やわく、意識を引っ張られるような感覚にアルジュナオルタは瞼を上げる。どこかまどろみに似た倦怠はするりと引き、霊体化をして部屋を抜け出した。
しんと静まり返った通路を行き、潜り慣れた扉をすり抜ける。抵抗はない。「許可なくサーヴァントが入ってきたら警報鳴るようにも出来るらしいよ」と楽しげに笑っていた部屋の主人が一度もそれを活用しようとしないからだ。
通路のような常夜灯さえ点っていない部屋の中は暗闇が満ちていて、人が起きている気配などない。
呼ばれたわけでは、ないのだろうか。
アルジュナはわずかに首を傾げ、ぱちりとひとつ瞬きをする。人であれば視界の効かない闇の中でもサーヴァントのそれであれば昼間と遜色ない輪郭を辿ることは容易であった。寝台に横になっているこちらに向けられた小さな背も、シーツに散らばる髪の濃淡も間違いなくアルジュナのマスターのものだ。
不意に小さく響いた呻き声を耳で捉える。今この場には彼と彼のマスターの姿しかないのだから、必然的に彼女が声の主だった。アルジュナは霊体化を解いて、くるりと寝台を回り込む。
「……ごめ、なさ……」
はく、と酸素を求めるように開かれた唇から零れ落ちた細い声に何を謝るのかと口を開きかけて、日頃柔らかな光を含んで緩む彼女の瞳が瞼の裏に確かに隠されていることに気付き言葉を飲んだ。悪い夢でも、見ているのだろうか。
額にかかる前髪を指先で払えばきつく顰められた眉間が露わになる。彼女の険しい表情など、初めて見た──あるいは。視界で把握しているのみで、「見た」ことはなかったのか。
は、と乱れた呼気を洩らすマスターはお世辞にも安眠しているとは言えそうになかった。アルジュナはゆら、とその異形じみた尾を小さく揺らし枕元に体を寄せる。
「──……、」
音にすらならないほど細やかに落とされたのは誰の名前だったのだろうか。微かな唇の動きからではアルジュナには推察することさえ出来るはずもない。
心許なくシーツを掴んでいた指先が何かに手を伸ばすようにを空を掻くのを見て、自らの手のひらを差し出したのはほとんど無意識の行動に近かった。重なった体温はひどく柔らかく、少しでも力を入れればすぐに手折れてしまいそうなほど頼りない。弱く、小さく、脆いもの。
少しばかり過剰なほどそっと、触れた温度を包み込めば顰められていた眉がいくらか和らぐ。緩んだ眦からじわりと滲んだ水滴は生理現象としてのものであるのか、それとも。
足裏に触れる地の感覚を思い出したのはいつだっただろう。彼女の髪の色彩を識別できるようになったのは、耳に入る音と言葉を声と認識できるようになったのは、いつから。重ね、分け与えた私の体温は、彼女を安堵させるに足るものであったのか。──それはまだ、分からないが。
手のひらを彼女に預けたまま、アルジュナは静かにベッドに頭を凭れさせて目を閉じる。
小さく握り返された手のひらの感覚は、どこか、ひどく懐かしいもののように思えた。
*
常に吹雪の空に覆われている施設であるところのカルデアの個室には、窓がなかった。その施設の構造を真似ているこのノウム・カルデアの新しい自室にも当たり前のように窓はない。かつてのカルデアと同じように、規定の時間になれば個室のそれぞれに薄く明かりが灯り、居住者たちに朝を知らせる仕組みになっているのだ。
人工灯の薄明かりに促されて彼女はぼんやりとした意識のまま目を薄く開く。視界にまだ馴染まない光をむずがって枕に顔を寄せようと身動ぎし、ふとなめらかなシーツが触れるはずの手のひらが違う質感のそれと接触していることに気が付いた。
「んー……」
眩しさに目を眇めつつ瞼を押し上げて、あたたかさを握り込んだそれに視線をやる。見慣れた自分の手と、それとは随分濃淡が異なる褐色の……大きな手、
「──はっ……?」
ぱちり、と完全に意識が覚醒した。流れるように視線でその手を辿れば無造作に流された長い白髪と一片の綻びなく美しいかんばせ、そして何より特徴的なのは頭部からすらりと伸びる青色の光を淡く放つ角と、ゆらゆらと今も彼の体の後ろで揺れている先の分かれた尾であろう。寝起きと言えどさすがに見間違うわけもない。
「ある、じゅな」
確かめるように呟いた名前に反応してか、紅の差された瞼が緩慢に持ち上がる。いっそ無垢にすら思えるほど平坦な感情を乗せる黒い瞳と目が合って、不意に自分の状況に思い至った。今しがた目を覚ましたばかり、当然髪も顔も整えるどころではなく、傍には男性の身体的特徴を持つサーヴァント、おまけに手を繋いでいる。
有罪だ。がばりと勢いよくシーツから体を起こした。
一体誰から断じられるのかは知ったことではないがたぶん間違いなく有罪である。
悲しいかなカルデアでマスターとして働くうち起き抜け一番にサーヴァントの顔、というのはそれほど珍しくもなくなりつつあるが、いくら何でも相手が問題だろう。彼女にだって異性に対する多少の矜持くらいはある。それが通じる相手かどうかはさておいてだけれど。
起き上がって落ちた掛け布団を引き寄せて体を隠し、そっと腕を引けば大した抵抗感もなく手のひらの体温は離れた。元より指を絡めていたわけでもないし、本当に重なっているだけだったのだが。
「え、っと……あの、……お、おはよう……」
「……はい」
ようやっと零した彼女の挨拶にアルジュナオルタは言葉少なく──いやそもそもまだ彼が多弁に口を開く様子は見たことがない──答えてゆらりと身を起こす。
何を、言えば。どうしているのと聞くのもなぜだかわからないが理にかなわない気がする。いやでも、呼んだわけでもないはずだし、何か用があるなら聞かないと、
困惑のまま問いを探す彼女の頬に体温が触れて、思わず下がっていた視線が上がる。手のひらだ、つい先ほどまで触れていた。気軽に触れ合う機会の多い同性のそれよりもひとまわり大きくて、「弓引き」であった彼には当然だが、すべらかでもなければやわらかくもない。それでも、普段は手袋に覆われている肌は意外なほどほのかに暖かかった。
「魘されて、いた」
「……わた、しが?」
小さく引かれた顎は肯定の意だろう。緩やかに指先で撫でられた頬にわずかに引きつるような感覚が走って、それが涙の乾いた跡だと気付く。
「どのような夢を?」
そんな問いに数度瞬いて考え込むが、何か思い当たる節はなかった。おかしい。そんな魘されるほどにひどい、誰かサーヴァントの記憶を見る『夢』なら、その内容を忘れるはずがないのに。なんと答えたものかと思い、別に取り繕ったところでしかたがないと気付く。だって、本当に覚えていないのだ。
彼女は首を傾げてにへら、と気の抜けたような、少し困ったようにも見える顔で笑ってアルジュナを見上げた。
「ごめんね、覚えてないの」
「……そうか」
彼はしばし逡巡するように彼女を見つめてから、目を伏せる。
「ならば、いい」
その呟きに「え、」と声を上げる隙もなくアルジュナの姿は空に溶けた。霊体化してしまったのだろう。まだ少し困惑を残したまま部屋を見回して薄暗い室内に誰の姿も見えないことを確認し、彼女は背中からベッドに倒れこむ。集中してパスを探れば本当に彼が出て行ったのかも分かるだろうけれど、そこまでする必要性は感じなかった。
なんだか、朝から妙に緊張してしまった。まだ温かさが残っているような感覚がする頬に手を当てて、アルジュナの様子を思い出す。表情の動作の薄い彼の真意を読むのは未だに少し難しさを覚えるのだけれど。
「……心配、してくれたのかな」
そうなのだとしたら、ああ、お礼を言うのを忘れていた。ここ最近続いていた起き抜けの気分の悪さがひどく和らいでいるのは、──きっと彼のおかげなのに。