慈心のかけら

悠乃ちゃん。
 そう呼んだ時、彼女の反応がワンテンポ遅れることには召喚されてから割とすぐに気がついた。マスターちゃんと戯けを含んだ呼び名には寸分の間もなく反応を返すにもかかわらず。
 今もそうだ。
 わずかに瞳孔を開いて瞬きを一つ。

「なに? 斎藤さん」

 そう応じて彼女はこちらを見上げ、笑みを浮かべる。織田や上杉などといった名高い武将はおろか、外つ国の高明な偉人方、挙げ句の果てには神じみたナニモノかまで召喚しておきながら彼らと同じ程度の温度感で己などに頼る奇特なマスター。
 掲げた志の高低など推し量るだけ野暮ではあるが、新撰組という組織を指して、「弱小人斬りサークル」と宣う織田信長の言はある側面では真実に限りなく近い。所詮は片田舎から出てきた侍くずれにすぎないと、かつて浅葱を背負った頃には高官にさんざ謗られたものだが、目の前の少女にとってそれは大した問題にはならなかったらしい。
 召喚されてから何度か、レイシフトには同行したが野営を伴う任務は初めてだった。いくつかの問いににこやかに答えるあたり、元来人と関わることを厭わない質なのだろう――などと、会話の隙間で相手方に悟られることのないように観察してしまうのは最早習性にも近しい。
 本拠地のカルデアでは常そのまま背中に流されている長い髪はシミュレーションでの訓練やこのようなレイシフト時には高い位置で結い上げられている。最大の急所になる首元をこうも露骨に晒すのは些か無用心な気もするような。まあもっとも、敵に本気で首を狙われた時点で彼女にはもう為す術がないのだと言い換えることもできるだろうが。
 その懸念を裏付けるように、隣に立つ体の何とも華奢なこと。もちろん最低限以上には動けるものではあるのだろうが、当然ながら戦う者のそれとは程遠い。戦士よりも学び舎に通う女学生の方がよほど近しい彼女に世界などという大それたものを背負わせることに、斎藤は疑念を感じずにはいられなかった。

「……あの、斎藤さん」
「ん〜?」

 基本的に溌剌と話す彼女が口籠るのは珍しい。ちら、とこちらを見やる彼女と目を合わせる。彼女は数度口篭ってから何かを誤魔化すように眉を下げて、意を決したのか口を開く。

「自意識過剰な気もするんだけどなんか気になっちゃって」
「僕が?」

 それほど「見られる」ことに意識的な質ではないと思ったが、気付かれたのか。

「いえ、呼び方、というか……男の人に悠乃ちゃんって呼ばれること、最近なくて。妙に気恥ずかしい気がするというか、――女の子扱いされてるみたいで、ちょっと、いつも私変な感じになってるな、と……」

 予想外の言葉に面食らった斎藤を見て呆れられたと思ったのか、彼女は視線を逸らして片手で口元を覆う。そんなことをしても立ち位置的に斎藤にはうっすら赤らんだ耳朶まで視界に入るのだが。

「あー……いや別にやめてくれとか言うつもりではなくて、慣れるまで妙な反応しても気にしないでねとかそういう……何言いたかったんだっけ……な、なんかへんですねこれ……わ、忘れ、」
「いや、変というか」

 妙に早まる口調の彼女の言葉を遮る。最後まで言わせるとずれた方向に自己完結しそうな雰囲気だった。

「そもそも悠乃ちゃんは普通に女の子でしょーが」

 何を当たり前のことをこれほど躊躇いながら気にする必要があるのだ。
 今度は彼女が呆気に取られる番のようだった。
 いや、というよりも、ずるりと感情の一切が抜けたような。
 ぱっと振り向いた彼女の頬は白く、何の機微も察せられない。

「……マスターちゃん?」

 尋常ではない様子に訝しみながら声を掛ければ彼女ははっと目を見開いてから考え込むように目線を下げて押し黙る。もう一度何か気になったのかと口を開こうとして、同行していた他のサーヴァントが彼女を呼ぶ。それに反応して顔を上げた瞬間から、彼女は先ほどまでの溌剌な「マスター」の顔に戻っていた。

「また後でね、斎藤さん」
「お、ああ……」

 先ほどの一瞬なんて何もありませんでした、とでも言いたげに彼女は軽やかに踵を返すとたたっと小走りで呼び掛けたサーヴァントの元へ向かう。
 自然と取り残された格好になって意味もなく息を吐きながらガシガシと後ろ髪を乱した。

「妙なとこ踏んじまったか……?」

 しかし著しく機嫌を損ねた、というわけでもなさそうだった。
 なんせ最後に斎藤に声を掛けた彼女は、大事な宝物を見つけた時の、小さな子供の顔によく似ていたのだ。


  *


「なんだか嬉しそうですね、マスター」

 ひょいと横から顔を覗き込まれて悠乃は僅かな驚きとともに瞬く。嬉しそうだという沖田の言葉に心当たりはないでもなかったが、人に指摘されるほど浮かれたつもりもなかったのだけれど。そう? と首を傾げると沖田はうんうんと頷いてから得意げに笑ってみせた。

「私は悠乃さんをいつも気にかけていますので! 微細な変化にも気付いちゃうんですよねー、これが」
「敵わないなあ」
「何かあったんですか?」

 何か、というほど大したことでもない。無意識に忘れようとしていたことを、思い出しただけのことだ。
 彼には「気恥ずかしさ」と言ったが実際のところは自分でもその呼び方で呼ばれた時の脳内に走る一瞬の空白が何であるのか、ずっと分からなかったのだ。けれど。
 ――悠乃ちゃん。
 女性サーヴァントよりも数段低い声。声質以上に耳触りを柔らかく響かせる音。声も雰囲気も姿も、何もかも違うのに、私を呼ぶその響きだけはひどく似ている。それに気付かないふりをしていた。気付いてしまえば後は簡単なことだ。似ていると感じることは逆説的に違いを自覚することでもある。それならもうきっと今までのように混乱することも余分に意識を割いてしまうこともないだろう。
 なんでもないよ、と静かに首を振って笑いかける。
 ただ、久しぶりにあの人の声をちゃんと思い出した気がして、何だか少しだけ胸が軽くなっただけのことだ。

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