今日の予定は諸々すべて断ってしまったので無限の時間には幾分か猶予がある。起こすか、待つかと悩んで首を傾げたところでぴくっと小さく黒猫の耳が動いたかと思うと顔の横を勢いよく金属片が通過した。鋭利に尖らせた先端がトンと部屋の壁に突き刺さる音がして後で館長に怒られそうだなと頭の隅で考える。威嚇混じりに、けれど並の実力では反応すら難しいであろう速度のそれになるほど確かに腕は上がったようだと頷き、寝台の上で人型に変化し困惑の表情で目を白黒させている小黒に無限は口を開いた。
「すまない、小黒。驚かせたな」
「……師父……?」
「ああそうだ、私だよ」
小黒は慌てたように姿勢を改めて無限を見上げる。
「な、なんでここに? ぼく今どこにいるか言ったっけ?」
「話をする前に、まず格好を改めなさい。髪が跳ねている」
よほど驚いたのであろう小黒はうそ!? と飛び上がって寝台から降り、ぺたぺたと跳ねた髪を押さえている。そもそも人型の時はとっくにきちんと隠せるようになった獣の耳や尻尾も飛び出たままだ。慌ただしく洗面所の方へか向かう小黒は一度無限を振り向くと「お茶いれるよ! 師父は座ってて!」と言い置いて背を向ける。その様子に怪我や病気などではなさそうだとひとまず無限はほっと安堵の息を吐いて寝台に腰掛けた。
ぱたぱたと軽やかな足音が数度往復し、目の前に茶器が置かれる。茶のいれ方など覚えさせるつもりもなかったのだけれど、会う度にどうかと感想を求められるのでいつの間にか無限の好む味を把握されてしまった。つくづく才能がある。
「久しぶり、師父。びっくりしたよ」
「ああ」
「……この前のことだったら、気にしなくていいって言ったのに」
「任務で近くに寄ったんだ」
涼しい顔でさらりと宣う無限に小黒はしばらくむず痒いような顔で口元をむにむにと歪ませていたがやがて誤魔化し混じりに少し大げさな様子で無限の隣に腰を下ろした。
「変わらないね、師父は」
「そうか? おまえは成長しているよ」
二人で旅を始めた頃を思っては感慨深くなるほどに。執行人としての実力はもちろんのこと、腰ほどもなかった背丈が肩に並ぶほどになったことにも、昔から片鱗を覗かせていた聡明さにさらに磨きがかかったことにも、師として、時に親代わりのように成長を見つめてきた無限にとって眩しさにも似た感情を抱かずにはいられない。
何気なく零した言葉ににわかにぴたりと動きを止めた小黒に気付いて無限は視線を上げる。小さく眉を寄せて唇を尖らせる仕草は何かを思い悩んでいる時に小黒がよくする表情の一つだった。能力をうまく使えない時、野宿で手元に食べられるものがなかった時、自分一人で任務を受け始めたばかりの時。悩みの深刻さは大小様々で助言を求められる時もそうでない時もある。
「ねえ師父、呆れちゃうかもしれないんだけどさ」
「うん?」
「ぼく忘れてたんだ。人間って年を取るんだね」
思いも寄らぬ、と言えば嘘になる言葉だった。人間社会と交わって生きていく妖精にとってそれは最も不可分な妖精と人間の差異だ。自然の中で育まれた霊体の一種である妖精と生物である人間ではあまりにも存在できる年数が違う。小黒が無限の弟子となりいずれ妖精とも人とも多く関わる中で必ずいつか直面する問題であろうとはとうの昔に理解していた。
けれどこんなにも早く、と無限は小黒に気付かれないように吐息を飲み込む。本当に賢く、聡い子だと掛け値なしに目を細めた。
「――そうだな」
「……小白に会ったんだよ。久しぶりに。三年ぶりだって言われた」
小黒の友人である小白とは無限も会ったことがある。物怖じしない素直な明るさと人と妖精の別なくありのままを受け入れる強さを持った少女。当初は任務で負った負傷の療養も兼ねての交流だったようだけれど、小黒にとって居心地の良い相手だったのだろう。今では大切な友人として任務の合間に顔を出しているらしかった。
小黒は膝を抱えて俯いた。丸くなった背中はまだ薄く、随分薄れた幼さを余韻のように残している。その時点からぴたりと小黒の背丈が伸びなくなったと感じられるのは、きっと無限の気のせいではない。
「でも、ぼく、びっくりして……何も言えなかった。背が伸びてた、髪も……一緒にいた時は気にならなかったのに、離れるたびに違うところが増える」
この年頃の三年とは人間にとってどれほど大きいものだろうと無限は思う。思わねば思い返せぬほどには無限も人間の時間から大きく逸脱した存在であった。いわんやそうした無限や妖精たちと幼年期を過ごした小黒にとっては。
「これからも、ずっとそうなのかな。ぼくは昨日も今日も明日もずっと変わらなくて、小白は会いに行く度、ちょっとずつ変わる。それは――」
変わらぬわけではないよと言うのは簡単だった。妖精はそもそも姿形をある程度自由に変化させることができる。小黒の変化術の精度は随分と上がった。小黒が今の姿を不足と思うのなら、今すぐにでも成熟した大人の姿に変化することだって可能だ。だからこそ、と無限は極当たり前にその言葉を打ち消す。姿形を年頃に相応しく似せることができても、妖精とて形あるものとして当然の変化を緩やかにしているとしても、人間と妖精の時間はそんな事実では気休めにもならないほどにあまりに違いすぎるのだ。
「それは、嫌?」
「……分からない……」
途方に暮れた声だった。帰り道の分からない幼子のような、普段の小黒の気丈さを思えば一も二もなく抱き締めたくなるほどの痛ましい声。それでも無限はじっと小黒の言葉を待つ。全てを慈しみ、苦難から目を背けさせることは容易いが、これはいつか必ず彼自身が向き合わなければならない問いだ。人間と妖精では多くの場合人間の方が先に死ぬ。そうでなくてもこれから先の小黒の道に「変わらぬもの」はそう多くはない。都市も、森も、人も、妖精とて、万物は流浪し移りゆく。その流れを厭うて世俗から自らを切り離す妖精や仙も多く、無限もまたその感傷には覚えがあった。
「嬉しい気持ちもあったんだ。久しぶりに会えたし、小白が……なんだかきらきらして見えて。何があったんだろうって聞きたくなった。……でも、ぼくは変わってないし、少し、小白を遠くに感じて寂しいと思って、それで、なんか胸がいっぱいになっちゃって何も言えなくて……ねえ師父、師父もこんな気持ちになることある……?」
「あるよ」
間髪入れず答えればバッと勢いよく小黒の顔が上がった。丸々と見開かれた瞳に見つめられて苦笑いを零す。顔に出る方ではなく、改まって言葉に出す方でもない。けれど小黒がぽつぽつと呟く心情は己のここ十数年ほど胸を占めているものに驚くほど的確に沿うものだった。
「ど、どんな時?」
心なしか身を乗り出す小黒の興味津々の視線から目を逸らし茶器を浮かして手元に注ぐ。遠慮のない弟子は露骨に無視されたと感じたのだろう、ぐいぐいと服の袖を引いて無限に詰め寄った。
「ねねねねね、ねえ、ねってば、師父! 師ー父ー!」
「零れる……」
こうなると落ち着きなさいと諭しても聞かない。はあ、と一つため息を吐く。ぐっと茶を一息に飲み干して小黒に向き直った。
「おまえを見ている時だよ」
ぽかんと大きな目が瞬く。
「……ぼく?」
「ああ」
「ぼくを見てると寂しくなる?」
「そうだな。切なくなる時もある。だがそれ以上に嬉しい」
「……なんで?」
くるりと丸い緑色は出会った頃から変わらない。確たる物差しすらない透明な視界で世の様々を見つめる小黒の隣に在ってこそ無限の世界もまた大きく色を変えたのだと、きっと小黒は知らないだろう。子を育て、導くというのは何度でも己を問い直し育て直すことと同じだ。いつしか手のひらから零れ落ちた何かを、その小さな手が拾い上げていることもある。それを救われた、などと言うのはただの郷愁でしかないと分かってはいても、奥底に眠らせた情動が柔らかく解けるのを止める術はなく。
多くの場合、人はそれを。
「私がおまえを、愛しいと思っているからだ」
「……好きってこと?」
ふ、と吐息めいた笑みが零れた。手を伸ばして白い髪をやわらかに乱す。わ、と小黒はくすぐったそうに目を閉じた。撫でつけるような動きに手を緩めれば小黒はゆっくりと目蓋を持ち上げて、わずかに首を傾け無限を見上げる。
「違うの?」
「間違ってはいない」
難しそうに眉を寄せてぱたぱたと小黒の尻尾の先がシーツを叩く。一言で言ってしまうにはこの感情はいささか複雑さを帯びて難解だ。
長らく遠ざかっていた温かな手のひら、日向と風の甘い匂い、季節ごとに趣を変える空の色、穏やかに耳朶を打つ鈴鳴りのような笑い声。この瞬間がすべてだと言葉に詰まったことも数えきれぬほど、小黒と共にある日々は無限に幸福の在り処を思い出させるものだったのだ。するりと頬を撫で下ろし無限は手を離す。
「大切にしなさい。それはとても得難く、きっとおまえと彼女にとって意味のある感情になる」
「小白にとっても?」
「ああ」
大切……、と小さく呟いてそれきり小黒は黙り込んだ。思い悩むようではなく、ただ静かに。
その横顔に萌芽のような円熟のかけらを垣間見て、無限は口端を緩ませる。
――やはりおまえは成長しているよ、小黒。
*
「師父、ぼく小白のとこに行ってくる」
長い沈黙から小黒が立ち上がったのはとうに冷めたお茶を無限が飲み干してすぐだった。
「まだ、なんて言ったらいいかはわかんないんだけど」
小さな躊躇いを表情に残して、それでも顔を上げる小黒の瞳はどこか涼やかだ。
「それでも話してみるよ。それが大切にするってことだと思う」
ああ、と頷く。無限からは推し量ることすら野暮だけれど、願わくばあの少女が笑ってくれればいいと思う。
「……それから、あのね、」
一転、そわりと落ち着かない様子で口籠る小黒に首を傾げれば相変わらずしまい忘れている尻尾と耳がいよいよもって垂れ下がった。それほど言い難いことかと僅かに身構える。
「もっと師父のところに帰ってもいい?」
ぱち、と自らの瞬く音が聞こえるかと思うほどあからさまにそうしたのがわかった。うう、と小さく唸る声。
「やっぱり今日はわざわざきてくれたんでしょ……もう子供じゃないんだし心配かけるようなのは、よくないと思うんだけど、でも」
ぼくは、と続いた言葉は小黒にとっていささか恥ずかしいものだったようで、とても控えめに紡がれた。
「
あんまりにもいじらしく、そんなことを言うものだから。ふわりと膨らんだしゃぼん玉が弾けるように、無限は笑い声を零れ落とした。もう、と小黒は耳を逆立てて顔を上げ、
「――小黒」
気勢を削がれたようにへにゃりと垂らした。そうっと歩み寄り、立ったまま屈み込むようにして無限に抱きつく。首に回すだけで精一杯だった腕も、座った無限をなお懸命に見上げていた背丈ももう余るのに、無限にぎゅうと抱き縋る手の強さだけは変わらない。少年めいた薄い背に両手を回して、無限は目を閉じた。
己のすべてを与えているつもりで、何度与えられていることに気付くのだろう。もうずっと、ただいまと帰る小黒の声に安らぎを覚えているのは無限の方なのに。
「おまえが望む限り、私はおまえの傍にいるよ。いつでも帰ってきなさい」
「……うん」
すり、と一度顔を寄せて、小黒は体を起こす。瞼を上げれば穏やかに光を含む新緑の瞳と目が合った。
「行ってきます、師父」
「ああ、行っておいで」
その言葉に満面の笑みを一つ残して、黒猫は窓枠からするりと部屋を抜け出す。遠ざかる黒い翼を見送って、ふと言いそびれたなと思考が過る。心配をかけるのは本意ではないと小黒は言ったけれど、そもおまえを気にかけない日などないと告げれば心配しすぎだと拗ねてしまうだろうか。いや、案外知っているよと笑うかもしれない。
まあ、と無限は微笑んだ。幾分かすっきりとした気持ちで。
――尋ねるのは、次の機会でいいだろう。
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