おとな


 虚淮、と。その小さな猫の妖精が自分の名前を呼ぶのは記憶の限りでは初めてのはずなのに、その響きは本当に、嫌になるほど懐かしく聞こえて虚淮は静かに目を伏せた。



 釈放されるらしい。拘束され、館の牢で能力を封じられて過ごし一年ほど経ったかという頃合いだった。都市一つを巻き込んだ騒動を起こしたにしてはあまりにも穏当な処置だと皮肉を零せば龍游の館を取り仕切る館長――潘靖は苦く笑った。

「もちろん当面は館の監視下でのみ許される自由行動です。しかし首謀者であった風息は消え、幸運なことに民間人の被害は最小で済んだ。そしてあなた方にはもう事件を起こす動機はない。違いますか」

 問いには答えなかった。分かり切っていることだったからだ。抵抗の意思なく、諾々と取り調べや面会を受ける虚淮の態度から館側もそれを察していたのだろう。潘靖は一つ頷くとくるりと背中を向け――ああ、と思い出したように呟いた。

「あなたに会いたいという妖精がいますよ」



「虚淮……」

 少し、背が伸びたようだと思った。初めて顔を合わせた時には夜闇のように黒々としていた髪はあの夜から戻っていないのだろう、真っ白に色が抜けたままだった。痛ましいなどとは、思うべきではない。

「久しぶりだね。あの……」
「名前」
「え?」
「覚えていたんだな」

 ぱち、と幼子の目が瞬いた。

「そりゃあ……覚えてるでしょ?」
「初めて呼んだだろう」
「そうだっけ?」

 首を傾げる様はひどく無邪気だった。自分を死地に追い込んだ存在に向けるものとしてはいささか不釣り合いなほどに。
 幼子の顛末についてはいくつか話を聞いていた。霊域を二つ持っているという珍しい特性のおかげで一命を取り留めたこと、領界を最終的に解除したのが彼であること、結局館には居つかず彼をここまで送り届けたあの執行人とともに旅をするようになったこと。
 緊張でか少しばかり強張っていた表情が緩んで小黒は一歩虚淮に歩み寄ろうとし、あっと慌てて足を引っ込めた。無闇と近寄らないようにと達しを受けていたのを思い出しでもしたのだろう。

「あの、虚淮、痛いこととか、怖いこととかされなかった?」
「……なぜ。無限がそう言ったのか」
師父ししょうは……無限は、そういうの教えてくれない」

 拗ねたように唇を尖らせる。それだけで十二分に小黒が無限に心を寄せていることが分かる仕草だった。何も、と首を横に振ればほっとしたように小黒は息を吐く。幼子を見やって、虚淮は静かに口を開いた。

「私に心を砕くな」
「……どうして?」
「私は風息の計画を知っていた。最初から。お前があの島に招かれた時からだ」

 洛竹たちと違って積極的に声を掛けなかったのも、何のために風息が子猫を呼び寄せたのか知っていたからだ。

「お前が『領界』を持つ妖精であること。お前が幼いこと。お前に取り入って懐柔すれば――最悪、力を奪ってでも、目的が達成できること」

 最も、最終的に龍游に集まることになったのは偶然であった。これも因果だろうかなどと考えたものだったけれど。

「……ぼくの力を奪ったのは虚淮じゃない」
「詭弁だろう。あの時、風息を止めようとした洛竹を制止したのが私だと覚えていないのか」

 冷たく撥ねつける。小黒は息を飲んで俯いた。

「……覚えてるよ」
「言い訳はしない。恨み言ならいくらでも吐け。だが私は後悔しない。もしもう一度同じ場面に立ち会ったとしても、私は同じことをするだろう」

 酷なことを言っている。充分すぎるほどに傷ついた幼子を突き放すような真似は決して気の進むものではない。けれど、自らを傷つけた相手にまでその小さく柔い心を明け渡す必要はなかった。そのようなものに執着せずとも、もう幼子には共に歩み道を示す者がいるのだから。
 話は終わりだと顔を背ける。そもそも、小黒にとって虚淮はただそこに居合わせた妖精以上の意味を持ち合わせてはいないだろう。島を訪れるきっかけとなった風息は言うまでもないが、幼子を喜ばせようと距離を縮めた洛竹や天虎とも違い、虚淮はこの幼子に何も齎していないのだ。

「恨み言なんてない。憎んでもいないよ」

 だから、返ってきた言葉が存外に強い響きだったことには驚いた。目を向ければ、じっとこちらを見つめる強い意思を宿した瞳と目が合う。

「ぼくはそれでも、嬉しかったんだ。風息と洛竹と天虎と虚淮と一緒に、あの島で過ごせたことが。たった一晩だったけど、ぼくに居場所をくれた。食べ物も、寝る場所も、話をする誰かも」

 熱に浮かされるでもなくただ静かに、噛み締めるように、幼子は目蓋を閉じる。

「――ぼくのおうちだって、言ってくれた」

 緩やかに開いた新緑の瞳は堪えきれない懐かしさを零すようにゆらと一瞬煌めいた。

「目的がどうだったとか、関係ないよ。ぼくはそれがとても嬉しかった。ずっと、そう言いたかったんだ」

 息を飲むことすら躊躇うほどの切な声色に飲まれたのだと虚淮が気付いたのは話し終えた小黒が満足げな笑みを浮かべてからだった。大人びた静けさから一転して年相応の無邪気さを浮かべる様子に内心面食らっている虚淮を置いて、一通り言いたいことは言ったらしい小黒は大きく一つ頷いた。

「じゃあぼく行くね。またね、虚淮!」

 返事も聞かずにたたっと軽い足音を立てて立ち去る小黒の背を半ば唖然と見送り、凭れかけた壁に体重を預けた。幼子というものは、古今東西を問わずして本当に話を聞かないものらしい。小さな足音は遠ざかり、やがて消える。
 ふ、と吐いたため息は何も幼子ばかりが原因のものでもなかった。

「過保護なことだな」

 独り言にも近しい呟きに応えるように物陰から音もなく姿を現したのは例の執行人――無限だった。

「釈放が決まったとはいえ、お前たちは首謀者だ。小黒だけで会わせるわけにはいかない」

 数秒押し黙った後、淡々と口を開く無限の言葉はもっともらしいがどこか言い訳じみても聞こえた。意趣返し混じりに言葉を返す。

「それはお前だけの心配だろう」
「小黒は一人で会いたがったからな」

 確かに少々意地を張るところのある幼子だ。師だの他の妖精だのに聞かれるのは気恥ずかしさが勝ったのかもしれない。
 ――またね、虚淮。
 最後の言葉を思い出して複雑な笑みが零れたのは無意識だった。自分を呼ぶ声といい、ころころと変わる表情といい。まったく、と呟いた声には呆れるほどの郷愁が滲んでいた。

「嫌になるほど似ている。同じ獣の妖精だからかもしれないが」

 本心半分、当て付け半分に口に出したそれを無限は後者で取ったようだった。わずかに気配に険呑さが混じる。あの島に襲撃に来た時でさえ敵意すら滲ませなかった男が。

「小黒は小黒だ。いくら似ていようとも、私はあの子をあいつのようには絶対にしない」

 冷ややかな視線に思わず笑ってしまいたくなった。嘲りからではない。あまりにも覚えがありすぎて、どこか面映く思えたのだ。笑みの代わりに虚淮は当然だろう、と言葉を乗せた。

「あの子の代わりなんて、もうどこにもいるはずがないんだ」



210206


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