あわいにとける

「キャプテン? おはよう」

 静かに甲板のハッチを開ける音に目を向ければひょこりと顔を覗かせた悠乃と目が合う。わずかに眠気の残る目を綻ばせてそう言う彼女に口元が緩んだ。

「おはよう、悠乃。随分早いね」

 白みがかり始めたばかりの空とまだ薄靄にその輪郭を滲ませる水平線。夜間には数体スリープモードに移行させるマリーンたちがそろそろ起き始めるかという頃合いだ。他の乗員たちの起床時刻にはまだまだ早い時間なのだけれど。

「何だか目が覚めちゃって。風に当たりたくなったの」

 悠乃はハッチを閉じるとぐっと両手を上げて大きく伸びをする。その仕草に緊張感や怖気などといったものは感じられないが、聞くところによれば彼女は今まで潜水艦というものには縁がなかったらしいし、知らずのうちにストレスを溜めている可能性もある。

ふねは落ち着かない?」

 きょとんと瞬いた悠乃の反応でそれがまったくの杞憂だったことはすぐ分かった。

「そんなことないよ。とても快適。たまたま目が覚めて通路に出たらマリーンくんが今は浮上してるよって教えてくれたから」

 納得と程近い安堵の息を一つ。夜明け前の甲板がお気に入りの場所だと教えたのはネモ自身だった。遠くカモメの鳴く声と低い風音。しとやかな雨こそなくとも凪いだ海上の空気はいつもどこかやわらかくて静謐だ。日の光が昇る瞬間を眺めるのにこれ以上絶好なロケーションはそうないだろうと思う。

「海の風は冷たいよ。……もう少しこっちに寄ったら」

 歩幅二つ分の距離をうす寒いように感じるのは風が冷たいせいだ。言わばペンギンの子どもが吹雪で身を寄せ合うのと同じ。頷いてひょいと一息に距離を詰めて隣に座り込んだ悠乃に身動ぎするふりで肩を寄せる。触れるか、触れないか。どちらにせよ体温があからさまに伝わるほどの近さでもないのに、彼女が座った側がほのかに暖かくなって心地がいい。
 悠乃はどうだろう、と横顔を伺うつもりで上げた視線がまっすぐぶつかってネモは首を傾げる。

「マスター?」
「あ、ごめん。見られるのあんまり好きじゃなかったね」

 慌てたように視線を外す悠乃に「別に、」と呟く。

「嫌じゃないよ。どうしたの」

 普段は距離感なんて気にもせずにするりと周囲と馴染んでしまうくせにこういう親密な接触となると途端に慎重に距離を測るようなところがこのマスターにはある。それがネモと接する時だけなのか、他のサーヴァントともそうなのかは知らないけれど。
 少し躊躇うほどの間を開けて彼女の目が再度こちらを向く。

「ネモが髪結んでないの珍しいから。気になっちゃった」
「ああ……そうだっけ」

 そもそもサーヴァントは大して身嗜みを整える必要性はない。基本的に服も装飾品も固定された礼装であるので、たとえ戦闘で乱れたとしても一度霊体化すれば元に戻るわけだし。であれば彼女が珍しいと言った大意は「どうしてほどいているの?」だろう。

「今朝はあまり風が強くないから」

 そよ風に髪が浚われる感覚は好きだ。ふわりと流れる髪と一緒に心も浮かれるような気がして。
 まあ皆を牽引する船長たる僕が浮かれていてばかりもいられないんだけど、と自制も込めて声を落とせば「別にいいんじゃない?」とひどく軽い調子で言葉が返された。

船員クルーはマリーンくんたち以外まだ起きてないし、船長らしくなくても」
「キミは起きてるけど」
「……私もまだ髪結んでないから就寝中オフみたいなものだよ」
「それは無理がある」

 むう、と悩ましそうに眉を寄せる悠乃にくすぐったいような心地になってつま先で軽く地面を擦る。別に、言い訳まで一緒になって探してくれなくてもいいのに。

「じゃあクルーじゃなくてただのマスターってことにしよう」
「なにそれ」

 妙な語感にふふ、と笑みが零れる。ただのネモとマスターなら浮かれていてもいいとでも言いたいのだろうか。

「ネモの髪、きれいで好きよ。毛先にいくほど青が濃くなるの」

 穏やかに蕩けた声で臆面なく褒められて悪い気はしない。

「ネモもトリトンも海に縁を持つからね。この髪は人魚の権能の表れでもあり、ノーチラスの潜る深海の象徴でもある」

 目を向けた海面は空と海の境を引くように白い光が水平線をくっきりと浮かび上がらせ、藍色から透き通った青へと色を変えている。
 ――ああ、そうか。
 心のうちだけで呟いたつもりの言葉は口に出ていたようで、悠乃はネモの顔を覗き込むようにして首を傾けた。射し込んだ朝日が透けて視界にちらと光が散る。眩しく目を細めてそれを指先でそっと掬いあげた。

「キミの髪も、海の青だ。海底から見上げる光の色と同じ。寄る方のない海の底で、唯一確かなしるべの色だよ、悠乃」

 小さく息を詰めた気配に構わず立ち上がって「そろそろ戻ろう」と手を差し出せば慌てて手を取った。そのままきゅっと手を握り込んで踵を返す。

「あ、あの、ネモ?」
「なに?」

 三歩も歩かないうちに立ち止まって振り返る。ネモの顔と繋がれた手を交互に見比べる悠乃に顔色を変えないでいると、やっとのことで悠乃はネモの真意に思い当たったのか、なるほどとでも言いたげな顔をしてから少し嬉しそうに笑った。

「……えっと、次の港に着くの、今日だっけ」
「そう。今日の昼頃。買い出し、手伝ってくれるよね」

 うん、という頷きと共に握り返された指先は海風のせいか少し冷たくて、けれど、どうしようもなく暖かいものだった。

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