永遠なんてないけれど

悠乃は頭を抱えていた。通りがかったサーヴァントたちにすわ世界の終わりかと案じられるほど、見事に、あまりにも重大そうに頭を抱えていた。
 食堂のテーブルに陣取った彼女の脇に温かい紅茶を置いてやりながらエミヤは深々とため息を吐く。バレンタインを数日後に控えた今日。いつしかカルデア三大行事と呼び習わされるようになったイベントの直前である。本来ならば忙しなくキッチンを出入りする女性陣を捌くためにスケジュール管理やら材料の補充やら、はたまたチョコレート作りの補佐やらを務め自らも休みなしで働くのがこの時期の常なのだが──どうやら、今年は少々風向きが異なるようだ。

「いい加減その親の仇でも見るような目はやめたまえ。そう見つめても君にその目前の物体を消す力はないぞ」
「ん゛〜〜〜〜〜〜ッ」

 ばたん、と倒れ伏した悠乃の目の前に置かれているのは深い紺青の正方形型の箱。外張りになめらかな布地が貼られた、真ん中からぱかりと開いて開閉するタイプの、いわゆる、リングケースというやつだ。

「レディらしからぬ唸り声だねぇ」

 くすくすと完全に楽しんだトーンで茶々を入れるのは悠乃の隣で片肘を突いた花の魔術師マーリンである。テーブルに額を預ける悠乃の肩をぽんぽんと叩き、問題となるリングケースに手を伸ばす。音もなく開かれたケースの中には金のリングが一つ、キラキラと眩い光を放って鎮座していた。
 経緯は数十分前に遡る。
 シミュレーションからの帰り際、バレンタイン付近のキッチンスケジュールについて悠乃に尋ねられ、そこから雑談交じりの情報交換に移ろった時。「今年はなにを作るか決めたのか」「うーん……何となくは」「マイロード! まだお悩みのようなら星見のチョコレートとかどうだい? 私が茶葉を融通しよう」「薬物混入は御法度だ、花の魔術師」「え〜悠乃君にメロメロなサーヴァントが増えて楽しいと思うんだけど」「それ楽しいのマーリンだけだから」などと碌でもない話をしているその最中。

「あ、いたいた。悠乃ちゃーん!」

 カルデアの技術顧問にして万能の天才の後継機、少女の姿をしたレオナルド・ダ・ヴィンチが姿を現したのだ。いかにも探していました、と言わんばかりの声掛けに三人揃って足が止まる。

「どうしたの、ダ・ヴィンチちゃん」
「ふっふふーん」

 口火を切った悠乃にダ・ヴィンチは謎のドヤ顔を披露すると天使のような悪戯っ子の笑顔でにんまりと目を細めたのだった。……思うに。きっとこの時の嫌な予感は非常に的を射ていたのだろう。

「そろそろバレンタインの時期だよね?」
「うん、そうだね。今年も頑張って作るから楽しみにしてて」
「それはもちろん! マシュもだけど年々悠乃ちゃんも腕を上げるからなぁ……っていやいや、そうではなく。バレンタインといえば、さてなーんだ! マーリン君!」
「え? うーん、そうだなぁ。公然と女の子を口説ける日?」

 一瞬にして「いつも口説いてるだろ」の三対の目を向けられてなお、マーリンは悪びれなく笑って見せた。

「いや……うん、まあ。……そう! 秘めたる想いを伝える日。それがバレンタインだね?」
「軌道修正が雑すぎる……」
「バレンタインといえばチョコレート。想いを込めたチョコレートと共に日頃の感謝や普段は言えない大切な気持ちを相手に手渡す……イベントとしては非常に素晴らしいものだ。だが!」
「だが?」
「私たちは考えた。少々マンネリすぎるのではないかと!」
「ええ……」

 キリッとした顔で言われても困る。

「もちろんチョコレート自体は素晴らしいものだよ。美味しいし、バリエーションもあるし。でもカルデアでバレンタインをやるのももう何度目かになる。悠乃ちゃん? 尋ねるけれど、君は秘めたる想いを本当に明かしているのかい?」

 急な名指しに悠乃の肩がびくつくのがわかった。ダ・ヴィンチはスッと表情を改めて悠乃を見つめ、案ずるように言葉を重ねる。

「大切な人に気持ちを伝えられている? 特別な想いをきちんと手渡している? 時間は有限だ。多くの人とずっと一緒にいられることなんてないし、言葉は押し隠せば隠すほど、どんどん重いものになっていく。言葉にしないまま、伝えないまま抱えていくのは、それはそれで美しいけれど、何もそうしなければ美しくないわけじゃない。君には言わなければならないことが──伝えたい気持ちを抱えたままでいる人が、いるんじゃないかい?」

 悠乃が息を呑む。ダ・ヴィンチを見つめてぎゅ、と拳を胸元で握りしめた。向かいの花の魔術師は胸元に寄った制服の皺を凝視するのやめろ。

「ダ・ヴィンチちゃん……」
「皆まで言わなくていいとも」

 ふ、とどこか似つかわしくないながらこれ以上ないほどしっくり来る大人びた笑みをダ・ヴィンチは浮かべるとこくんと力強く頷いた。

「特別な想いを伝えるには特別な贈り物を! ということで、用意したよ! 奥手な君のための、素敵アイテム!」

 てってれー、と非常に聞き覚えのある効果音がどこからともなく流れてダ・ヴィンチが小箱を取り出した。ぽんと手渡された悠乃が頭上に疑問符を浮かべながら小箱を開くのをエミヤとマーリンも横から覗き込み──

「悠乃ちゃんのいたいけな唯一無二の想いを託すカルデア謹製の絆の証……その名もバディ・リング[GOLD]! もちろん純金製だとも!」

 と、いうところで、現在に至る。
 ケースごと持ち上げてじっと意匠を眺めていたマーリンは「よく出来てるねぇ」と呟いた。ささやかではあるが身につけたものに加護を与える効果があるようだ。

「こういうところ、カルデア彼らは手を抜かないよね。私はキミたちのそういうところ、すごく好きだぞぅ」
「……そう……」

 相槌の魂が抜けている。重症かもしれない。秘めたる想いを伝えるだとか、特別な贈り物をだとか、御託は理解できるのだ。ただまあ、そもそもとして。
 それが出来たら苦労はしない。
 と、いったところだろう。悠乃としては。しかも用意された贈り物がよりにもよって指輪ときた。もうなんかガチである。ガチ中のガチだ。

「ゆびわは……ゆびわは、だめじゃん……ゆびわは……」
「行くところまで行った感じだねえ」

 いっそ亡霊のような譫言にエミヤは眉間を押さえ、はぁぁ、と再度深く深くため息を吐く。エミヤとてこのカルデアでは最古参にあたるサーヴァントであり、マスターである少女の色々と拗らせた感情はよくよく理解している。だがしかし……否、だからこそ。いい加減バレバレなそれを押し隠す意味が正直まったくわからない。別に指輪を贈りたくないというわけではないだろう。第一、悠乃は。

「こう言ってはなんだが、たかが指輪だろう。聖杯を四つだか五つだか捧げている時点でそれより高価値なものはないと思うが」
「そういうことじゃなくてぇ……!」

 ついに泣きが入った。まったく、彼女のこととなるとこの少女は割とすぐに平常心を失いかけるのだから困ったものだ。そういうのを長らく見てきたからこその此度のダ・ヴィンチ含むカルデアスタッフの余計なお世話おせっかい──もとい、援護射撃なのだろうけれど。

「いいからあまり深く考えず渡したまえ。せっかく君たちのために用意してくれたんだ」
「考えないとか出来る⁉︎ 指輪リングだよ⁉︎」

 がばり、と悠乃が身を起こす。
 まあ確かに考えないのは難しいだろうが。少なくとも客観的に見て悠乃が彼女に指輪を渡したところであまり驚きはない。まあ、そうだろうな、という感じだ。一部のサーヴァントはわからないが、少なくともカルデアに召喚されている大多数、九割強の英霊が「知ってた」と言うことだろう。賭けてもいい。

「エミヤなら渡せるの⁉︎ セイバーに! 指輪!」
「私は関係ないだろう⁉︎」

 ダイナミックすぎる巻き込み事故は勘弁してほしい。そもそも悠乃には彼女に指輪を渡す必然性があるかもしれないが自分にはない。あと悠乃の彼女の呼び方が以前のものに戻っている。よほど動揺しているのだろうか。

「だって、指輪は……ガチというか、あからさまというか……あの子には運命の人がいるというか、……ねえ、そうでしょマーリン!」

 マーリンならわかってくれるでしょう! と言わんばかりの様相で悠乃がマーリンをぐるんと振り向く。たまに思うのだが、悠乃のこの魔術師へのごく限られた方向性の異様な信頼は一体どこから来るのだろう。理解し難いような、……理解したくないような。
 マーリンは悠乃の睨み上げるにも等しい視線を受けてぱちりと瞬き、ううん、と考える素振りをした後にっこりと笑って見せた。

「それはそれ。これはこれだとも。私はキミたちがハッピーなら何でもいいと思うよ」

 この魔術師、心臓が強すぎる。異教徒が、と吐き捨てた悠乃の言葉を全力で聞き流しながら悠乃から目を逸らす。異教徒ってなんだよ。目を逸らした先でマーリンとうっかり目が合った。魔性のようなアメジストが意味深に細まる。

「ねえ。キミもそう思うだろう、エミヤ君」
「……………………カメラ、回ってないよな?」


   *


指輪リング、ですか」

 ホログラムスクリーンに投影された映像を見ながらアルトリアは呟く。ダ・ヴィンチの工房を通りがかった際にかの天才に呼び止められたのだ。

「そう。特別な日には特別な贈り物が必要かと思ってね。ほら、そろそろバレンタインだし」
「それで指輪とはまた……思い切りましたね」
「リングの意味する情緒的な観念の話かい?」
「ええ。私の時代には縁遠いものですが、知識としてはありますから」

 肌に直接身につけてもらうものであること、多くが高価なものになることを考えれば、装飾具……アクセサリーというのは概して贈り物としては特別な意味を持つことが多い。特にその中でも指輪というのは際立って格段の意味を持つはずだ。婚姻にまつわる約定の際に贈られるものであるというのがそれを表している。

「ハルノには……少々、ハードルが高いのでは」
「それ、君に言われちゃうんだもんなぁ」

 古今東西の美男美女が集まるカルデアにおいて浮いた話を一つも聞かない奥手というか身持ちが固いというか、とにかく控えめなあの少女のことである。ダ・ヴィンチのぼやきの意味はよくわからないが、一足飛びに指輪というのは如何なものだろうか。
 指輪は契約や独占、はたまた永遠などを意味するアイテムだ。魔術的にも現代社会においても、そうほいほいと他者に渡すものではないように思うのだけれど。と、そこまで考えていやこれは余計なお世話というやつだろうかと思い直す。確かに自分は彼女のサーヴァントであり、友人でもあるけれど彼女がどのようにして他者と関係を結ぶかなんてことに言及する権利はないわけで。別にそれは言葉でも、行動でも、贈り物であっても構わないのだし。そもそも生前を王として生きた故に、アルトリアには他者との対等な関係の結び方や発展のさせ方といったものの造詣はさほど深くない。であれば、悠乃の交友関係に口を挟むのは野暮というもの。

「それで……なぜ私にこれを?」

 スクリーンには材質だの魔術的な効果だのといった情報も一緒に併記されているが、アルトリアにはそのあたりの技術的な知見はない。わざわざアルトリアに意見を乞う必要があるのだろうか。

「うん? まあ、参考までにね。どうかなーって」
「はあ……美しいとは、思いますが」

 実物は映像から想像する他ないが、形はシンプルでありながら表面に彫られた意匠は凝っていて見事だ。おまけに装備すればささやかながら恩恵すらあるのだから、カルデアという組織が作成するリングとしてはこれ以上なくらしいと言える。

「実はまだケースが出来てないんだけど、何色がいいと思う?」
「色ですか? そうですね……青などがいいのでは」

 ハルノの髪の色ですし、と続ける前に「なるほど、青ね」とメモ書きの声に遮られる。どこかにやけたような響きがあったのは気のせいだろうか。

「つかぬことを聞くけど、君は指輪とかどう思う? 王様」

 急な話題の転換に思考が追いつかない。賢者というものは往々にして普通の目には見えないものを視、知らないことを知っているものであるので、脈絡のない問いを投げかけられることがしばしばあるのだ。アルトリアは生前、宮廷魔術師を務めていたマーリンにもその気があったので慣れてはいるが、これに常時付き合うとなるとそれなりに気疲れもしたものだった。ダ・ヴィンチに限らずホームズもその手の賢者の類なれば、悠乃やマシュ、ゴルドルフの苦労も偲ばれるというもの。
 その実賢者らしからぬ驚くべきストレートな問いであることは知る由もなく、アルトリアはダ・ヴィンチの問いにふむと考え込み、言葉を選ぶ。

「装飾品の類は嫌いではありません。戦場以外で王として振る舞う時にはそれなりに煌びやかな装いをしたものだ。指輪という形態も……私のような剣士なら、少々気を遣いはするでしょうが、ネックレスやピアスなどといった揺れ物よりは扱いやすいかと。せっかくの贈り物です。ハルノとしては身につけてほしいでしょうし」
「ほうほう、なるほど」
「渡すハードルは高いでしょうが一目瞭然で特別な贈り物とわかるのも良い。彼女が多少言葉足らずでも想いは伝わりますから」
「隙のない回答だねえ」

 ぽん、とダ・ヴィンチは両手を合わせてにっこりとアルトリアに笑いかけた。

「いやはや、ありがとうアルトリア。とっても参考になった! さすがは悠乃ちゃんのセカンドサーヴァント、君に相談して良かったよ!」

 はあ、と打った相槌は少々気のないものになってしまった。単なる事実を言われても反応に困る。ひらひらと手を振るダ・ヴィンチにこちらも手を振りかえして工房を退室し、どこか納得のいかない思いでアルトリアは首を傾げた。このような回答で事足りるのならそれこそ悠乃にとってのファーストサーヴァントであるマシュに尋ねるほうがよほど気が回る回答が──いや、さすがにそれは、何というか……酷、だろうか。
 現在のマシュの悠乃に対する想いが恋情であれ親愛であれ、彼女にとっての唯一無二であることだけは確かなのだ。まだ人間として成長の余地を多分に残すマシュという少女に誰に渡すかもわからない「特別な贈り物」の相談というのは、まあ、気が引けるに違いない。なるほど、そういう意味ではアルトリアに声を掛けるのは無難なのかもしれなかった。そういう機微は成長しなかったねぇ──脳内で師の声が聞こえた気がしてむっとアルトリアは眉を顰める。身近で悪い例ばかり示しておきながら何が成長だろうか、まったく。
 それにしても、指輪──指輪か。わざわざバレンタインに向けて用意しているというのなら、やはり渡す相手として想定しているのは異性なのだろうか。というかよくよく考えてみれば本体が出来上がっている時点でサイズは既に定まっているのでは? ダ・ヴィンチは特に言及しなかったが、そもそも作製経緯からして悠乃が依頼した可能性もあるのか? あまり想像できないけれど。そうでなくてもダ・ヴィンチらスタッフには目ぼしい相手の算段がついているということもあり得る。
 特別な贈り物を渡す相手はもう決まっている。
 そう仮定すると今になってものすごく興味が引かれてきた。引き返してダ・ヴィンチに相手を尋ねて……否。言及しなかったということは口止めされているか触れられないよう配慮したかのどちらかなわけで。となると無理に聞き出すのは悠乃の本意ではないだろう。
 そこまで考えが回るならそもそも詮索が余計では、と頭の片隅で理性が訴えるのが微かに聞こえ──しかし。残念ながら生前と今世を含め友人の恋の話など初めてであったアルトリアは自身でも気づかないうちに浮き足立ち……言うなれば、テンションガン上げになってしまった。生前数多の戦場で戦略と戦術を練ってきた王としての明晰な頭脳が今まさに世界で一番どうでもいいことに回されている。

「好意を抱くとしたら……やはり親しい間柄に……」

 悠乃と親しい男性、男性か。霊体に作用する魔術効果を付与している以上相手は人間ではなくサーヴァントと考えるべきだろう。となるとカルデアスタッフは除外として。基本的に悠乃は誰に対しても一定の敬意は払いつつもニュートラルに、相手に合わせて接するのが常だ。王や神霊などの人の上に立つ者には相応に畏敬を、友人や対等な契約者としての態度を望む者には気軽にフランクに、悪役を望む立場やトラブルメーカーには距離を測りながら真意を見定めて。カルデアという組織の特殊性も相まって彼女と特別親しい男性というのは案外難しいのだけれど。しかしいかな鈍いアルトリアとて悠乃のセカンドサーヴァントとしてそれなりにカルデア内の事情には気を払っている。最近のレイシフトのメンバー編成の傾向やカルデアへの召喚タイミングなどから考えれば。
 やはり筆頭として思い浮かぶのはカルデアでも最古参にあたる弓兵のサーヴァント、エミヤだろう。その召喚時期の早さもあいまって悠乃からの信頼も厚く、おまけに食堂を取り仕切る中心サーヴァントだ。飯ウマ男子はポイント高いよねー、とは鈴鹿御前の言であったか。アルトリアとしても大いに賛同である。
 次点として思い浮かぶのは……アルジュナ・オルタ、だろうか。インドの異聞帯で王として生きた、かのインドの英雄の別側面——もしもイフの形。召喚されてこのかた悠乃は彼のことをよく気にかけているようだったし、姿形が彼のオリジナルのものに近づくほどに彼は素朴で柔らかな表情を浮かべることが多くなった。きっとその変化はマスターである彼女との関係性とは切り離せないものだったはずだ。こういうのを、何だったか……そう、ギャップ萌えと言うらしい。刑部姫が何やらメモ帳らしきものに書き込んでいる場面をいつだったか見た覚えがある。
 他に特段に仲がいいとなると。アルトリアはふと考え込み、そういえば以前別クラス……ランサーの自分がため息まじりにぼやいていたことを思い出した。
 ——マーリンには気をつけなさいと再三言っているのですが。
 実のところ、アルトリアはカルデアでかの師たるマーリンの姿を一度も見ていない。巧妙に、実に巧妙に、これ以上なく避けられているのだ。まあ現在の全てを見渡す千里眼を持つマーリンのこと。アルトリア一人くらいを完璧にシャットアウトすることなどお手の物なのだろうが、何もそこまでと思わなくもない。どうせ大方いらぬことをしでかしてこっぴどく叱られるのを嫌がってでもいるのだろうが——まったくどれだけ年月が経っても相変わらず困った人だ。そういった事情があるのでアルトリアはマーリンがカルデアでどのように過ごしているのか実際に確かめたことはないのだけれど、悠乃との会話中でマーリンの名が出ることはそれなりに多く、困ったことから助かったことまでどうやら様々にちょっかいをかけているらしい。いつか目に余るほどのことをしでかした暁にはそうも言っていられないが、楽しんでいるならアルトリアにとっては望ましいことだった。マーリンは口に出しはしないだろうが、あの自由奔放な青年にとって幽閉塔に閉じ籠る日々に退屈がないはずはないのだから。
 しかしとはいえ。とはいえ、だ。楽しむのは大いに結構だがそれがマスターたる少女を巻き込んでのものとなれば話は別だ。何しろあの魔術師は、本当に、本ッッッ当に、女癖だけは最悪なのである。もしこの推測が当たってしまえば、貴女からも言い含めてはどうだ、と苦々しく言うランサーの自らの言葉に「まさか。いかなるあの人とはいえマスターに手を出すような安易な真似はするはずないでしょう」と楽観的に返した己の言葉を今になって呪う羽目になる。よく考えるべきだった。安易な真似をするからこそのマーリン、マーリンだからこその安易な女遊びである。分別などあの夢魔にあるはずもない。なにせ千里眼を持つということもあって個体識別をする機能が割と低いのだあれは。
 お願いだ悠乃、マーリンだけはやめてほしい。そうでなければ私はあの人をアヴァロンに突き返さなければいけなくなる。
 暗澹たる気持ちでそこまで考えて、そもそも仮定の話だったと正気に戻る。マーリンはともかく悠乃は節度と分別のある女性だ。いかにお人好しな彼女といえどあのマーリンの誘いに乗るのが愚の骨頂であることなどわかり切っているはず。大丈夫だ、アルトリアは悠乃を信じているので。そう、唯一無二の剣として——私はあなたを、信じているので。
 正気に戻ったついでにアルトリアは力なく頭を振るとはあ、と小さくため息を吐く。

「何を考えているのか……私は」

 友人ではあれどまず第一に悠乃はアルトリアのマスター、主人である。剣として仕えるべき人のこのような込み入った話に自らが首を突っ込むべきではないと——そんなこと、最初からわかっているのに。


   *


 今年も甘い季節がやってきた。聖バレンタインデー。恋人同士の愛を確かめ合う日、想い人に特別な想いを手渡す日。ことここカルデアにおいては、日頃の感謝や親愛を込めて、チョコレートを贈る習わしとなっている。果たして最初に日本のバレンタインの文化を持ち込んだのが誰かというのは定かではないが、悠乃としてはこの風習は好ましかった。自らの呼びかけに応えてくれたサーヴァントたちや日頃サポートをしてくれるスタッフの人たち、それからいつも傍で支えてくれる大切な後輩に改めて感謝とプレゼントを贈れる日なのだ。
 まあ、毎年なんだかんだトラブルが発生する時期でもあるが──と、その懸念通り、今年もなんか色々あった。色々あったのだけれど……とりあえずバレンタイン当日にはカルデアに帰還できたのだからその辺りは割愛として。落ち着いて当日を迎えてしまうとトラブル解決の最中には過らなかった雑念、懸念、未達成の問題が頭を掠めてしまうわけで。

「──で、リング、渡せたの? ハルノ」

 げほ、と思わず咽せ込んだのは突然の問いかけだったからというよりも、尋ねられた相手が相手だったからだ。さすがにいくらなんでも、悩みの種と同じ顔の別人にせっつかれるのはクるものがある。主に情けなさとか不甲斐なさとか。
 悠乃に問いを投げたアルトリア・キャスターは少々驚いた顔をして、どうせみんなに聞かれてるでしょ? と首を傾げた。

「な、……なんでみんな知ってるの……」

 そうなのだ。あの指輪を渡されてからというもの、顔を合わせるサーヴァントのほぼ全員にリングは渡せたか、とか、頑張れよ、だとか、応援しています、だとか、どこか生暖かい目で激励とあと一部のサーヴァントからはアドバイスを受けるのだ。こちらにはその件を周知した覚えもなければ、さすがにいかなダ・ヴィンチちゃんとて話し広めるなんてことはしないだろうと思うのに、なぜ。

「ちょっと前にハルノ、食堂で頭抱えてたじゃん。それだけでもうバレバレだし……知らない人には、その……マーリンがなんか噺家してる」
「あの夢魔絶対に許さない」

 ランサーアルトリアとセイバーオルタとアルトリアリリィにお仕置きを依頼してやる。幸せなのか不幸なのかよく分からない感情にノックアウトされろ。

「私からも仕置きしておきますのでご安心を。………………あれ、今わたし何か言った?」
「まあ……うん、程々にしてあげてね」

 三臨のキャスターとモルガンはちょっと洒落にならなそうなので。
 しかしなるほど、合点がいった。確かにあの中で嬉々として話を広めそうなのは一人しかいない。多分だいぶ脚色もされている。

「その様子じゃまだ渡してないんだ? チョコはあげたんでしょ? その時になんでもなさそーに渡せばいいのに。ハルノ、そういうの得意でしょう?」

 う、と痛いところを突かれて呻く。そうなのだ。彼女にとっても毎年のこと。慣れたようにチョコレートの交換は済ませて、ありとあらゆる人にせっつかれたのもあって一応は渡すことを試みた。平常心を唱え感謝を込めていつもありがとうと言うだけでいい。彼女は驚くほど自身のことには鈍いので多分他意なく受け取ってくれるはずだし。でもいざあのねと声をかけてスカートに仕舞い込んだ小箱を握りしめた瞬間にかき集めた気力はどこへやら、しゅるしゅると萎みきってしまった。いや、だって、やっぱり指輪はなんか重いのでは、とか、そもそも彼女は剣士なわけでそういうアクセサリー類は好まないんじゃないか、とか、契約だの独占だのを意味するものを渡すのは烏滸がましいんじゃないか、とか。トラブルに託けて棚上げにしていた不安が改まってぶり返して、なんでもないよと言うだけで精一杯だったのだ。

「そもそもなんでそんなにあの人に遠慮するかなぁ……あ、いや、うん……なんとなくわかった」

 ごめん、と少し気まずそうに謝られて首を横に振る。視えるものは視えるのだからそこは気にしないけれど。むずむずと何か言いたげに伺われて「なあに」と水を向ければ、アルトリアはいくつか言葉を選ぶような間を置いて口を開いた。

「その……わたしは運命の人とかよくわからないけど、あの人はサーヴァントだし、サーヴァントって召喚されるごとに別人なんでしょ?」
「まあ、大体は」
「なら遠慮する必要ってある?」

 そう、言われると、非常に困る。悠乃が彼女に対して後ろめたさにも似た妙な感傷を覚えているのは完全に悠乃の側の事情でしかない。それは彼女の感知するところではないのだ。だから、必要があるのかと言えば当然ないのだけれど、ならそういうことでと割り切れるならこんなありとあらゆる人たちにお節介を焼かせてしまうようなあからさまな拗らせ方はしないわけで。
 ──彼女は、私を友人と呼んでくれたけど。でも、やっぱり思ってしまうのだ。本当ならもう彼女は戦わなくていいはずなのに。遠い果ての理想郷で、安らかに、愛した人を想って眠れるはずなのに。
 重い沈黙が落ちる。アルトリアは静かに悠乃の言葉を待っている。妖精眼を持つアルトリアにとってはまさに目に見えるような葛藤だったはずなのに、アルトリアは悠乃の思考に口を挟まない。それはとても優しくて誠実な沈黙だった。

「……私は、……自信が、ないの。あの子に相応しいのは、私じゃないから」

 たとえ仮初めの、深い意味なんてないようなものだとしても。永遠を願う輪を贈るなんて、悠乃にはあまりに分不相応に思えてとても平気な顔でなんか渡せるものじゃなかったのだ。
 俯く悠乃にアルトリアはわなわなと拳を震わせて「あーもう!」と勢いよく椅子から立ち上がると、悠乃の頬をぺちんと両側から叩いた。

「しょげしょげしないッ! 顔上げる!」

 びく、と肩が震えて反射で顔を上げる。いや、痛くは、なかった。ちょっと驚いたけれど。キッと釣り上がった目に射抜かれて背筋が伸びる。

「ハルノはわたしのこと好き⁉︎」
「な、なに急に」
「いいから答えて!」
「えぇと……もちろん好きだよ」

 うん、と頷いたアルトリアは少し表情を改めて再度問いかける。

「私が一緒に旅をしたわたしじゃなくても、好き?」

 目を見開く。だって、そんなの、聞かれるまでもなかった。

「関係ない。私はあなたが……アルトリアが、好きだよ」
「──うん」

 ふと細まったエメラルドの瞳を見て、あ、と小さく声が零れ落ちる。アルトリアは頬に両手を添えたままどこか言い含めるように「そうだよね」と口にした。

「ハルノはずっと、そうだったんでしょう? 一緒に旅をした人じゃなくても、相手が自分を覚えてなくても。それでもその人と、今目の前にいるあなたと、向き合おうとしてきたんでしょう?」

 旅をした、助けてくれたあなたじゃなくても。それでも、今ここにいるあなたと。

「忘れちゃ駄目だよ。大事なことだもん。あの人にとっての運命がどんなものかわたしにはわからないけど、少なくとも今ここにいるあの人は、あなたが向き合ってきたあの人でしょう?」

 だから、とアルトリアは手を離し、背中を押すように笑って見せた。

「ちゃんと最後まで、あの人自身に向き合わないと、駄目ですよ」


   *


 今日ばかりはどのサーヴァントも少々浮かれ気分なのだろう、シミュレーションルームは普段より閑散とした部屋状況だった。ふう、と深く息を吐いてアルトリアは瞼を閉じ、周囲の気配に気を配る。風に吹かれて木々が擦れ合う音に紛れて、獣の足音が一体、二体──否、数えきれないほど。
 我慢の利かない個体が一体、唸り声を上げて一歩。それを合図に。
 踏み込んで切り捨てた。触発された獣が一斉にこちらを狙うのを肌で感じて振り向きざまに横薙ぎに払う。その後はもうなし崩しだ。襲い掛かる獣の爪を躱し、牙を叩き折り、体当たりをいなす。派手な立ち回りを群れて押し潰そうと集まったところを風王結界で吹き飛ばす。そうして森の奥、奥へ──。

 先日……ダ・ヴィンチに相談を受けてからというもの、日を追うごとに……いいや、その日が近づくごとに、アルトリアは落ち着かなくなっていく気持ちをたいそう持て余していた。結局相手の算段はつかないまま、いつ渡すのか、どのように渡すのか、考えまいとすればするほど頭の中はそればかり。
 ここまで自分が色恋沙汰に関心があるなんて知らなかった、と苦し紛れにとぼけてみても、何よりアルトリア自身がそれが詭弁だと知っていた。悠乃だから、気になるのだ。あの子にとっての、特別な人だから。
 マスターであるとか人理の危機であるとか、もちろん大切なことではあるのだけれど、それ以前に。アルトリアにとって悠乃という少女はとても大切な人に違いなかった。一サーヴァントとして自らを律し、ただ仕えるものとして振る舞うべきだろうという当初の、召喚されたばかりの頃の思惑はとうになく。きっと絆されてしまったのだ。衒いもなく好意を滲ませる笑顔に、親愛を込めて呼ばれる名前に。自らが生きた先にあるのがあなたのような人ならば、と。それはカルデアの召喚に応えた多くの英霊が考えることで、それはアルトリアとて例外ではなかった。
 思えば、アルトリアは悠乃に何かを与えたことがあっただろうか。力は貸している。剣として、盾として、サーヴァントと、して。けれど、人間として、先達として──友人として、私は一体彼女に何を与えられているだろう。ただの少女同士であるかのような穏やかな時間も、ただ屈託なく笑うことの晴れやかさも、求めて名を呼ばれることの喜びも、彼女は私にくれたのに。私は彼女のことを本当は何も知らないのではないか、と。
 そんなことを悶々と考え、なればこそ応援しなければと思うのだけれど妙な蟠りが邪魔をする。なぜ、私には何も言ってくれないのか。
 要は、アルトリアは拗ねていた。それはもう見事に。これが子供染みた感情であることに理性の片隅が気付いてもなお、どうしてと考えずにはいられないほど拗ねていた。確かに私は恋バナには不向きかもしれませんが、友人なのだから他愛ない思慕の一つや二つ、打ち明けてくれてもいいはずなのに。
 そんなことを考えていた。──今日、この日までは。

「なんでも、ない」

 そんな顔で、渡すのですか。
 出しかけた言葉を無理やり喉の奥に飲み込んだ。自分がこんな器用な真似ができるなんて知らなかった。
 ほのかに頬を赤らめて俯く悠乃はまさに絵に描いたような恋する少女そのもので。愕然とした。知らない、顔だ。
 私の知らない顔で、私ではない誰かに、想いを告げるというのだろうか。
 その後のことはよく覚えていない。ただきっと彼女は他の人にも渡しに行くからと穏当に別れたのだろう。手元に残されたチョコレートがそれを裏付けるように存在を示していた。アルトリアはそのチョコレートを一粒口にし、去年と同じ甘さのそれになぜだかひどく傷ついた心持ちになって、シミュレーションルームに駆け込んだのだ。

 ──アルトリアは、どんなチョコが好き?

 初めてバレンタインを迎えた年、はにかみながら尋ねてきた悠乃のことを思い出す。ふと、思い知らされた。友人であるアルトリアには、親愛《これ》以上は与えられない。そんな当たり前のことがあまりに悔しくて、……寂しくて。

 大型のキメラを相手に剣を振るう。これの相手はそれなりに面倒だ。合成された獣の頭部全てを落とさねばならない上に中距離の攻撃まで仕掛けてくる。硬くはないがその分攻撃に特化していて牙や光弾は掠めるだけでも痛手になる。なので極力攻撃は避けて、懐に踏み込んだ瞬間一息に仕留めれば……! そう素早く算段をつけて放たれた魔力塊を避けるべく飛び退いた、瞬間。
 何かに足を絡め取られて体勢を崩し、宙空に放り投げられた。

「しまッ……海魔……!」

 触手状の手足を持つそれらはあまり大きな足音を立てない。ゆえにアルトリアの意識から逸れた、のだとしても。優れた直感スキルを持つ彼女なら普段であれば間違いなく気付いたはずの──地面に勢いよく叩きつけられ、かは、と空気が漏れる。背中から落ちた、まずい、姿勢を立て直す時間がなかった。顔を上げた目前には、巨大な獅子の頭部、が。
 ふっと映像でも消すかのようなあっけなさでキメラの姿は掻き消えた。周囲の気配も忽然と消滅し、シミュレーターが投射する森の木々と青空だけが取り残される。ぱちり、とアルトリアは大きく一つ瞬いた。
 目標数には程遠かったはず。まだ敗北とも取れないダメージしか受けていないし、なぜ、ここで。

「──見つけた、セイバー」

 仰向けに倒れたままのアルトリアの視界に赤い瞳が映り込む。

「……ハルノ」

 呆然と呟いたアルトリアに、彼女の頭部側にしゃがみ込んだ悠乃は柔らかに微笑みかけてアルトリアの顔を覗き込んだまま口を開く。

「探しちゃった。いくらアルトリアでも、一人でエネミー千体切りはちょっと無茶だったんじゃない?」

 そう言いながら掠めるように手が触れて、次の瞬間にはすうっと体から痛みが引いたのがわかった。礼装の回復術式を使ったのか、と察してすぐにがばりとアルトリアは身を起こす。

「っマスター! こんなことでスキルを使っては……!」

 シミュレーターの傷などすぐに癒えるのだ。第一これは私的な戦闘行為で負った傷であり、マスターに負担をかけるようなものではなかった。そう詰め寄って悠乃が僅かに身を引いたのを見て取り、はっとアルトリアは口を閉ざす。使わせたのは誰だという話だった。

「……すみません」

 その小さな謝罪に何を思ったか、悠乃はいくらか考えるような間を置くと「ねえ、アルトリア」と静かに彼女に呼びかけた。

「少しお話、しない?」

 遠くで鳥の鳴く声がする。先ほどまでの喧騒と殺気に満ちた空気が嘘のように森の中はひどく静かで、穏やかな風が吹いていた。
 話を、と言った割に、悠乃はどう切り出したものかと迷っているようだった。手頃な切り株に腰掛けたまま考え込んで、その視線は少し遠くに向けられている。
 なぜ、アルトリアの元へもう一度顔を出したのだろう。バレンタインも毎年のことで、いつも彼女は真っ先にアルトリアのところへチョコレートを手渡しに来てくれる。それを見越してアルトリアも自室にチョコレートを用意しておくのが常だった。その流れは今年も変わらず。ただアルトリアだけがままならない感情を抱えて内心七転八倒していたわけだが。
 ざわざわと落ち着かなかった心臓は悠乃の顔を見た途端、奇妙なほどに凪いでいた。まるで朝のことなんてなかったとでも言いたげな、あまりにいつも通りの笑みを向けられてしまったからだろう。相変わらず、どうしてと尋ねたい気持ちはある。物寂しいような感傷も。ただ少し、少しだけ──諦めがついただけだ。ふ、と微かに自嘲めいた吐息が零れる。

「アルトリア……?」
「──久しぶりに、あなたにセイバーと呼ばれました」

 悠乃の瞳が丸くなる。きっと無意識だったのだろう。カルデアに召喚されたばかりの頃は彼女に「セイバー」と呼ばれていた。それから幾許かが経ち、彼女の声で呼ばれる名前にも慣れ、今では違和感なんてものもないのだけれど。

「いいものですね、あなたの剣と呼ばれるのは」

 自分から名前で呼ぶよう促しておきながら、少しもったいなかったな、と感じるほどに。悠乃が僅かにたじろいだ気配があった。「……そう」と曖昧に打つ相槌には声だけでもわかるほど明白な気恥ずかしさが滲んでいて、思わず少し笑ってしまう。
 そうだ、きっと本当は、これだけで満足するべきなのだろう。
 迷っているのなら先にこちらの話をしてしまおう、とアルトリアは口を開く。

「特別な贈り物は渡せたのですか」

 バッと勢いよくこちらを振り向く気配がした。悠乃はいくつか言葉に詰まったあと絞り出すように「ど、どうして、」と問う。

「ダ・ヴィンチ嬢に相談を受けました。どう思うか、と」
「ダ・ヴィンチちゃん……‼︎」

 声にならない悲鳴とともに膝を抱える悠乃を横目に見て、ここまで彼女が動揺を顕にするのは珍しい、と苦笑を漏らす。赤く染まった耳朶から少々切ない思いで目を逸らして、極力軽く聞こえるように声のトーンを意識した。

「それで、渡せたのですか」
「………………まだ、」
「ならば早く行かなければ。今日はせっかくのバレンタインでしょう」

 想い人に気持ちを伝える絶好の機会。アルトリアにとっては少々本意ではなくとも、彼女には憂いなくいてほしかったし、それに。

「必ず報われる、などと無責任なことは言えませんが。ハルノはもう少し、なにかを欲しがっても良いのですよ」

 それがたとえ形のあるものでも、ないものでも。思い出や真心、誰かからの──特別な気持ち。贈り物をするとはそういうことだ。受け取った相手に自分の心を手渡すということ。自分のことを考えていてほしいと思うこと。与えることと望むことは本来表裏一体で、そのどちらもが等しくなければ採算が合わない。与えるばかりの愛はいずれ瓦解するし、望むばかりの愛は身を滅ぼす。
 こんなあまりにも単純なことに、英霊となってから気づくとは。
 ままならないものだ、とアルトリアは薄く笑んで、悠乃にはそうならないでほしいとも思う。多くのものをその手に抱えて、今なお戦うことを選ぶ彼女に──どうか、報いがあるように、と。

「……いい、のかな」
「ええ。だってハルノは──とても、頑張っていますから」

 そっか、と呟いた声は穏やかだった。抱えた膝を改める気配がして、結局話とは何だったのだろう、と不思議に思う。まあ、迷いが断ち切れたならそれでいいのだけれど。ただ顔を見れないまま見送ることは許してほしい。アルトリアだってすぐに何もかもに整理がつくほどには図太くないのだ。あの憎らしいほど可愛い顔を見るのはしばらく遠慮被りたい……変なことを口走りそうなので。

「ならアルトリア、手、出して」

 …………手?
 よくわからない要望に思わず隣を見ると小首を傾げた悠乃が視界に入る。首を傾げたいのはこちらの方だ。今すぐにでも立ち上がって想い人のところにでも行くのかと思ったのだが、なぜ、手?
 疑問符を浮かべながらも当たり前のように視線が催促してくるので悠乃の側に近い方の左手を差し出す。すると悠乃はおもむろにスカートのポケットを探って手に収まるサイズの何かを取り出すと、アルトリアの手のひらに静かに置いた。
 小箱だ、深い──青色の。
 悠乃はアルトリアの手を下から支えたまま、丁重な仕草で箱を開く。中には、金色のリングが一つ、そのために誂えられたようにちょうどよく収まっていた。

「受け取ってくれる? アルトリア」

 ……………………???
 完全に処理落ちしているアルトリアに気づいているのかいないのか、悠乃は恋する少女さながらに頬を染めて囁いた。

「これ、貰って欲しいの」
「……は?」

 これを、貰って、欲しい?
 流石にいかなアルトリアといえど、ここまでされて別の人物が自分の背中に立っているのではとかいう古典的なボケをかますつもりはないが、それならなおのこと意図がよく飲み込めない。だって、それは。

「だ、だれか、殿方に、渡すつもりなのでは……?」

 ぱちん、と悠乃が大きく瞬いた。アルトリアの言葉を咀嚼するように二度、三度。「あっ」と思わずと言いたげに零れた声に肩が跳ねる。

「あ〜……ああ、そっか、バレンタインだから……さっきのもそういう……」

 あわわ、と慌てる悠乃は先ほどとは違う意味で顔が赤い。片手で恥ずかしそうに口元を覆って独り言にも近しい小声でもごもごと呟く。

「あ、アルトリアにあげることしか考えてなくて……なんて言ってとかどうやってとかばっかり……そ、そっか、他のひとにあげたらよかったんだ、」
「だッ駄目です!」

 ばっと庇うように小箱を預けられた手を引き寄せる。えっと悠乃は心許なさそうにアルトリアを見て「だ、だめなの?」と窺いを立てる。いや、違う、駄目なのは受け取るのが、ではなく。

「他の人に渡すのは駄目ですっ!」

 そのことばかり考えていたから散々悶々としてきたのだ、とここ数日のちり積もったものを吹き飛ばすように勢い込んで言い放つ。アルトリアの剣幕に圧されて、シン、と一瞬二人の間が静まり返る。アルトリアはやっと正常に働くようになった頭で言うべき言葉を頭の中から掬い出すべく視線を彷徨わせた。

「ど、……どうして、私に?」
「どうして、って……」
「……その、異性で、なくても。あなたからの贈り物なら、きっと、……喜ぶ者は多いと思うのです」

 具体的な名前や顔がいくつか思い浮かんで、けれど口にするのは憚られた。

「私は……装飾品の類が似合わない女でしょう?」
「そんなことないと思うけど、……うーん……」

 ざり、と悠乃は靴裏を地面で擦ると考え込むように視線を外す。手元に残されたままの金の輪はスクリーンで見たものよりも一段と繊細で眩く見えた。

「アルトリアは、私の呼びかけに応えてくれた初めての人で……ずっと最初から私を助けてくれたでしょ?」

 懐かしむような遠い視線に釣られてアルトリアも思い返す。召喚されたばかりの頃。マスターとしても魔術師としても未熟な彼女を戦力も物資も足りない中で助けた日々。時に無茶振りも叱咤も飛ばしながら駆け抜けた時間は濃密で、今にして思えばあっという間だったのだけれど、きっとアルトリアにとっても悠乃にとっても、その時間は得難く大切なものだった。もし召喚されたタイミングが違えば、──もし、彼女ではない誰かがアルトリアを喚んだのなら。今の二人とは全く違う関係を結んだことだろう。それが良いものか悪いものか、アルトリアには知る術もないが。

「私にとってアルトリアが力を貸してくれるのはとても誇らしくて……、それから、少しだけ怖かった。あなたは、とても正しい人だから。私も正しくなきゃいけない、あなたに胸を張れる私でいたいって、そう思ってて」

 僅かに目を瞠るアルトリアに悠乃はつい、と視線を向けて悪戯っぽく目を細めた。

「知らなかったでしょう」
「……知りません、でした」

 くすりと悠乃はかすかに笑って目を伏せる。

「再召喚に応えてくれた時……本当は、何を言ったらいいかわからなかった。もう一度力を貸してって言うのも、こんなことに喚んでごめんって言うのも、何だか違う気がして」

 悠乃の、胸の内を聞いたのは初めてだった。落ち込んでいる姿も弱いところも、彼女はあまり表に出さない。マスターとして己を律しているのか、弱さを見せることに慣れていないのか。きっと多分、両方、なのだろうけど。

「だから、あの時、友達として一緒に歩くって言ってくれたこと、私、本当に嬉しかったの。私にとって、アルトリアは──道導みちしるべだったから」

 そう言って、彼女は心から大切なものを差し出すようにアルトリアの瞳を見つめた。事実として。悠乃にとってのその想いは何よりも奥深くにある、美しいもの、だったのだろう。

「永遠の誓いには、ならないけど。この先ずっと、何があっても、あなたは私にとっての特別な人だよっていう、しるし」
「──特別な、人」

 うん、と悠乃は頷いて立ち上がる。小箱から指輪を抜き取るとアルトリアの正面へと流れるような仕草で跪いた。静かな風が吹いて悠乃の髪を揺らし、木陰の隙間から差す陽を反射して、ちらちらと視界に光が散った。

「受け取って、くれますか。私のセイバー」

 そう言ってするりとアルトリアの左手を取る指先が少しだけ震えていることに、きっと彼女は、気づいてすらいなかった。熱で潤んだ瞳に見つめられて、ああとたまらない心地のまま吐息を漏らす。
 この期に及んで、彼女ときたら。答えなんて、最初から決まっているのに。大切な友人、愛しい少女ひと

「当たり前でしょう、私のマスター」

 悠乃はアルトリアの指にその金色をおさめきると、花が綻ぶように微笑んだ。

backTOP