いつかの終わりのある日まで

さよなら、と微笑んだ彼女の声でぶつりと記憶は途切れた。本来ならばこの意識は座に持ち帰られ知らぬまま数多の召喚された記憶の数々と同じように埋もれ、攪拌されて記録へと昇華されるはずだった。
 けれど、──けれど。

「アルトリア……」
「……マスター」

 ちらちらと光るような青いエーテルが収束する。霊体から実体へ。その過程はあくまで変わらぬはずであるのに、召喚されて初めて紡ぐ実体はやはり霊体化を解く時のそれとは大分と異なる実感を持つものだ。意識が繋がれる。記憶は記憶のまま。別れを告げたその時と変わらない意識で彼女とのレイラインは再度紡がれ、アルトリアは自らを喚んだ彼女を間違いなく目にとめた。
 彼女──橘悠乃は僅かにその赤い瞳を揺らめかせ、最初の召喚時とは随分違う表情でそっとアルトリアに笑みを向ける。

「もう一度、応えてくれて──ありがとう」

 アルトリアはその笑みに応える言葉を、なにも持ってはいなかった。


  *


 よく知るような、それでいてまったく異なるような、そんな施設を悠乃に先導されてアルトリアは案内される。ノウム・カルデア。紆余曲折の後にこの天文台の人々がやっとの思いで手に入れた拠点だと言う。よく知るような……と言えば、悠乃が場を離れた時に不意に話しかけてきたダ・ヴィンチが最もたる例であっただろう。よく知る姿よりも随分と小さく幼い風貌に「霊基異常ですか」と問えば「染まってるねえ」と小さなその芸術家は至極からりと笑い声を立てる。

「人形という言い方の方が正しいかな」
「人形……?」
「稀代の天才レオナルド・ダ・ヴィンチは自らの存在というものに備えを作っておいたのさ。記憶も人格もそのまま引き継ぐ自分だけの代替機スペア。泥人形と違うのは見目が少々変わるってところかな。何せ『私』は『私』とは別の――いやそれ以上の美を求めたからね。芸術家というのはこれだから!」

 ふふ、と悪戯に愛らしい笑みを乗せて自らを人形と名乗った少女は君も喚ばれたからには状況を知りたいだろう、と今の彼女たちの置かれた状況をいくらか簡潔に説明してくれた。悲嘆さを出来るかぎり切り離したダ・ヴィンチの語りにいくらか思うことはあったが、きっと少女なりのマスターである悠乃と自分への気遣いなのだろうということは疑うべくもなく知れることだった。
 緩やかに歩む彼女の背中に意識を戻す。

「それでここがトレーニングルームね。前と同じでシミュレーターもあるよ」
「……マスター、その」
「んー?」

 連続性を有しながらも断絶された時間軸というものにはやはりどうしても違和感が拭えない。

「少ないのですね。ここには人が」
「――ああ……」

 一瞬面食らったように瞬いた彼女はすぐに頷き苦笑を浮かべた。召喚室から廊下、機関室、食堂からここまで、以前のカルデアではありえないほどサーヴァントやスタッフとすれ違う機会が少なかったことに悠乃も気づいたのだろう。

「少しずつ、再召喚はしてるんだけどね。やっぱりリソースも無尽蔵にあるわけじゃないし、なかなか」
「ええ、そうでしょうね。トレーニングルームも以前は奪い合いの様相でしたし」
「戦闘狂のサーヴァントはまだ来てないからなあ」

 なつかしいな。ぽつりと落とされた月日の積み重ねを感じさせる呟きはきっとこちらに聞かせるつもりなどなかったのだろう、微かな寂寥を滲ませるもので。やるせないような心地になった。
 彼女はぱちんとスイッチを切るようにして何でもないように背を向けて歩き出す。その歩みに覚束ないものはなく、以前と変わった様子もほとんど見えはしなかった。

「次が管制室なんだけど、びっくりするよ。もうホント、カルデアのまんまで」
「ハルノ」
「うん?」

 それでも、違う。違うのだ。さよならとあの日アルトリアに微笑んだ彼女とは。
 召喚に応じた瞬間にアルトリアを呼んだ声にはわからないほどかすかな絶望と安堵が混じってはいなかったか。
 ありがとうと笑う彼女の顔には諦めと苦しさが滲んではいなかったか。
 『備え』を出す事態というのは、すなわち、あの少女の基となった英霊は。

「ハルノ」
「なあに、アルトリア」

 彼女は再度の呼びかけに明確に足を止めて振り向き、首を傾げる。揺れた髪は以前よりも少しばかり長くなっただろうか。
 屈託なく見送られて、思うところがなかったわけではない。アルトリアは彼女の声に初めて応えた英霊であったし、悠乃にとって軽くはない信頼も絆も紡いできた自負があったからだ。泣いて惜しまれるとまで思っていたわけではないけれど、寂しさだとか名残惜しさだとか、そういうものを少しくらいは示してくれてもよかったじゃないかとあの時は確かに思ったのだ。
 それでも違った。もう一度会った時に、あんな顔で笑ってほしかったわけではなかった。震える睫毛を無理やりに、上げてほしかったわけではない。

「私はあなたの剣です」

 かつてのカルデアで悠乃が小さく零した弱音ごとを不意に思い出す。
 私はいつも、間違ってばかりいる。
 あの時は、そうではないと伝えたかった。どんな思いも願いも、それが自らの選択である以上、絶対に間違いになどはならないと。ならば、今は?

「あなたの道を阻むのならばどんなものでも切り捨てましょう。あなたがもし道を間違うのなら必ず引き戻して正します。――だからどうか、」

 どうか、一人で行ってしまわないで。

 彼女が望まれているのは常に英雄の道だった。それは初めて彼女から召喚されたあの日から何も変わってはいないのだ。たとえ世界のためという題目で他の屍を積み上げる行為に形を長じさせていても。
 でも彼女はきっと英雄たることを望まないだろう。アルトリアにとってもそれは決して望ましいものではなかった。ただただ普遍の善性で以て徒人として歩く彼女を、美しいと思ったからだ。

「ありがとう、アルトリア」

 彼女の声に知らずのうちに下がっていた視線が上がる。よく知っている、柔らかな声だ。出会ったばかりの頃はよく揺れていたその声が震えなくなっていったのはいつからだっただろう。
 人は変わる。それは常に、生者のみに許された特権だ。

「でも、負けるなって言ってくれた人がいたの。だから――大丈夫」

 大丈夫だよ。
 そう言って悠乃はアルトリアを見つめて、笑った。
 負けるな。それは足を進ませる言葉だ。振り返ることを許さない言葉だ。どんなことがあっても、どれほど苦しくても、足を折るな。止めるな。許されるな。
 ああ、確かに。帰る場所をもう持たない彼女にとって、その言葉は間違いなく標であろう。それは果たすべき約束だ。それは遂げるべき義務だ。それは叶えるべき願いだ。――それがいつか彼女の足を竦ませる、呪いになっても。
 その強い瞳を、アルトリアは知っている。かつて、いつか出逢った、――これから出逢う誰かの瞳。
 ならば、アルトリアに止めるべき言葉が見当たらないのは自明であった。どれほど追い縋ろうともその背を最後に見送ることは抗いようのない摂理だった。だから。
 唇を引き結ぶ。片膝を突いたアルトリアに慌てたような声が掛かった。実のところアルトリアは彼女のそういうところをとても好ましいと思う。この戦いが終わる最後の時まで、あなたがそうあれたならと願わずにはいられない。

「申し訳ありません」
「えっ……な、なんで?」
「あなたの胸のうちを私の私情で推し量ってしまった。サーヴァントとしてこれ以上ない失態です」
「そんなこと、」
「――友人としての言葉を、聞いてくれますか」

 悠乃は不意を突かれたように目を丸くして、大きく瞬く。そうして、瞳の中に戸惑いを滲ませながらも言葉を待つアルトリアに「……うん」と頷いた。

「私もあなたと共に歩みたい。あなたを支えられる私でいたい。ハルノ、私と並んで歩いてくれませんか?」

 ひゅ、と彼女が息をのむ。見つめた瞳が緩やかに歪んだ。差し出した手に柔らかな体温が重ねられたのは随分と躊躇ってからだった。小さく震える指先を握る。

「……いっしょに、歩いてくれるの?」
「ええ。あなたは私の、大切な友人ですから」

 その言葉で今度こそ彼女の瞳が明確に潤んだ。ぱた、と頬を伝って地面に落ちた水滴に困惑したように引こうとする悠乃の手を引き止める。常から果実のように鮮やかな彼女の瞳はいつもよりも光を含んで瑞々しく揺れている。止め方も知らないとでも言うように惜しげもなくそれをアルトリアに晒しながら、彼女は口元を覆って睫を伏せた。

「ちがうの、これは」
「はい」
「嫌とかじゃ、なくて」
「分かっています」
「……うれしくて」
「ええ」

 ぎこちなく、けれど確かに悠乃がアルトリアの手を握り返す。いくつかの嗚咽に阻まれながら呼ばれた名前に、アルトリアはこれ以上ないほど穏やかな声で静かに応えた。震える息を吐く悠乃は一度強く目を瞑って、顔を上げる。まだ透明な液体に緩んだままの赤い瞳は夕焼けを映した水面のようにやわらかくて安らかだ。

「ありがとう」
「はい」
「あなたと会えて、よかった」
「――私も、あなたとまたこうして会えたことが、とても嬉しい」

 どれほど追い縋ろうともその背を最後に見送ることは摂理だった。だからせめて、その背を見送る最後の時まで、彼女の手を離さないでいよう。
 それだけがきっと私にできる、彼女のためのただ一つなのだから。

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