言うなれば、そう。魔が差した。
たまたま近侍が外している最中に、たまたま小雨が降り始めるタイミングで洗濯場を通り掛かり、側にいた男士と一緒に洗濯物を慌てて近場の部屋に取り込んで、濡れなくてよかったと一息吐いたところでその男士が別の者に呼ばれていなくなり、たまたまその場には私と山盛りの洗濯物がぽつんと取り残されたのだ。
普段の私はさほど家事をするわけじゃない。それはこの本丸において一応私が一国一城の主であること、私があまり家事の類が得意でないこと、就任直後はともかく刀剣男士の数も増えてきた今、家事や炊事においても分業制が整ってきていることなどを理由としている。
とはいえ、何も壊滅的なわけではない。こういう状況になった時にシワになったら困るしな、と洗濯物をたたむくらいはできる。まあ、和服のたたみ方なんてさっぱりなので洋服を取り分けるところから始まるわけだが。
山になった洗濯物をぽいぽいと和洋で分けつつ裏返しになっているものを表に返し、と無心で仕分けをしていれば、ある物を手に取ったところでその動きがふと止まる。
銀の表地に青の裏地。纏う本刃の色彩そのものを思わせるストールは春の涼やかな風を受けてひやりと冷たく、けれどなめらかな手触りで私の指先に馴染む。
近侍の時。出陣を見送る時。本丸の中でふとすれ違う時。ひらひらと視界を過ぎるそれは随分見慣れているはずなのに、纏う者がいないだけで何となく新鮮な気持ちで眺めてしまう。服の材質なんてものにてんで興味のない大雑把な私でも一目で上等な布だとわかるストールはきちんと厚みがあって、色合いも上品な華やかさがあって美しい。
少しの間そうしてストールに見惚れていた私は、はっと我に返って辺りを見回した。すぐに戻るから、と言い置いて側を離れた男士が戻ってくる気配はまだない。いつもなら短刀たちが遊ぶ声が聞こえる庭先からはしとしととした雨の音だけが静かに響いている。
一度手元の布地に目を落とし、もう一度部屋の中から廊下を左右見回した。誰もいない。そもそも誰の姿も見えないなんてこと自体が、本当に珍しいことなのだ。広い本丸ではあるけれどうちは大所帯で、近侍がついていなくともどこへ行っても誰かがいて、一人になることなんて執務も夕食も終えてみんなとおやすみと挨拶を交わして私室に戻った後くらいのものだ。
だからもうこんな機会は二度とないかもしれないわけで──つまるところ、魔が差した、と言うべきだろう。
そわそわと立ち上がり、部屋の奥へと下がる。
「確か、こんな……」
修行に出る前の彼がしていたように見よう見まねでストールを纏ってみる。
身長差がそれなりにあるから当然だが、丈のある布地は地面に擦れそうな長さになってしまう。洗濯したばかりのストールからは装飾具が外れているけれど、戦装束の際にストールを飾っている金色のタッセルがついたままであれば、床に引きずっていること請け合いだ。
彼が男前というよりは美人と称される顔立ちをしているからか、普段はそれほど意識しない体格の差を感じて何だかどきどきする。
浮ついた心持ちのままストールの裾を揺らめかせるように足を動かせば、銀と青がちらちらと視界に散る。
「きれい、」
意識するでもなく自然と呟いて微かに口元が綻んだ。
けれどそうして動けば留め具などもないストールは当然するりとほどけてそのまま床に落ちそうになったので慌てて手で捕まえる。そうした後に握ったところが皺になっていないかと再度慌てて布地を確認してそっと息を吐いた。
そこでようやく何をやっているんだか、と恥ずかしくなってストールを肩から外そうとしたところで、「もう外してしまうのか?」という声にその場に縫い付けられたように体が動かなくなる。
聞き慣れた声だ、もちろん。自慢じゃないが私は彼の声を聞き間違えたことはない。でも今ばかりは聞き間違いであって欲しかった。
「もう少し預かっていてくれても良いよ。ほら」
背中側から黒い手袋を嵌めた手が伸びてきて、外しかけたストールを私にもう一度羽織らせる。それから慣れた手つきで私が先ほどやっていたように、私よりよほど美しく以前の彼の纏い方でくるりと私を包んでしまうと、微動だにしない私の肩を掴んで振り向かせた。
陽の光が入らない部屋の中でも彼の銀髪は小さな光を反射して綺麗だ。ふ、と彼の唇がいつもより深く弧を描いてから開かれる。
「よく似合う」
その窒息しそうなほど甘い声に頬どころか耳まで熱くなる私を見て紺碧の瞳が柔らかに細まり、気づけば彼の腕の中に抱き竦められていた。
息をすれば鼻腔を擽る香りは同じ洗剤を使っているのだから私の服の香りと同じもののはずだ。なのにどことなく違うもののような気がして落ち着かない。
「あ、の……ちょうぎくん、」
「ああ」
戻ると言ったあの子が今戻ってきたら何て言えば、とか、洗濯物放置したままじゃ駄目じゃないか、とか、そもそもどこから見ていたの、とか言いたいことはいくつもあったはずなのに、ほんのり震えた私の呼びかけに答える長義くんの声があまりにも当たり前のような響きをしていたので全部真っ白になる。
でも呼びかけたからには何か言わなければ、と頭の中を浚いながら、されるがままに抱きしめられてやりどころのない手を動かせばなめらかなストールが腕に触れて心臓が跳ねた。
長義くんのストールに包まれて長義くんの腕の中にいる私は、前にも後ろにも逃げ場が、ない。
端から逃げようだなんて思っていなかったくせに、意識させられると途端にどうすればいいかわからなくなる。
混乱の中言葉を探しあぐねる私を急かすでもなく、長義くんはただじっと私を待っていた。
「ストール、しわになっちゃう……」
不自然すぎる間が空いた挙句に出たのは何ともしょうもない心配だった。皺なんてアイロン掛ければいいだろ、と私の中の冷静な部分が言っている。
長義くんもそう思ったのかは知らないが、くすり、と頭上から密やかな笑みが落ちた。
「もう少し」
答えになっていないような言葉は、けれど私を抱き寄せる腕に僅かに力が入れば何より雄弁だ。
「君の心臓が落ち着くまで。君のそんなに愛らしい顔、他の刀には見せられないからね」
囁く声は先ほどまでの私に負けず劣らずの上機嫌で、とてもじゃないけれど「逆効果だと思う」なんて言えそうになかった。
250415
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