黄金の、光に満ちた草原にいた。戦いを交える騎士たちの喧騒は遠く、選定の剣はただひっそりと、少女の前に姿を晒す。着飾った装飾も煌びやかな華やかさもない。少女はまだ騎士としてすら未成熟なその身で一人、穏やかな風に髪を靡かせる。
「それを抜く前に、もう一度考えた方がいい」
魔術師の声は明朗に。少女はこれから先、報われることはなく。滅びの運命は変えられず。守りたいものは手からすり抜けて潰える。少女が理解されることはなく、救いを求める声は届かず、君の終わりは決まっている。王の責務からは逃れられず、少女は生きることも死ぬことも許されない場所で、世界の終わりを見届けるのだ。
救いはない。希望はない。あるのはただ結末の決まった滅びと、人の心を捨て「王」という機構を果たし続ける自分だけ。
それでも、と少女は言った。常と変わらぬ、凛とした声で。
「多くの人が笑っていました。──それはきっと、間違いではないと思います」
守りたいと願う多くの人々のために、「人」の心を捨てること。滅びの定められたこの国を、よりよい形で終わらせること。報いのない人生を是とし、王の責務を果たし続けること。
なんて──なんて美しくて、遣る瀬の無い生なのだろう。
*
ぱちり。薄暗い照明の中で目が覚めた。
馴染んだ──とまではいかずとも見慣れた風景はカルデアの自室のものだ。やけにすっきりと冴えた頭を持ち上げて体を起こせば視界がわずかに揺らいでいることに気付く。瞬きをひとつ。
ぱた、と真っ白なシーツの上に落ちた雫を見て、「私は泣いているのか」とやけに淡々とそれを受け入れた。悲しいとは思わない。そう思ってしまうほど私は彼女に踏み込んではいけない。
ただ、淋しかった。
光に満ちた草原が。
とても暖かくて、やわらかなのに。少女の聖剣を見つめる眼差しはあまりにも強い覚悟に満ちていて。魔術師の声は戯けるように軽薄だったのに、その実心から嗜めるような響きを伴って。
少女が選定の剣を抜いたのは必然で、少女の道行きもまた運命だった。それをすべて知りながら尚、自らの運命を受け入れた彼女の覚悟はいったいどれほどのものだったのだろう。
私には、分からない。
小さくため息を吐いて頭を振った。どうにもならないことをいつまでも考えていたって仕方がない。私にはやらなければならないことが山ほどあって、時間も余裕も足りないのだから。目元の水滴を手の甲で拭って両頬を軽く叩く。しっかりしないと。まだ誰も起きてきてはいないだろうけど食堂に行って水でも飲もうか。
──なんて。
「おや……マスター。おはようございます」
これも噂をすれば、の類なのだろうか。
昼間よりも幾らか照明の段階を落とした食堂の共有スペースでセイバー……先ほどの夢の主であるアルトリアとかち合った。こんな時間なのに身支度もしっかり整っていて、ほとんど寝起きのままの自分の格好が少し恥ずかしくなってくる。いや別に誰かに会ったからと言ってみっともない出で立ちではないつもりだけれど。
「おはよう、セイバー。随分、早いんだね」
「ええ。少し目が覚めてしまって」
彼女はそう言ってから小さく首を傾げる。
「サーヴァントが目を覚ます、というのも変な言い回しですが」
「そんなことないよ。セイバーは睡眠、取るんでしょ?」
「はい。何だか夜に何もしないというのは落ち着かなくて。他にやることもありませんし」
サーヴァントにとっても睡眠はエネルギーの節約になりますから、とは彼女らしい言い分である。サーヴァントにとって睡眠や食事は不必要であるから取らない、という英霊もここには一定数いるものの、多くは通常の人間と同じような生活様式を送ることが多く、彼女もその類に漏れない。彼女は食という概念に対しての愛着を感じるらしく、食堂で一緒に食事を取ることも少なくない。サーヴァントが増えてから滅多に立ち入ることの少なくなった厨房に入る。
ぱっと開いた冷蔵庫の眩しい明かりに一瞬目を眇めつつ、ウォーターサーバーを取り出して扉を閉めた。戸棚から小ぶりのグラスをふたつ引っ張り出す。水を注いで片方をセイバーに差し出すと彼女は「ありがとうございます」と静かに述べてそれを両手で受け取った。
「ハルノも随分早いのですね。いつもこの時間に?」
「ううん。私もちょっと目が覚めちゃって。……あーでも、普段も、もう少ししたら起きてるかな」
ちらりと見やった食堂の時計は普段の起床時間の30分前ほどを指し示している。朝の時間は過ぎるのが早い。
元々、早起きは得意だった。カルデアに来てからは昼間が非常に忙しいために起床時間を早めたきらいはあるものの、それでも寝不足というほどではない……と思う。仕方がない。だって昼間はレイシフトだの演習だのと自分の研究をする時間がないのだ。カルデアの自室は自分の正規の工房ではないから結局高が知れているが、少しずつでも進めていかなければ。
彼女は感心したようにひとつ頷いて、口元を緩める。
「早寝早起きは良いことです。──ですが、たまには睡眠時間を伸ばして、きちんと休息を取ることも大切ですよ」
「……休息、取れてなさそう?」
「少し顔色が悪いかと。いえ、照明のせいかもしれませんが」
少しばかり案ずるような色を滲ませた彼女の声色に苦笑を零す。でも確かに、カルデアに来てからというもの休息らしい休息を満足にとった覚えはあまりないように思える。この一大事なのだから当然であるし、むしろこの状況は状況で充実していると言えなくもないから嫌だというわけではないのだけれど。
くるん、と冷たいグラスを意味もなく揺らせばゆらりと水面が大きく波打った。
「──セイバーの、夢を見たの」
「……私の?」
「そう。……きらきらした草原がきれいで……ドレスや甲冑じゃなくて、普通の……うーん、男の子、みたいな格好をしたセイバー。今と姿は変わらなくて……でも、なんだろう。どこか、まだ幼い、というか、可愛いというか。そんな感じの」
真っ青な空。遠い喧騒。吹く風は穏やかで、ひどく優しい。やわらかな光と、ひそやかな沈黙。
瞼に焼きついたその光景は、まるで一枚の絵のように美しくて。
「一本の、剣の前に立ってるの」
「……なるほど。それは──あまり、面白みのない夢だったでしょう」
そう言う彼女に私は首を横に振った。面白いとか面白くないとか、そういった分類ができる話ではなかったけれど、そうではなくて。
「きれいだと思った」
「故郷の景色をそう言って頂けるのはとても嬉しい」
「え、ああ……景色ももちろんそうだけど……セイバーが」
「は、」
意表を突かれたのか普段の彼女とは似つかわしくないような声を出して固まったセイバーに思わず声を上げて笑ってしまった。彼女は取り繕うように一度咳払いをするとまだ少し戸惑っているのか目を泳がせる。
「いくらサーヴァントといえど、人をからかうのは良くない、ハルノ」
「笑ったのは冗談だからじゃないよ。本当に。綺麗だと思ったの。セイバーの目が」
「……目……、ですか」
怪訝そうに私を見やる翡翠の瞳を見つめ返す。
すべてを受け容れた、凪のように穏やかな、慈愛に満たされた瞳だった。これから激動を生きる少女の生を思えば残酷なほどに、その静かな眼差しは優しくて。どれほどの覚悟だったのだろう。どれほどの絶望と悲しみを受け入れて、彼女はその剣を取ったのだろう。風のない日の湖面のように、しんと透き通ったその目からは何も窺い知ることはできず。──あるいは。私でない、『誰か』だったのなら。
理解できたのだろうか。その時の彼女の心情を。寄り添うことができたのだろうか。彼女の覚悟に。
そんなこと、口が裂けたって言えないけれど。
「後悔、してない?」
「……後悔ならば、幾度でも。あの時、あの場所でああしていれば。そう考えることなら数えきれません」
「…………王に、なったことには?」
彼女は少し驚いたように目を見開いて、それから小さく、けれど確かに首を横に振った。
「誰かがやらねばならなかった。それが私であった。ただそれだけです。それを選んだのは自分ですから、後悔はしていません。それに……きっと」
「……間違いじゃ、なかった?」
「ええ。正しいことばかりを行ったとは思いませんが、そういう生を送ったことは間違いではないと思います」
「……強いね、セイバーは」
きっと私は、毎日間違いばかりしている。いつだって逃げ出したいことばかりで、それでも逃げることさえ怖くて必死で前を見ることしかできない。変わっていく景色に怯えて恐怖を振り切るために足を踏み出すことしかできない。正しく在るのは苦しくて、期待も信頼も投げ捨ててしまいたい。無垢な好意は恐ろしくて、無条件の優しさは気持ちが悪い。そんなことを考える自分が嫌いになって、何度も何度もその心を握り潰す。きっと違うから。私はこのために生まれてきたのだから。逃げてはいけない。どこにも行けない。
そしていつか、この役目が終わったあとに。何も残らない自分を省みてきっと途方に暮れるのだろう。
自嘲めいた笑みを零して手の中の何も主張しない水面を眺める。あんな夢を見たから、弱気になっているのだろうか。普段はこんなこと、誰かの前でなんて口が裂けても言えないというのに。それもサーヴァントになんて。私はマスターなのだから、もっと毅然としていないといけないのに。
「強い、弱い、といった枠の話ではありませんよ、ハルノ」
「え?」
「自分で選んだか、選ばなかったか、という話です。私とて、きっと自分で選んでいなければあの選択を後悔することもあったでしょう。けれど私はそれを選んだ。他ならない自分の選択によって」
とても穏やかな声だった。はっとして少女を振り向けば彼女は声音と同じようなふわりとした笑みを口許に浮かべている。彼女は今まで穏やかに目元を和らげることはあっても、ここまで明確に笑みを見せることをあまりしなかったから、見惚れるようにふ、と呼吸が一瞬止まった。
静かに、胸の奥に染み入るように響く涼やかなその声は緩やかに言葉を繋ぐ。
「人は与えられた何かのために生きるのではない。使命とは自らの手によって選び取るもの。私は王という使命を、そうして生きることを、私自身の手で選んだのです。与えられたものではなく、自分で選び取ったもの。それを後悔することは自らを否定するのと同じこと。何も恐れる必要はないのです、ハルノ。あなたのその道も、自ら選び取ったもの。間違いである筈がないのですから」
「セイバー……」
「あなたの心のうちの不安がどこからくるのか、私には解りませんが……この身ある限り私の剣はあなたのもの。あなたが迷う時は寄り添いましょう。躊躇う時は道を示しましょう。あなたに仇なす者は私がこの手で切り捨てましょう。ですから、ええ。そのような顔をなさる必要は無い」
柔和に細められた瞳にはただ穏やかさだけが満ちていて。優しさとも同情とも違うその眼差しに私はひどく安堵感を覚えて静かにそっと息を吐く。魔術師でもマスターでもなく、ただの人間として在ることを許された気がした。そのことは、私にとって何よりも──。
カタン、と小さな音を立てて置かれたグラスに意識が途切れる。ふ、と「そういえば」と零れた呟きは先ほどまでよりずっと幼い声色で響いた。
セイバーはすっとこちらを見やると幼さの残る瞳をぱちくりと数度瞬かせて首を傾げる。
「マスターは私のことを真名でお呼びになりませんが、何か信条でも?」
唐突に過ぎる問いに面食らってこちらも数度瞬いた。真名……真名、なるほど確かに。召喚に応じてくれた時から短くはない期間が経っているけれど口にし慣れない彼女の真名を私は呼んだことがなかったかもしれない。セイバー、と呼べば彼女が振り向くものだからあまり必要性を感じていなかったとも言う。
特に大した信条も思い当たらなかったので正直にそう言うと「ふむ、」と彼女は頷いた。
「そういうことでしたらぜひ私のことはアルトリア、と。いえ、あなたのセイバーとして呼ばれることは光栄ですが、カルデアにもセイバーが増えましたから」
「あー……そうだね、こんがらがっちゃうか」
「そうですね、少し」
「ええっと……じゃあ、……アルトリア」
「はい。マスター」
……呼び慣れない。し。改まって呼ぶと何だか気恥ずかしい。じわりと顔に滲む熱に手を当ててアルトリアから目を逸らすと彼女は楽しそうに小さく笑い声を洩らした。小さいとはいえ彼女が声をあげて笑うなんて、何だか今日は彼女の珍しいところを見てばかりだ。
少し、気を許してもらえたということなのだろうか。そうであったなら私にとって嬉しいことだ。彼女の英霊、否サーヴァントとしての私との距離の測り方は非常に適切で居心地の良いものだったけれど、王としてのものでない彼女の顔もとても美しいものであるのだから。
そろそろ皆が起きてきますね、と。そっと呟かれたアルトリアのその言葉に促されるように彼女と別れて自室に戻り、何気なく鏡を見やって苦笑を零した。
起きたばかりの時は随分ひどい顔をしていたというのに。
「現金かなぁ」
彼女に踏み込むことを許されたようなそれだけで、こんなに浮かれた心持ちになるなんて。