ひとくち、口を付けた瞬間に思わず後悔が過った。
*
「っげほ、……っ甘すぎだよ、ロマニ」
レイシフトにもカルデアという施設にも少しずつ慣れ始めていた時期のことだった。定期的に行われるバイタルチェックを済ませて、ふとロマニが「お茶をしないかい?」と持ちかけてきたのだ。付き合いは短いながら、それでもかなりのワーカホリックであることは随分と知れていたから珍しいなとは思いつつもさして躊躇なく申し出を承諾して、淹れてもらったカフェラテだった。
「えっ!? ……そう、かな?」
多分同じものなのだろう。自分の分のカップに口を付けたロマニが首を傾げるのを見て、悠乃は信じられない思いで自分とロマニのカップを見比べる。いやまあ違いがあったとしても見たところでそんなものは分かりはしないのだけれど。
「砂糖いくついれたの、これ」
「ん〜……みっつ?」
「このカップに?」
「うん」
「みっつ?」
「……うん」
「……ばかなの?」
「悠乃ちゃんって結構ひどいよね……」
そんな悲しそうな顔をされても。この言い草だとロマニは恐らくこれを常飲しているのだろう。これはある意味アレではないか、日本の諺の「医者の不養生」というやつではないのか。甘い、甘すぎる。これを平然と飲めるなんて味覚がどこかおかしくなってしまっているのだ。──ドクター、あなた疲れているのよ。
はあ、と悠乃は盛大にため息を吐いて改めて砂糖の塊のようなカフェラテを少し啜る。まあ、こういう飲み物だと思えば、うん、飲めることには飲める。
「ロマニ、よく朝コーヒー飲んでるけど、こんなに甘いと気持ち悪くないの」
「朝の一杯は気付みたいなものだからブラックだよ」
「気付でコーヒー飲まないで」
コーヒーはあくまで嗜好品の一種であって決してそういった用途で飲まれるものではないのだ。まったく。
あはは、と困ったように笑うロマニも当然そんなことはよく分かっているんだろう。ただそれを押してでもそうしなければならないほど切迫した状況なのだ、このカルデアは。サーヴァントであるダ・ヴィンチと違ってロマニ・アーキマンはただの人間だ。ただの人間がこの逼迫した状況の中で最も犠牲として焼べられる効率のいい燃料はただひたすらに時間と労力。それを捻出するためならコーヒーも栄養ドリンクも飲むし、体力も睡眠も削る。そういう人なのだろう、ロマニというただの人間は。
だからこそ、やはりこんな風に悠乃と並んでのんびりとカフェラテを啜る姿はひどく物珍しい。
「私と話、してても良いの?」
「ああ、うん。実は今日ほとんど休みなんだ。悠乃ちゃんのメディカルチェックだけで今日のボクの業務は終了」
「……珍しい」
「やっぱり?」
本当に、とても珍しい。ロマニはいつもカルデアスタッフの誰よりも早く起きて、誰よりも遅く寝る。休憩している姿こそたまに見かけるけれど、半日とはいえ休暇なんてものを取るのは……グランドオーダーを始めて以来、初めてのことではないだろうか。
そんなことを何気なく考えて、瞬間、思わずぞっとした。──私はドクターが徹夜をしているのを何回見た? 私はドクターが休んでいるところを何回見た? 割に合わない、合うわけがない。
機材の状態を程よく調整して、特異点の解析に時間を費やして、レイシフト先の悠乃の活動のサポートをして、職員の体調と精神状態に気を配って、時間軸が正常に戻ってからの協会へ提出するレポートの作成、レイシフトでの活動ログ、予算の使い途の報告書……いやきっとそれ以上に。そんなことを、このグランドオーダーが始まってから少なくともこの数月の間、彼はずっとこなし続けて。
「レオナルドに今日仕事をしたら三日は動けない体にしてやるぞって脅されちゃってさ。はは、おかしな話だよね。休ませるために怪我なんて本末転倒じゃないか。まあでも三日も動けないのは嫌だし、痛いのも怖いから有難く休ませてもらうことにしたんだ」
「……一日、なんて、少ないくらいじゃないですか」
定期検査すら日を改めても良かったほどだ。悠乃は途端に居心地の悪さを感じて小さく身動いだ。いいのだろうか、そんな大事な休日なのだからもっとゆっくり過ごした方が。というか丸一日寝てしまってもいいくらいなようにさえ思う。
案ずる感情を素直に表情に乗せて眉を顰める悠乃にロマニはへらりといつもの覇気のない笑みでもって応える。
「ゆっくり寝ようかな、とも思ったんだけど習慣って怖いよね、いつもの時間に目が覚めちゃって。でもまあ出勤するわけにもいかないから部屋でのんびりしてたんだけど、改めて考えるとボク仕事以外にやることないし。あ、マギ☆マリのHPはもうチェックしたよ?」
妄想という名の仮想現実である電脳アイドルマギ☆マリには特に興味はないのでそこは特に要らない注釈だったが。
「のんびりするのも午前中で飽きちゃったから、同じく午後がオフの悠乃ちゃんと話でもして有意義な時間を過ごしたいなぁと」
えへへと気の抜けた笑みを零すロマニに結局それ自分は休めていないじゃないか、と悠乃は思わず渋面を作る。やることがほぼブリーフィングか、はたまたメンタルケアの時のそれと変わらない。その難しくなった顔から何を想像したか、ロマニは慌てて言い募る言葉を増やした。
「ああいやでも! そ、そうだよね……三十路のおじさんと話しても悠乃ちゃんは楽しくないか……ご、ごめん、そこは考慮外だった! 嫌だったら全然断ってくれてもいいんだけど!」
「なんでそうなるんですか……」
この人のマイナス思考はどこまで筋金入りなのだろう。私はロマニと話すことに今まで不都合を言い出したことなどあっただろうか? 思い返してみても思い当たる節は何ら無く。どうしてそうなるのか一度頭を覗いてみたいものだ。
なんだか考えるのも馬鹿らしくなって、悠乃は眉間を緩めて苦笑を漏らした。
「私、ドクターと話すの好きですよ。嫌だったらそもそもこんなカフェラテ渡された時点で帰ってます」
「……い、入れ直す……?」
「わかってないなぁ」
そういうことじゃないんですよ、と笑った。甘すぎるカフェラテは好きじゃないけど、淹れた人がロマニならあなたらしくて悪くない。他愛のない会話に大した意味などなくたって、あなたの言葉は心地よくて好ましい。悠乃は人間としてのロマニ・アーキマンを親しく思っている、ただそれだけのことなのに、どうしてこの人はそれを理解するのが少し難しそうなのだろう。
どういうこと? とでも聞きたげに頭上にいくつかの疑問符を浮かべているように見えるロマニを再度の笑顔で黙殺して、甘いカフェラテに悪くない心持ちで口をつけた。
*
カップに少しだけ濃いめに淹れたインスタントコーヒーを六分目まで注いで、角砂糖をみっつと、ミルクをたっぷり。彼の淹れるカフェラテはいつもそういうものだった。甘いものなんて本当はあまり得意ではないのに、いつも同じものがいいと強請って彼とふたりで話す時は何かとその甘さに舌を焼いていた。
まあ、その機会もさして多いものではなかったけれど。
不透明なその液体からスプーンを抜いて、シンクに置く。ミルクのおかげで少しぬるまったカフェラテに、ひとくち、口を付けた瞬間に思わず後悔が過った。
「……やっぱり、甘すぎだよ、ロマニ」
ふう、と小さなため息をひとつ。躊躇いもなくカップの中身をシンクの排水溝に流して、空になったそれをすすぐ。
もうあの焼け付くような甘いカフェラテを自分が口にすることはないのだろうと考えて、何だかな、と首を傾げる。別に、私は大丈夫だ。あなたの声がなくても歩いていける。別に、私は苦しくない。あなたのカフェラテがなくても息を吐ける場所はある。別に、私は痛くない。あなたの笑顔がなくても笑ってくれる人がいる。
──ただ、空のカップがふたつ、あの部屋の机に並んで置かれることがもう二度とないことを、ひどく寂しいと、思ってしまうだけで。