寒い日


 小黒は耳が良い。車の走る音、人の足音、工事現場の解体音、信号の音、ビルをすり抜ける風が吹き付ける音、人が話す声、都市部の雑踏は情報の奔流だ。意図せず拾うそれらの音はいっそ暴力にも近いと小黒はあまり街中を好ましいとは思えなかった。あちこちをたった一人で放浪していた頃、暗い路地裏で喧騒に耳を伏せている時に思い出す故郷の森はひどく恋しく思えたからだ。
 そう。昔のことだ。今はといえば、そう悪くもないかなと思うようになった。喧騒は慣れてしまえばそこまで耳を突くものではなくなったし、人の多い場所では逸れてしまわないようにと心配性な無限が手を繋いでくれるのだ。背丈の低い小黒は人混みに紛れると無限からは見つけ難いらしい。そうした通りを抜けると決まっていつの間にか手が離されているのが目下のところ多少の不満ではあるのだけれど。
 てくてくと無限について街を歩く中で、今日はやけに「寒いね」という囁き声が聞こえてくることに気がついた。独り言や誰かと言い合う声、電話に向かって話しかける言葉。冬と呼ばれる気温が下がる季節になってからよく聞くようになったけれど、今日はその中でも群を抜いて多く聞こえるので、今日はきっと「寒い」日なのだろう。
 妖精はさほど寒暖に敏感ではない。自然現象に対してある程度耐性があるのだ。今日の気温が低いことは感覚として分かるけれど、寒いとはそれほど思わない。でも、と小黒は自らの手を引く師の横顔を見上げた。無限は人間だ。いや人間にしては長く生きすぎているし、本人も妖精に近いと自己申告していたけれど。
 それでも無限は人間なのだから、街を行く彼らと同じように、無限も寒いと思ったりするのではないだろうか。
 不意にヒュオ、と強い風が吹いて無限の横髪を攫う。ちらと覗いた耳朶がほのかに赤らんでいるのを視界に捉えて、小黒は思わず足を止めてしまった。



 いらないよ、と突き返した小さな手袋は無限の手の中にぽつんと残された。なんだか後味が悪くて目を逸らす。これまで人間社会との関わりの薄かった小黒にとって、衣類自体あまり馴染みのないものだった。人型で過ごすならば体を覆う必要があるのだと観念的に理解したのもごく最近のこと。時期や場所によって人間があれこれと格好を取り替えていることに気付いたのはもっと後、無限の弟子となって二人旅を始めてからだ。
 無限が服を見立ててくれるのは嫌いではなかった。先々でやたらと店員に甘い声で「可愛いですね」と笑われるのはよく意味がわからなかったけれど、試着室から出た自分に「いいんじゃないか」と薄く笑みを浮かべる無限の顔を見るのはそう悪い気分ではなかったし。
 でも、それとこれとは話が別だ。寒い時期になってから見繕われるそれらが段々と布地を厚くしていくことには目を瞑った。首元を覆うマフラーは確かに風が抜ける感覚が冷たかったのもあって譲歩した。だが手はダメだ、手は。だって途端に動かし難くなるのだ。触れる感触も不鮮明になるし。五感の一つを塞がれるような不自由さは小黒にとって受け入れ難いものだった。

「小黒、」
「イヤだからね。それなんかごわごわするんだもん」

 窘め混じりの呼びかけを遮って、つんと小黒はそっぽを向く。無限は師という立場であってもそれほど小黒に何かを強要する場面はない。こんな風に何かを嫌だと突っぱねるのなんて龍游の館に向かっていた時以来じゃないだろうか。どうしてまたこんなことで、と思わなくもないけれど嫌なものは嫌なのだ。

「ぼくは妖精なんだから、そんなに寒いって思ったりしないよ。師父だって知ってるでしょ?」
「もっと気温は下がるし、寒い地域に立ち寄ることもある。おまえは私の背丈ほどの雪が積もる場所に行ったことが?」

 ぐ、と言葉に詰まる。確かに小黒が経験したことのある冬というのは比較的温暖な地域のそれであって、無限の言うような極端に寒い地域のそれなど想像もできない。しかし理屈で諭されたところで、ますます意地を張りたくなるばかりである。キッと小黒が無限を睨みあげると、彼は少し困ったように眉を下げて膝をつき、小黒と目線を合わせる。

「そんなに嫌か?」
「……なんで師父はぼくにそんなのつけてほしいの」

 ちゃんと他の服は着ているのだから、手袋ひとつつけないでいたところで無限が困るようなことは何もないはずだ。
 無限はふむと頷くと小黒の両手をゆっくりと取った。

「人間の手や足はあまり冷えると赤くなって痛む。小黒の手はまだ柔らかいから痛みやすいんだ。私はおまえにあまり痛い思いをしてほしくない」

 手袋と小黒の両手を乗せてなお余る無限の手のひらは小黒のものよりずっとずっと大きい。その手が小黒自身が扱うよりも丁重に小黒の指先をなぞるのを見て、今度こそ小黒は言葉を失くした。大きなものを詰め込まれたように喉奥が詰まって、そわそわと足元が浮つく。でもどうやらこれは決して嫌な感じではないのだと小黒はいくらかの経験から知っていた。

「どうしても嫌ならまだつけなくてもいいから、持っていてくれないか」

 じっとこちらを見つめる落ち着いた青色に促されるように小黒はむず痒い口元をなんとか動かして小さな声で呟く。

「わかったよ……」

 再度受け取った手袋は最初に触れた時よりも一層柔らかで暖かく思え、小黒は首を傾げることになった。



「小黒?」

 脈絡なく立ち止まった小黒を振り返る無限の声にはっとする。

「どうした」

 わずかに無限が首を傾けた。さらりと髪が流れる。一度気づいてしまえばそれはもう見間違えようもなかった。
 ――あまり冷えると赤くなって痛む。
 む、と小黒は眉間に皺を寄せて、くん、と無限のコートの裾を引く。

「師父」
「うん?」
「しゃがんで」

 急だな、とでも思っていそうな顔だったけれどそっと道の脇に逸れて小黒の前にしゃがみ込む動作に躊躇いはなかった。微妙に苦戦しつつ両手から手袋を抜く小黒の様子にもう一度「どうした」と尋ねる。

「また手袋が嫌に……」

 言葉は最後まで続かなかった。その前に小黒が無限の両耳に手を被せたからだ。ひんやりとした温度が触れて、温かった指先の温度がぬるまっていく。やっぱり冷たい、とじとりと無限を見やると驚いたように瞬く無限と目が合った。

「……小黒?」
「師父の耳つめたいよ。寒くないの?」

 師が驚くのは珍しい。いたずらが成功したような心持ちで尋ねれば、彼にしては少し鈍い反応が返ってきた。

「いや……言われてみれば寒いな」
「もう、しっかりしてよ」

 小黒にだって今日が「寒い日」だと分かるのに、肝心の無限がこの様子では困ってしまう。はあ、と吐いたため息は白く喧騒の中へ消えていった。

「だけどこれだと小黒の手が冷えてしまう」
「いいの! ぼくは手袋してたからあったかいでしょ?」

 冷たい風に晒されると冷えるのだと人型で多く冬を過ごして小黒は気づいた。裸一貫の猫の姿の時よりも人型の時の方が寒いのはつまるところ、毛皮がないというその一点に尽きるのだ。

「人間の耳って不便だね。毛皮があったら寒くないのに」

 まだうまく人間のそれに擬態できない小黒の耳は人型の時であっても獣の形をしている。ぺたりと折りたたむだけである程度風は凌げる。

「確かに小黒の耳はいつでもぬくい」

 何を思い出してかふふ、と無限は和やかに口元を緩ませる。もしかして小黒の頭を撫でる時につんと耳に指先が掠めるのはわざとだったりするのだろうか。
 突然の疑惑に少々半目になる小黒に気付いてかそうでないのか、ああ、と無限は呟いた。

「毛皮か。それらしいものがあったな」
「え? 人間の耳にも毛皮があるの?」
「耳当てといって……手袋のように耳を覆うものがある」

 寒さを凌ぐための衣服ということだろうか。

「それつけたらあったかい?」
「そうだな」
「どこにあるの?」
「店で買う」

 なるほど、と小黒は大きく頷くとぐいと身を乗り出した。

「じゃあ買いに行こ! 師父もあったかくしなきゃ!」

 無限が心配したように寒さに困ることはやっぱりないけれど、前ほど暖かく体を覆うそれらを嫌には思わなくなった。思い出すのだ。まだコートのボタンをうまくとめられない小黒を手伝って何度も根気よく重ねてくれる手。毎朝外に出る前に仕上げとばかりにマフラーを巻くため膝をつく動作。受け取った手袋を初めてつけて見せた時の嬉しそうにふと緩む表情。
 見るたびに思い出すそれらが窮屈さなんて飛んでしまうほどに、本当に、どうしようもなく嬉しい。
 あたたかいことは優しいことだと無限は小黒に教えてくれた。だから、無限も暖かくしなければダメだと思う。どうしてそう思うのかはまだ小黒の中に生まれもしない問いかけだけれど。
 無限は静かに目を細めて笑った。

「わかった。行こう」
「それまではぼくの手であっためてあげる」
「……嬉しいが、耳を塞ぐのはあまり良くないな」

 そう? と首を傾げる小黒の手を外させて、無限は小黒を抱き上げる。

「寒くない?」
「おまえを抱いてるだけで、充分暖かいよ」

 答える声はふわふわと毛糸のように柔らかく耳に響いて、小黒はふうん、とまんざらでもなく無限の首に腕を回した。




200130


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