気づくと夜の砂浜に立っていた。ぐるりと辺りを見る。誰もいない海岸だった。
──どこかで見覚えがあるような。どこだっただろう。
緩慢な思考は一歩足を踏み出した瞬間に霧散した。素足で踏む砂地は心地よく沈んで、さらさらとした感触は気持ちがいい。波打ち際へと近寄る。寄せては返す波は確かにむき出しの足を濡らすのに、不思議と温度は感じなかった。足元の砂を波が攫って、少しこそばゆい感覚に口端が緩む。
視界の先には真っ暗な空と海が続いている。
ふと、同じ黒なのにどうして空と海を区別できるのだろうとぼんやり考えた。なぜ光もないのに水平線が見えるのだろう。ぼんやりと、水の中を揺蕩うように考えた。
一歩、足を進める。甲が沈む。
一歩、進む。足首が沈む。
一歩。脹脛が沈む。
一歩、膝が沈む。
一歩、一歩、一歩。
いつの間にかざぶざぶとかき分けるようにしてお腹まで海水に浸っている。
進まなければならないと思った。あの水平線の向こうまで、進まなければ。
一歩、進もうとして──ぱしりと手首を掴まれた。
「そちらへ行ってはいけないよ。戻って来られなくなる」
ぼんやりしたまま振り向いた。何もかもが暗いこの場所で、それだけがうっすらと明るかった。でも、とまごつく言葉が口をつく。水平線を見返した。
「でも……わたしを、呼んでるの」
獣か人かもわからない、怨嗟か嘆願かもわからない、けれど確かにあれは彼女を呼んでいた。白いローブをまとった彼は首を横に振る。どこか頑なさすら感じるような仕草だった。
「あれはただの亡霊だ。耳を貸してはいけない」
彼は彼女の手を静かに引いて促す。
「さあ戻ろう。──ここはとても寒いだろう?」
彼がそう言った瞬間、ぞわりと這い上がるように水が冷たくなった。彼に手を引かれて岸へと戻る一歩ごとに水を吸って張り付く衣服が重くなる。そうだ、水はとても冷たくて重いものだった。忘れていた。水平線の向こうから聞こえる「亡霊」の声が、あまりにも悲しそうだったから。
乾いた砂に足がつく。ずぶ濡れの彼女とは正反対に彼のローブはどこも濡れていなかった。海の中にいる間はよく見えなかった彼の顔が鮮明になる。彼は芝居がかった仕草で肩をすくめるとどこか無機質なアメジストの瞳を憂うように細めてみせた。
「こんな表層まで上がってくるなんて。もしかして彼、思ったよりも深刻に弱っているのかな?」
「……彼?」
「ここよりも深いところでキミを守っている彼だよ。キミは知ってるはずだ、悠乃君」
呼ばれた名前に軽い頭痛が走って靄がかった思考が不意に晴れた。は、と浅く息を吐く。
「──マーリン」
「久しぶりだねマイロード。とはいえ夢だ。起きたらきっと忘れてしまう再会だが」
マーリンは手元に杖を出現させると「えい」とやたら可愛らしい掛け声でとんと一度地面を突いた。一瞬花の香りがしたかと思えば濡れていた衣服や髪が綺麗さっぱり乾いている。見慣れた胡散臭い笑みを見た途端疲労感を覚えて、マーリンを背にして砂浜に座り込んだ。夢の中でも疲労は感じるらしい。見つめた水平線の向こうからは変わらずナニカの声が聞こえてくる。
「アレは外からの干渉だが、ここはキミの心象風景だ」
何せこれはキミの夢だからね。二、三度砂を踏む音がして視界の端にマーリンの虹色の銀髪が揺れた。
「随分寂しい場所にいる。キミの故郷に海はあったかな」
「湖はあったよ。どんなだったか覚えてないけど」
片手で数えられる程度通りがかっただけの水辺よりも、悠乃にはもっと思い出深い海岸があった。隣にいるマーリンも行ったことがあるかはわからないが、きっと知っているだろう。
「ウルクの海に似てる」
「ああ──観測所のあったあの海岸か」
確かに、とマーリンは頷いてふっと微かに吐息を零した。
「ウルクの空はもっと明るかったように思うけどね」
返す言葉は思いつかなかった。その通りだったから。ウルクの夜はもっとひそやかな活気に満ちていて、空には眩い星々がいっぱいに広がって美しかった。あの一月あまりでは見ることは叶わなかったけれど、きっと夜の海も目を見張るほどに美しかっただろう。少なくとも水平線の向こうに怯えるようなただの暗闇だけが広がっているなんてことはなかったはずだ。こんなところをかの王に見られたら十中八九すこぶる叱られてしまう。
「ずっと視ていたよ。遠いところから」
「……うん」
「あの日──キミとお別れした日にはもうこの未来を知っていたと言ったら、キミは怒るかい?」
その答えももう「知っている」くせに。悠乃は力無く首を振ってさらりと砂をすくい上げた。
「怒らない。あなたはそういう生き物だもの」
皮肉でもなんでもなく、マーリンとはそういう生き物だった。ヒトの感情を食べ、夢を渡り歩き、遍く全てを見晴らしながらその紋様を愛することしかできない非人間。手から零れ落ちる砂を見る。指通りのいいそれはほんのりと冷たくて気持ちがよかった。
「手厳しいねぇ」
「本当のことでしょう」
「これでもキミのことは案じているんだよ。その証拠にほら、遥々ここまで助けに来たわけだし」
戯けた声色にどう返したものかと見上げると、淡い紫色が笑みの形に撓む。
「疲れてしまった?」
悪魔みたいな問いかけだなと考えて、そういえばこの男は妖魔の類だったと思い直す。疲れたのかと聞かれれば、もちろん疲れてはいた。誰かから拒絶される戦いにも、誰かが望み生きている世界を切り落とすのにも。託されたから、願われたから、許されなかったから、まだ立っていられる。まだ前を向ける。けれど確かに、もう随分と前から色んなものを削ってきて、そして多分これからも削り続けていくのだ。そういうことに投げやりになるような時期はとっくに過ぎてしまったけれど、それでも。
「ずっと、誰かの代わりに戦ってるつもりだった」
波の音と声しかしない夜の空気にその呟きは悠乃が思っていたよりもよく響いた。
「私の代わりにここに立ちたい人なんていくらでもいて、私じゃなければもっとたくさんの人を救えたんじゃないかって、ずっと考えてて。それでもここには私しかいなかったから、選べたのは私だけだったから、私だけじゃなく生きたいと願う誰かの代わりに──ここに立ってるつもりだった」
「違ったのかい?」
「…………わからない」
落とした声は少しだけ震えた。遠いさざめきに耳を澄ませる。マーリンはあれを亡霊だと言ったが、もっと正確に言うならあれは世界の断末魔に近しいものだろう。多くの念が寄り集まって、もうそれぞれを聞き取ることもできないけれど。それを悲しいと思うことも、きっと傲慢だった。
「でも……みんな、生きたいと願ってるのは同じで、明日も、明後日も、その次も、──みんな、当たり前に世界が続くと信じてる。その願いの上に立っていて、私は、まだ答えもないままだ」
世界を救えるとゼムルプスは言った。自分こそが最後の人類になるとキリシュタリアは言った。ならば私は? 使命感も、世界を背負う覚悟もないまま、英雄にもなれずにここにいる。そのことを間違いだとは言いたくなかった。けれど、正しいのかもわからない。
「これはただの気休めだが」
マーリンが口を開く。マーリン自身、意味がないと思ってでもいるような恐ろしく平坦な口ぶりだった。
「人間はその性質上多かれ少なかれ誰かの願いを踏み躙って生きているし、明日も明後日もその次も、当たり前に世界が続くと信じている。そこに何も保証がなくてもね。キミはそういう世界の構造にたまたま気づいただけで、そこにはキミが負うべき責任もなければ、彼らに補填すべきものもない。なぜなら彼らもまた願いの上に生きている存在だからね」
マーリンは言葉を切ってから、ふむと少し考え込んでさっと雰囲気を和らげた。
「とまあ、こんな話はシャーロック・ホームズあたりから散々聞かされていたかな?」
「まあ、そうかな……」
「グランドキャスターともあろう僕が二番煎じとは……」
「いやグランドキャスターじゃないでしょ」
はは、とマーリンは軽やかな笑い声をあげて適当に誤魔化すとさくさくと砂を踏み締めて悠乃の目の前で膝を突いた。暗闇に慣れた目にはぼんやりした光でも少し眩しい。小さく眉を寄せる悠乃に微笑んで、マーリンは彼女の頬に手を当てた。
「逃げたくなった?」
驚いて目を見開く悠乃に構わずマーリンはあくまで穏やかに、けれど口を挟ませない勢いで言葉を繋ぐ。
「キミの理由にいつ答えが見つかるかもわからない。もしかしたら納得できる答えなんてないのかもしれないよ。世界を背負うなんてこと、本来人間にできることじゃないんだ。重いと感じるのも怖いと感じるのも当たり前のことで、もしキミが戦うことをもうやめたいと言うなら、私としては好みの展開じゃないけど全部忘れてしまうことだって、」
「──違うよ、マーリン」
押し留めるようにはっきりと否定した。初めて正面から目が合ったと思った。これが彼なりの後悔からくる問いかけなのだということを、多分悠乃だけが知っている。一度も尋ねないまま、一度も泣かないまま、やり遂げてしまった小さな女の子への。
「あの日、選べる道を視せられてから誰かの代わりにここに立ってた。ずっとそう思ってきたし、今もそう思ってる。……それでもね、選んできたのは私なの」
戦わないことはできた。諦めることは簡単だった。
「私は自分で選んでこの道に立ってる」
マーリンの肩越しに水平線の向こうを見た。あれが悠乃のしてきた選択の結果だというなら。
「あれは全部、私のものだよ。今更誰かに押し付けるつもりも、忘れるつもりもない」
そうか、とマーリンは呟いてするりと手を離した。その顔はどこか悲しいようにも諦めたようにも見えた。ふとマーリンがカルデアから退去した日のことを思い出す。いつの間にかカルデアで姿を見かけるようになった彼のことだから、きっと退去する時もふらりといなくなるのだろうという悠乃の思惑に反して、マーリンは律儀にも彼女を呼び止めた。査問に向けての資料のためにドクターの自室へ立ち入った時のことだった。それじゃあこれでとマーリンは笑って、いつかのように花を一輪手渡した。紫から白へグラデーションのかかった花びらが静かに揺れたことを覚えている。
『キミの道行きに幸いがあるように。──またね、悠乃ちゃん』
今になってやっとわかった。その言葉と渡されたアネモネが感情の希薄な人でなしのわずかな情の発露だったのだ。
悠乃は小さく笑って離れた手を掴む。驚いたようにぱちりとマーリンが目を瞬かせるのを小気味よく思った。
「でも一人で全部背負えるとまでは思ってない。だから助けてくれてありがとう」
「……どうだろう。僕は人でなしだからね。もっとひどい地獄へ背中を押しただけかもしれないよ」
「それでもいい」
悠乃はぱっとマーリンの手を離すとそのまま立ち上がった。足元はいつの間にか靴を履いていた。スカートの砂を払う。
「そりゃあ重いし、苦しいけど、私は逃げないよ。あの人に全部終わったよって笑って言える答え、まだ見つけてないから」
そろそろ夢も覚める頃合いだろう。空が白み始めていた。踵を返して海とマーリンに背を向ける。
「じゃあね、マーリン。次もまた、助けてね」
「お安い御用だとも、マイロード。僕はキミのファンだからね」
*
黒い礼装は喪服のようで良くないな、と華奢な背中を見て考えた。ふわりとその背が夢の世界から消えるのを見送って魔術師は深いため息と共に独りごちる。
「人でなしの業だねぇ、ロマニ・アーキマン」