ふに、と柔らかな何かに頰を押されて意識が浮上した。瞼が重い。硬い床に骨があたって体は痛いし、何故だか頭までぐらぐらする。
――そもそも、私はいつ、眠って……。
小さく呻き声を零しながら重い瞼を薄く開く。ぼやけた視界の中央に何やらふわふわした毛玉らしきものが映って、橘悠乃は眉を潜めた。
「……ゥ、フォウ!」
「っ!」
ぺしん、と先程の感触が同じように頰に当たる。やっとのことで明瞭になった視界で理解した。悠乃は何故か廊下に倒れていて、このふわふわした……おそらく何某かの生物の肉球によって文字通り「叩き起こされた」のだろう。混乱した頭のまま妙に気怠さを訴える頭を持ち上げて体を起こす。悠乃を起こしたその生物はじっとこちらを見上げて瞳をきらめかせていた。
いや、何なのだろう……この謎の……小動物は。白い毛並みは柔らかそうだけれども身体的特徴は……猫? 兎? 犬? 狐? そのどれとも当てはまるようにも見えるし、どれとも合致しないようにも見える。ただあまり敵意や害意は感じないから、安全、なのだろうか。
「フォウさん! あまりカルデア内を歩き回っては……」
ぴくり、と小動物の耳が動き、渾々とこちらを見つめていた瞳が声のした方向へと向けられるのと、倒れ込んでいた廊下の角から一人の少女が現れるのは同時だった。
眼鏡を掛けた淡い髪色の少女だ。いくつか悠乃より年下だろうか。ぱちり、と少女の目が瞬く。
「日本では正座という文化があるそうですが、あの、申し訳ありません。この通路は残念ながら畳ではなく……」
「え、あ、いや別に座りたくて座ってたわけじゃないんだけど……」
そうなのですか? と首を傾げる少女に頷きながら悠乃が立ち上がると足元の小動物が「フォウ」と鳴き声を上げる。というか鳴き声なんだろうかこれ。
「あ、フォウさん。こちらにいらっしゃったんですね」
「……これ、あなたの使い魔?」
「いえ、使い魔というか、カルデアに最近になって住み着いた謎生物です。基本的にはあまり姿を見せないのですが、あなたには懐いているようですね。どうやら、同類と認められたのかと」
なんだかよくわからないことを言われた。小動物と同類とはどういう……いや待てそんなことよりも。
カルデア。この少女はカルデアと言った。霞がかっていた思考が不意に晴れる。そうだった、ここはフィニス・カルデア――時計塔の天体科ロード、アニムスフィアからの招待状を受け取って悠乃はここを訪れたのだ。
「申し遅れました。わたしはマシュ・キリエライト。印象的な自己紹介は不得手で申し訳ないのですが……あなたは」
数瞬の間のあと。
「――先輩ですか?」
問いかけはいくらか難解だった。マシュと名乗った少女は悠乃よりも年下に見えたから、そういう意味では確かに悠乃は彼女の「先輩」にあたるだろう。けれど先輩、先達、先導者……そういう意味なら、きっと自分は。
首を振ろうと改めて少女に視線を合わせて、瞬間。
バチン、と視界が明滅した。
眼球が焼け付くように熱くなる。視神経に電流が流し込まれたと感じるほどの衝撃が走って、悠乃は咄嗟に目元を覆って壁に手をついた。驚いたように掛けてくる少女の声は耳に遠く、脳髄に叩きつけられた何らかの映像を処理するので精一杯だ。
――赤い。瓦礫の山。炎が揺らめいている。火事だろうか。おそらく屋内だろう。煙が停滞している。機械音声が警告を発している。
『隔壁、しまっちゃいました』
少女の声だった。先程のものよりも随分と力ない。へな、と崩れたように座り込む「誰か」が映り込む。
『そうだね。いっしょだね』
「誰か」の声だと思った。まだ幼さを残した、やさしくて、やわらかな声。
『手を……握って、くれませんか』
少女は「誰か」に手を伸ばす。縋るように、寄り添うように。「誰か」は何も言わずに少女の手を取った。それがただただ、当たり前であるかのように。
そこからは、少し記憶が曖昧だ。
*
意識が断片的に飛ぶ中でわけもわからず管制室を追い出された悠乃は部屋の前まで送ってくれたマシュに何とか礼を述べて自室だと案内された扉を潜り、医療スタッフと名乗るロマニ・アーキマンの話を聞いていた。曰く、ここ人理継続保障機関フィニス・カルデアはレイシフトという技術を用いて何やらの研究をしている機関のようだった。ロマニはいくらかの説明にも芳しい反応を返せないでいる悠乃に不思議そうに首を傾げる。
「悠乃ちゃん確か時計塔の子だったろう。本当に何も知らないのかい?」
「はあ……一週間ほど前に突然手紙が届いたので……」
天体科ロード、アニムスフィアの紋が捺印された封筒が届いた時には何事かと目を剥いたけれど、開けてみれば何とも要領を得ない召集文が記されているのみであったので実のところ悠乃は自分がここに何をしに来ているのかも今ひとつわからないままなのだ。さっきの説明会をきちんと聞いていれば何か分かったのかもしれないが。
「うーんなるほど……所長の人員召集の粗さも困ったものだね。間違って一般枠として声を掛けちゃったのかもだ」
「いえ、別に……うちの家系は時計塔だとそんなに有力でもないし……私も、優秀な生徒ってわけでもないので」
「じゃあお仲間だ! ボクもこのエリート揃いの施設では毎度へっぽこ扱いでねえ。今日も『ロマニがいると現場の空気が緩む』って所長に追い出されちゃったんだ」
へらりと緊張感のない笑みを浮かべながら宣うロマニを悠乃は思わず胡乱な目で見上げた。その言い草でこの人、本当に名乗った通り医療部門のトップなんだろうか。
仲間ってことは友達だよね、とどこか嬉しそうな彼に毒気を抜かれて曖昧に頷きながら、先ほど脳裏に焼き付いた赤に染まった情景を思い出す。あの場所は朧げに認識したここの管制室と似ていた、だろうか――。
不意に。煌々と灯っていた照明がぶつりと切れて視界が黒に染まる。焦ったようなロマニの声で起動されたモニターには管制室が映っていた。
それが頭の中に流し込まれた映像と同じだと理解するよりも早く、悠乃は部屋を飛び出していた。
「ちょっ……橘さん!」
非常電源に切り替わったためか赤みがかった薄暗さの廊下の床を全力で蹴る。
「何を……そっちは出火元の管制室だ! 早くしないと隔壁が閉まる!」
「わ、……っわかりません!」
ロマニの言葉に半ば自棄を起こしたように悠乃は叫んだ。本当に、何をやっているんだろう。先ほどの管制室がたとえ本当にあの光景と同じ場所だったとして、それが何だというのか。あんなよくわからないものはきっと幻覚か何かで、こんな時に自分の命よりも優先することなんかじゃないと、頭では分かっているのに。
絶句するような一瞬の間の後、隔壁が閉まる前に戻るんだよ! と諦めを滲ませた声色が背に掛けられた。遠ざかる足音を振り向きたくなる衝動を堪えて、呼吸が早くなる。やっと見えた、管制室――。
扉が開いた瞬間ぶわりとこちらに吹いた熱風に立ち竦む間もなく愕然とする。同じだ、本当に。
――それが分かっていて尚、どうして私は戻ろうとしないのだろう。こんなところに来たって、私に何かできるわけじゃないことは私が一番よく分かっているのに。
足が震える。熱い。息が苦しい。
でも、だって、仕方ないじゃないか。
ただ求められた手を当たり前のように差し出すことを、私はこの上なく美しいと、思ってしまったのだから。
私もそうなりたかった。伸ばされた手を当たり前に取ることのできるそんな誰かにずっとずっと、なりたかった。