夢の草原で会いましょう

ふわり。暖かな風に髪が掬われる。アルトリアは午後の微睡みから覚めるような穏やかな心地で金砂の睫毛を持ち上げた。眼裏に飛び込んできたのは黄金の草原と抜けるような青い空。足元に広がる草の背丈は高くなく、ところどころに小さな花をつけて彼女の足を柔らかく受け止めている。瞬きをひとつ。
 アルトリアはくるりと辺りを見回して、ここが広い草原の只中であることを認識した。考えるまでもなく、ここは彼女の故郷たるブリテンではない。祖国にはこのような穏やかな風が流れる土地はなく、第一アルトリアはキャメロットの王城で本日の執務を終わらせ眠りに落ちたはずなのだから。見も知らぬこのような土地に馴染みはなく、普段の彼女であればすわ何者かの謀かとすぐさま臨戦態勢を取っていたことだろう。しかし今日に限っては、そのような気がまったく起こらないことにアルトリア自身がひどく困惑を覚えていた。
 ひらりと裾の長い服が風にたなびく。視界に入り込んだ装飾は少ないながら、僅かに女性らしい華やかさを持ち合わせたその生地にどこか既視感を覚えてアルトリアは自分の格好を確かめるように視線を回す。それは少女時代の頃、まだ選定の剣を引き抜く前のこと。剣士としての厳しい鍛錬を積んでいた頃に自らの師であり目付役でもあったマーリンが気まぐれに見繕った衣装によく似たものだった。というよりむしろ、それそのものであるかのような。普段は精霊によって同じ形にいつも整えられているはずの髪も低い位置でゆるりとひとつに纏められているだけ。
 まるで少女であった時の自分に戻ったかのような格好に戸惑いながらも相変わらず頭の中の警戒指数は一向に上がらない。アルトリアはやけに落ち着いた心持ちでもう一度周囲を見渡し、──草原の先にひとり、少女が立っていることに気が付いた。いや、正確には気が付いたというわけではない。何しろ先ほど見回した際には確かにこの場所にアルトリア以外の人影はなかったのだし、自分の身動ぎする音以外、この場所には風の吹く音さえ響いていなかった。
 背を向けた少女がこちらを振り向く素振りはない。数瞬、アルトリアは躊躇うように少女の背を見つめたが結局何のことはなくそれ以外に思いもつかないので話しかけてみることにした。

「あの、」

 言葉に詰まる。声をかけるとはいったものの、何を言えばいいのか皆目見当もつかない。あなたは誰だ、と尋ねるにはアルトリアはこの場所について詳細ではなかったし、ここはどこだ、と尋ねるにはアルトリアはその少女についての知識があまりにもなかった。そんなアルトリアの心のうちを慮ったわけでもないだろうが、声をかけられたその少女は躊躇う様子もなくアルトリアの方向を振り向く。
 ──あまり、見慣れない服だった。
 マーリンとケイに連れられて旅に出ていた時でさえ見たことのない服。アルトリアはあくまで知識人ではなかったものの、王という職務を果たす以上決して無知であるというわけではない。ブリテンでも見ず、近隣の諸国でも見ることのない服装は少なくとも異邦のものであるということしか判断がつかない。
 少女はアルトリアをその双眸に収めるとふたつ瞬きをして、それから口許をすっと緩めた。まるで親しい者でも見たかのように。

「こんにちは」

 すとん、と胸に落ちるような声だった。涼やかな透明さを持つのに冷めた色のない柔らかな声。その表情と一寸違わず同じだけの親しみを込めた緩やかな声。
 もちろんアルトリアは彼女についての面識はない。その顔を見ても、声を聞いても、何一つ自分の記憶と重なり合う面影はなかった。

「こんにちは」

 それでも彼女と同じように挨拶を返したのは、アルトリアにとってその声の持ち主は害なす人間ではない、とどこか確信めいた直感を抱いたから。その親しみを込めてアルトリアに害をなせるはずがないと思えるほどに、彼女の手足はひどく細く、またその立ち振る舞いは無防備であった。
 アルトリアは彼女に数歩近付いて「あの、」ともう一度先ほどと同じ言葉を繰り返す。後に続ける言葉は今度こそ決まっていた。

「私のことを知っているのですか?」
「どうして?」
「貴女は、先ほどから大変親しそうな様子で私の声に応えてくれる」

 ああ、と彼女は納得したように頷いた。そうして少し考え込むような動作でアルトリアのものより随分と裾の短い衣服をひらと揺らしてアルトリアから目線を外す。

「知ってる……といえば知ってるけど、うーん、知らないといえば知らない、かな」
「……ここがどこなのか、貴女にはわかりますか? 私はいつの間にかここにいたので」

 よくわからなくて。
 少女の背丈はアルトリアとほとんど変わらないほどだった。少女……といえど、彼女の風貌は近付いてみればそこまで幼いものではない。遠くからのシルエットでは分からなくとも頤のラインは細く、目鼻立ちもすっきりとしたものだ。アルトリアが彼女を少女だと感じたのはひとえに彼女の穏やかなまでに透き通った声と、深い親愛に緩んだ瞳を思ってのことだろう。
 彼女はアルトリアの問いかけに暫し迷うように視線を空で転がして、ううんと小さく唸ってみせる。

「私も、よくわかってるってわけじゃないんだけど」

 そう言って彼女はアルトリアを見つめて小さく首を傾けて笑った。

「夢みたいなものだよ。あなたの」
「……夢? 私の?」
「そう、夢」

 彼女は頷いてくるりとアルトリアに背を向ける。やはりその背に見覚えはない。

「あなたは──あまり夢を見ないだろうけど。ここはあなたの奥深く。どこかの境界。あなたが辿り着くかもしれない世界の……どこかの端っこ。決して現世と呼べないのなら、やっぱりここは『夢』というのが正しいんだろうね」
「…………」
「安心して。どちらにせよここはあなたの世界。私があなたに害を与えることはないし、あなたが心の底から私を厭うのなら私もきっとここから消えるはずだから」

 彼女の言葉はひどく曖昧で掴みどころのないものばかりだったけれど、アルトリアにはこれ以上ないほどの真実味を帯びて響いた。何しろ彼女の言葉通り、彼女という存在はアルトリアに何の脅威も感じさせなかったのだから。
 アルトリアが彼女にそれを尋ねようと思えたのは、後ろ手に組まれた彼女の指があまりにも軽くて、「消える」ことに何一つとして躊躇いを覚えていないように思えたからだった。

「貴女の名前は?」
「……私?」

 振り向いた彼女はアルトリアがそんなことを尋ねるのを心底不思議に思っているようだった。胸のどこかが僅かに疼くような妙な感覚に少しだけ眉を顰めかけてそれを振り払う。

「ここが私の夢だと言うのなら、ここにいる貴女は?」

 誰なのだ、とは続けられなかった。彼女がどういう存在の者かを端的に聞いてしまうにはアルトリアは彼女に対して冷淡にはなれなかったし、それを知ってしまえばこの空間も彼女という存在も自分にとって意味を失うということを、理性と思考によってではなくアルトリアは本能と感覚によって誰に言われるでもなく直感していた。
 だから彼女がきょとんと丸くしていた瞳をやわらかな笑みに緩ませたことに自分でも気付かないうちにアルトリアは微かにそっと息を吐く。

「私は悠乃。橘悠乃だよ、アルトリア」

 ──やはり、知らない、響きだと思った。

  *

「ハルノ!」

 それは何度目かの邂逅だった。定位置になりつつある草原の一角にある木の陰に座っている悠乃にアルトリアは珍しくもはしゃいだ声で呼びかけて駆け寄る。
 毎日というほどでもないがいくらかのそれなりに高い頻度でアルトリアはその場所に出ては、悠乃と名乗ったその少女と話をしていた。庇護の対象である国の臣民ではなく、背中を預けるべき同胞の騎士でもなく、しかし打倒すべき敵の異教徒でもない。アルトリアにとってそんな存在は極めて稀有な人間であり、王ではない己としていられる数少ない、否、ほとんど唯一の機会であることに他ならなかった。
 悠乃は国の祭りのこと、数年前の旅のこと、アルトリアの下に従う騎士たちのこと、日々の職務や執政のこと、些細な弱音ごとから他愛のない笑い話までどんな話であっても興味深げに耳を傾けて相槌を打ったが、結局今に至るまでも彼女自身の話はそれがどのような小さな事柄であっても微かに微笑んで口を噤む。アルトリア自身も、そのことについて深く追及をしたことはなかった。

「聞いてください、かねてより友人として交友を持っていたランスロット卿がこのたび円卓の騎士に名を連ねるとお約束して下さったのです!」
「わわ、へ……?」
「これで、わが国の食糧事情も少しは改善に向かうと良いのですが……」

 なかなかすぐに、というわけにもいかないことは理解しているが、期待をしてしまうのは仕方がない。

「ランス、ロット……」
「……ハルノ?」

 いつもなら「わあ、良かったね」とアルトリアと同等かもしくはそれ以上に良いニュースに対して敏感に目を輝かせる悠乃が小さく何事かを呟いて黙り込んでしまったことに、アルトリアは訝しげに眉を顰めて彼女の顔を覗き込む。

「どうかしたのですか?」
「えっ、ああ、いや……」

 らしくもなく誤魔化すように笑う悠乃をじっと見据えれば、彼女は少しの間アルトリアから目を逸らして、困ったように眉を下げた。何かを言い淀むように「あー、」だとか「うぅ……」だとか意味のなさそうな声を出して唸る悠乃の次の言葉を待っていれば、やがて根負けしたように悠乃は膝を抱えてアルトリアをちらと横目で見上げる。

「どう、いう人なのかなって。えっと……ランスロットさん、よく名前は聞いてるけど、あんまりどういう人なのかは聞かないから」
「……気になるのですか、ランスロット卿が」
「まあ、そう……かな」

 とても、珍しいことだった。悠乃が自分からなにかを聞いてくることももちろんだが、それ以上に誰かを気にする素振りを見せることが。別段、今まで彼女に対して誰かの話をしてこなかったわけではない。義兄のケイや師であるマーリンを筆頭に周りの騎士たちは基本的に話題に事欠かない者ばかりであったし、彼女もアルトリアの語る騎士たちの話をそれは楽しそうに聞き入っていることが常だった。
 ただそれだけに、悠乃がこのように遠回しな尋ね方で誰かのことを訊くのは初めてのことで、アルトリアは刹那言葉を飲んで、きゅっと唇を引き結ぶ。

「えーっと、アルトリア?」
「気になるのですね。私に尋ねることを恥じらうほどに」
「……え、あの」
「なるほど、ええ、確かに。ランスロット卿は大変魅力的な御方かと。かの騎士は非常に聡明で謙虚でありながら実力に裏打ちされた確かな度量のある殿方だ。私にそういった情緒はないが国でも多くの女性を泣かせてきたと風の噂で耳にしました」
「おーい……」
「その上で伝えておくべきはかの騎士は偽りなく真摯な人柄であることでしょうが、そこはあえて構いません。しかしハルノ、貴女の今の状況を考えるに会ったこともない人物に懸想することが現在の最適解であるとはとても思えない」

 実際は彼女がどういう存在なのかは未だによくわからないままではあるのだが。とにかく何だかよくわからない心持ちのまま「これは友人としての忠告ですが」と我ながらどこか言い訳染みた言葉を発した時点で困惑しきった悠乃の声がアルトリアの言葉をぴたりと押し留めた。

「ちょ、ちょっと待って。なんか勘違いされてる気がするんだけど」
「……勘違い」
「べつに私ランスロットに懸想してないし、というかえっと……アルトリア、なんか怒ってる……?」
「怒っていません」

 間髪入れずにすぐさま返せば「怒ってるよね!?」と噛み付くように返されたので「怒ってません!」と答え、アルトリアはふいと悠乃から目を逸らす。
 本当に、ここはいけない。王城であれば、ほかの騎士の前であればひとときたりとも感情を動かさないでいられる自負があるのに、この場所で、悠乃の前では少しの感情の揺れも逃さず彼女が捉えてしまう。きっと気持ちが緩んでいるのだ。なまじ少女時代を思い出させるような己の風体もまた、それを少なからずどこか助長しているのだろう。

「……貴女といると、私は駄目になってしまいそうです」
「え、何いきなり」
「貴女の前では私は、私が王であることを忘れてしまいそうになる……」

 アルトリアの言葉に悠乃は瞬間、言葉を失ったようだった。情けなさを堪えて零した本音だったにもかかわらずいつまで経っても返ってこない返答に痺れを切らし、下がっていた視線を上げて睨むほどの勢いで彼女を振り仰いで──ひゅ、と自分の吐息の止まった音がやけに鋭く耳を突いた。

「いいよ。わたしの前でだけなら」

 頭の奥を痺れさせるほどの、甘い……あまい、こえ。息を止めてしまうほど甘やかな笑みに象られた瞳はとろけそうな熱を含んで、じり、とアルトリアの網膜を焼く。
 わすれてしまえ。まるでそう囁きでもするように、彼女の熟れた果実を煮詰めたようなうつくしい目は空の光を帯びて鮮やかさを増した。

 彼女の、言う通りに。忘れてしまえればどれほどアルトリアは救われたのだろう。その瞳に心惹かれるまま、悠乃の無防備に投げ出された手に己の少女じみた指先を躊躇なく絡ませることができたのなら。

 けれどアルトリアというその人間は、結局のところ、骨の髄まで王さまでしかなかったので。


「──なんて。うそだよ」

 とん、と突き放すように軽やかな声で悠乃がその目を逸らすまで、アルトリアは指の一本さえ満足に動かすことすら、することができなかった。
 するりと悠乃がアルトリアの隣から抜け出すように立ち上がる。「……ハルノ?」呼びかけた自分の声が微かに揺れていたことにきっとアルトリアはこれから先も決して気付くことはない。

「うそだよ。……ごめんね」

 けれどそう言った悠乃のいつもと変わらないはずの笑みが、ひどく寂しそうに映ったことだけが小さな引っかき傷のようにアルトリアの胸のうちを、長く疼かせ続けている。

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