海図を辿る

長い長い夢の後、いつの間にかベッドに潜り込んできていたゴッホと共に健やかに二度寝を決め込んだ悠乃がアラームと慌てたような通信で叩き起こされたのはそれから数時間後のことだった。「記録されてない霊基反応が君の隣で寝てるんだけど⁉」という最もな異常事態を告げてくるダ・ヴィンチの言葉に大慌てでゴッホを揺すり起こして報告に向かった悠乃は矢継ぎ早に新所長からお小言を受け取り終わったところだ。最終的に、無事ならいい! と寛大に話を畳んだゴルドルフは足早に部屋を出て行き、ダ・ヴィンチ工房に残されたのは悠乃とゴッホ、それから部屋の主人であるダ・ヴィンチだけとなった。

「甘いねぇ、ゴルドルフ君は」
「優しいですよねえ」
「ほ、本当にすみません……! ゴッホがうっかりしたせいで、悠乃様まで怒られてしまうなんて……」
「気にしなくていいんだよ。報告忘れてたのは私なんだし」

 のんびりした様子でぽんぽんとゴッホの肩を叩く悠乃にダ・ヴィンチは工房の机に両肘を突いてため息を吐く。

「にしてもかのゴッホの意識を持つサーヴァントかあ……しかもフォーリナーという特殊クラス……私だって気にならないこともないんだよ?」
「ヒエッ……そ、そんな、れ、レオナルド・ダ・ヴィンチ様がゴッホの名前を……⁉ もしやここはとんでもない魔窟なのでは……というか思わずノリで来てしまいましたがこのような天才画家が揃い踏みであればゴッホは画家としてもお荷物……? か、帰りま」
「帰らないでゴッホちゃん」
「エヘヘ……はい……」
「……まあ今日はいっか。疲れてるだろうし、二人とも休んで大丈夫だよ。降臨者フォーリナーの危険性と有用性については精査して今後はこちらも一層気をつけておくことにしよう」
「お願いします」

 軽く頭を下げてゴッホと一緒に退室しかけて、ああそういえば、と悠乃は足を止めてダ・ヴィンチを振り返る。

「今回の試運転でキャプテンと仮契約したんだけど、今ってどうなってるかダ・ヴィンチちゃんわかる?」
「ああ、そういえば予定だとそうなってたね」

 ちょっと待ってね〜、とダ・ヴィンチは手元の電子端末を弄ってデータを呼び出すと一つ頷いた。

「バッチリ繋がってるよ」
「やっぱり……」

 うっすらと苦さの混じる悠乃の声色にダ・ヴィンチもゴッホもきょとんと目を丸くして悠乃を見上げる。

「どうしたの? もしかして上手くいかなかったとか?」
「そんなことは! お二人ともとても仲良くされてました!」
「あ、うん。別にそういうわけじゃないんだけど」

 慌てて否定の言葉を入れてくれるゴッホの言葉に頷きつつ悠乃は首を傾げた。

「でも試運転中の仮契約ってことだったでしょ?」
「ああ、なるほど。シオンにマスター権を戻すってことか」
「えっ⁉ ま、マスター様とネモちゃ……キャプテン様は、正式な契約関係ではないんですか?」
「そうだよ。キャプテンは別に召喚した人がいるの。今回のは色々と条件が重なって今は上書きして契約してる状態なんだ。レイラインを切ればシオンさんにマスター権が戻るはずなんだけど」
「け、契約破棄……ということ、ですか……?」
「うーん、まあ、そうとも言えるのかな」

 正確には一時的に設定した上位権限を取り消すというものに近いが。「どう思う?ダ・ヴィンチちゃん」と尋ねる悠乃はゴッホがさっと顔を青ざめさせたことに気付かなかった。

「シオンはそんなに気にしないと思うけどねえ」
「それでもだよ。有耶無耶になるのはよくないと思うの」
「律儀だなぁ。まあ悠乃ちゃんらしいといえばらしいけどさ」

 シオンなら管制室にいると思うよ。そう言ってひらひらと手を振るダ・ヴィンチちゃんに今度こそ背を向けて工房を退室する。

「それじゃあゴッホちゃん、私管制室に行ってくるね。一人で部屋まで戻れる?」
「は、はいっ」

 悠乃と目を合わせるのもそこそこにふらふらと覚束ない足取りで踵を返したゴッホの背中にやや不安感を覚えつつ見送る。大丈夫だろうか。まあ慣れていないとはいえカルデアには人を放っておけないタイプの英霊も多い。行き倒れたら彼ら彼女らが何とかしてくれるだろう――と楽観的に意識を切り替えて管制室へと足を向けた。

「こんにちは」

 管制室の扉を開くと二、三人のスタッフとシオンの姿があった。心配そうに、もしくは軽い調子で口々に労いの言葉を掛けてくれるスタッフそれぞれに言葉を返しつつシオンを呼べば彼女はこちらに気付いていつもの明朗な調子で口を開いた。

「悠乃さんこんにちは。災難だったみたいですね」
「新所長から何か聞いてます?」
「いえ。でもある程度事情は把握しました」

 ならば話は早い。今回の件でのキャプテンとの仮契約のことと現在の状況を話せばシオンは思わずと言った風に笑みを零した。

「計算通りとはいえ、律儀ねえ悠乃さんってば」
「それダ・ヴィンチちゃんにも言われたよ……」

 別にそんなに不思議なことを言っているつもりもないのだけれど。

「結論がどうなるにせよ、悠乃さんは尋ねる順番を誤っている自覚はあります?」
「……? 間違ってないでしょ。キャプテンはシオンさんのサーヴァントなんだし」
「あー、これ拗ねますねえ……」
「え、何のこと?」

 シオンは少し含みのある顔で一瞬考え込んだあと、にこ、といつもの笑顔に切り替えた。彼女のやや胡散臭い笑顔はもう慣れたものだがこういう風に浮かべられると少し気遅れしないでもない。

「いえいえ。お気になさらず」
「いや、気になるんだけど」
「まあまあ。――ふむ、そうですね。私としてはあまりマスターとサーヴァントという関係性に特別な思い入れって大してないんですよね。作戦上の都合もありますので、キャプテンがノウム・カルデアに所属しているという状態は重要なんですが、そのマスターが私なのか悠乃さんなのかというのは割とどうでもいいというか」

 ぱち、と悠乃は目を瞬かせる。シオンに誘導されて初めてこの彷徨海――ノウム・カルデアに立ち入った時、すでにキャプテンはシオンに召喚されていて、その距離感からも少なくない信頼関係を伺わせていた。その様子はもちろんこの数ヶ月の間も変わることはなく、いいパートナーなんだなと眺めていたのだけれど。

「というかそもそも、キャプテンは正統な成り立ちではないとはいえ、歴とした汎人類史側の英霊ですからね。そういう彼から見れば私より悠乃さんの方がポイント高いのは当然と言いますか――わあ、悠乃さん苦い顔」
「……そういう、比べるような言い方はあんまり好きじゃないです」
「あ〜そうでした。ごめんね」

 えへ、とでも言いそうなほど軽い調子で謝るシオンの顔にも声色にも一切の悪気は感じられないが、同じくらい悪意も一切感じられない。彼女からしてみれば悪意も卑屈もなくただただ事実を述べているに過ぎないのだろう。そういうのも何となく、ここ最近はわかるようになってきた。

「つまり、マスターであることにこだわりはないってことですか?」
「はい。もちろん悠乃さんの負担になるようでしたらキャプテンのマスターに戻ることもやぶさかではないですよ。まあでもノウム・カルデアは特殊な状況下ゆえ、人権ならぬ霊権? ですか、ある程度サーヴァントの権利も保障されてますし、やはりここはキャプテンの意向を直接聞いてみるのがいいかと」

 まあ、確かにそれもそうだ。面と向かってもし「正式なマスターとしては嫌だ」と断言されたら流石にちょっと傷つかない自信はないが、何事も本人の意思を尊重するべきであるし。

「……わかりました。ありがとうシオンさん。キャプテンと話してみます」


  *


 ドックの入り口で先ほど別れたばかりのゴッホと行き合った。「はうっ!」とあからさまな動揺を示して走り去った小さな背を追うのも気が引けて、仲良くなれたと思うんだけどなとため息を一つ。

「あーっマスターだ!」

 整備品を運んでいたネモ・マリーンの一人が悠乃の姿に目敏く気付いて駆け寄って来た。

「どうしたのー?」
「何か用事ー?」
「遊んでくれるの?」
「整備手伝ってよマスター」
「え、わわ」

 一人を皮切りに周囲のマリーンたちもわらわらと近づいてきて途端に周囲が賑やかになる。ネモ・シリーズの中でも少し幼いように思えるマリーンたちの無邪気さは先の夢の出来事では悪い方向に誘導されたが平常時にこうして懐かれるのは大変に可愛い。
 くんと袖や手を引かれるのに思わず頬が緩むのを自覚して、ふと気を引き締める。

「あ、あのねみんな、キャプテンは……」
「こらお前たち! 持ち場を離れるんじゃない!」

 不意に凛とした叱責がこちらに飛んで、わあっとマリーンたちが整列の姿勢を取った。悠乃もピンと姿勢を正す。ドックの奥から歩いてきたキャプテンは呆れたように「まったく……」と嘆息を零した。

「次の出航まで予定ではあと七日。ノーチラスは万全に整備する必要がある。小アジの群れのように集まっている時間はないよ。各自持ち場に戻れ!」
「アイキャプテン!」

 蜘蛛の子を散らすように――キャプテンの比喩に倣うなら小アジの群れを散らすように――ふねに戻っていくマリーンの幾人かが手を振ってくれるのを微笑ましく見送って悠乃はキャプテンに向き直る。

「忙しそうだね?」
「まあね。次の大西洋異聞帯は過去最大の規模と聞く。やれることはやっておきたい――とは言え、実のところやれることといってもあとは調整くらいのものだけど」

 僕に話があるんでしょ。悠乃よりもわずかに低い位置からの視線はお見通しとでも言わんばかりに冷静だ。

「……さっき、入り口でゴッホちゃんとすれ違ったけど」
「ああ……心配されたんだよ」
「心配って?」
「君が僕と契約破棄しようとしてるって」

 情報の伝達が一足飛びすぎる。くらりと頭の奥が揺れる感覚に眉間を悠乃は押さえてああと唸る。確かにちょっと思い込みの激しいあの不安定さに対して言葉を選ばなさすぎた。私が悪い。

「あ、あのねキャプテン……」
「でも、きっとキャプテン様なら大丈夫です、ってさ」

 ――もし言われたのがゴッホならダメかもしれないけど……ネモちゃんはとても頼りになる、かっこいい人ですから! マスター様も話せばわかってくれます!

「らしいよ」
「ゴッホちゃん……ゴッホちゃんも大丈夫だよ……」
「それ、あとで本人に言ってあげて」

 ふ、とネモが口元を緩める。夢の中の出来事であっても彼と彼女が繋いだ糸がまだしっかりと結ばれたままでいることをとても嬉しく思う。ネモはカルデアのサーヴァントとは少し距離を置いて接することが多かったから。

「それで? 僕と契約破棄しに来たの?」
「えっ……あ、いや、えっとね……そうと決めたわけじゃなくて。キャプテンは元々今回の試運転に限っての仮契約ってことだったでしょ。大西洋異聞帯への作戦実行も決まったし、今逃したらちゃんと話ができる機会なくなっちゃうかもと思って……」

 ふうん、と真意を探るような目に見つめられて精一杯の誠意でもって見つめ返す。淡い色合いの碧眼は透明にすら見えるけれど時に強い意思を持って輝くことを悠乃はもう知っている。あどけなさの残る風貌は決して英霊かれらを侮る理由にはならない。ここにいる彼らは意思を持ち、自らで考え判断し、そうした上で悠乃たちを助けてくれる存在なのだ。それは目の前にいるこのキャプテン・ネモも同じこと。
 しばらく見つめ合った彼は肩を竦めて息を吐く。その吐息に安堵が混じったように聞こえたのは気のせいだろうか。

「まあ、そんなところだろうとは思ったよ」

 ふいとネモは悠乃から視線を外す。

「彼女のことだし、いくらか大袈裟に取ってるだろうとは思ったけどさ。でもとりあえず一ついい?」
「は、はい」
「僕より先にシオンのところに相談に行くっていうのはどうなの? これは僕と君の契約についての話でしょ」

 思わぬ指摘に悠乃は不意を突かれて瞬いた。確かにネモと悠乃の契約の話ではあるが、同時にネモとシオンの契約の話でもある。だから別に、シオンに相談するというのは間違ってはいない、はず。

「僕の意向よりもシオンの意見を優先するんだね、悠乃は」

 ――あー、これ拗ねますねえ……。
 じとりと睨めつけるようなネモの視線にシオンの意味深な発言と含みのある笑みを思い出してはっと悠乃は気がついた。なるほど、これは妥当性の問題ではなく悠乃個人の優先順位について咎められているのだ。どちらにも話を通すことは前提として、まず優先して話を聞くのはどちらか。どちらの意思をまず初めに尊重するか。その選択肢においてまず自分を選ばなかった悠乃に対してネモは不満を――シオンの言い方に倣うなら「拗ねて」いるわけか。
 それは、何というか、常に冷静沈着を自らに課すキャプテン・ネモらしからぬこだわりでは。とネモに目を向ければ彼は頑なに悠乃から目を逸らしたまま、白い頬をほのかに色づかせてきゅうと口元を引き締めていた。言ってしまった、とありありと恥ずかしさを堪えきれない顔である。先ほどのマリーンたちを眺めた時の愛おしさが意図せずぶり返して困惑のまま停止していた思考が緩やかに動き始めた。

「ごめんね、キャプテン。……聞いていいかな」
「……何」
「キャプテンはどうしたい?」

 問いかけた悠乃をネモはちらと見上げてからドックの奥に踵を返す。しゃんと伸びた背筋についてこいと暗に言われているようで、数歩後ろからネモを追いかけた。
 飾り気よりも機能性を最重視した船渠は音がよく響く。カツン、と一歩ごとに鳴るネモの靴音と背に揺れる長い髪にふと見惚れていると彼は静かに口を開いた。

「僕はいいと思う、君がマスターで」
「どうしてか、聞いてもいい?」

 マスターを変える、というのがサーヴァントにとってどういう意味を持つのか、正確なところは悠乃にはわからない。そもそも、カルデアという特殊な状況に慣れてしまった悠乃にしてみればたった一人とたった一人が契約を結ぶ本来の英霊召喚自体、あまり馴染みのないものなのだ。けれど、異聞帯でのそれぞれのマスターと戦うという経験を経て、マスターとサーヴァントがどれほど強い絆で結ばれるのかの片鱗を見てきた。相性の良し悪しはもちろんある。悠乃と悠乃に応えてくれたサーヴァントたちの絆が弱いものだとも思わない。けれど、お互いがお互いにとって唯一無二であるということの意味を、悠乃は今まで本当の意味では理解しきれていなかった。それはきっと今だって同じだ。どれほど悠乃が一人一人に心を砕いても、厳然たる事実として「橘悠乃のサーヴァント」はたった一人にはなり得ない。
 だからこそ、マスターとサーヴァントとして真っ当な信頼関係を結んでいるシオンとネモがマスターとサーヴァントでなくなるというのなら、そこには何か理由があるのではないかと考えてしまう。

「シオンに召喚された時、まだ僕は何者でもない存在だった」

 港の中央部、整備中のノーチラスの前でキャプテンは足を止めた。ノーチラスに向き合う彼の横顔はとても静かに見える。

「クラゲのようにただ在るだけの僕でいることを許してくれたシオンには感謝してる。トリトンとしての僕は人間を愛しているけど、ダカール王子としての僕は人類の文明社会をどうしようもなく忌避していて、その感情は今も間違いなく僕の中で両立してる。迷っていたんだよ。君たちと出会った後も。人類は僕にとって手を貸すに値する価値を持つのか」

 初めてキャプテンと出会った時のことを思い出す。自らのことを「名無しネームレス」と称した彼はしんと張り詰めた雰囲気であったように思う。それもそのはず。海底二万里において描かれるノーチラス号の船長は陸上の世界に対して心を閉ざし、心を許した仲間たちのみを伴って未だ人類にとって未開の地であった海底に身を置くことを選んだ人物なのだ。理知的にして厳格、知的探究心旺盛ながらも、どこか排他的な苛烈さを秘めたその人は祖国の仇であるイギリス、ひいては彼らが主導する世界の大きな流れというものを疎んだ。なればこそ、たとえ人間を愛し祝福を与える人魚トリトンとの意識が混ざった状態であったとはいえ、人間に対して複雑な感情を覚えるのは当然のことだ。
 でも、とネモはノーチラスの外殻にそっと手を添えて眦を緩めた。

「迷った上で、君たちの旅に同行して僕は僕自身の意思で僕が『キャプテン・ネモ』であることを定めた。ただのキャプテンでも、人魚でも、王子でもなく、ネモであることを」

 穏やかな表情のままネモがこちらを振り返る。

「僕という存在を呼んだのはシオンだけど、僕を『キャプテン・ネモ』にしたのは君たちだ、悠乃。だから、君が僕のマスターになってくれたら、嬉しい」

 合わせられた瞳の柔らかな温度にきゅっと心が締め付けられる。その言葉は紛れもなく悠乃たちカルデアの人間が辿ってきた旅路の肯定だ。そのことに安堵を覚えるのはきっと傲慢にしかならないけれど、嬉しいと感じることくらいは間違っていないと思うから。
 喉に詰まった息を吐き出して、深く呼吸を整える。

「ありがとう。私も、キャプテンが私のサーヴァントになってくれたら、とても嬉しい。――キャプテン・ネモ、どうかこれからも、力を貸してくれる?」

 差し出した右手は当然のように握られた。少し華奢な、それでも確かに船を支える手のひらだ。

「いいよ。これからは君のふねとして、導き手として、君の航海を助けよう、マスター」

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