恋はお咎めなしですか

「移り気は、悪です」

 するりとやわく左脚に触れた彼の尾がいくぶん力ないことに気づき、私は思わず息を詰めた。何とか身体を引いてもらいたくて肩を押していた両腕から力が抜ける。腰を引き寄せる腕は強くて、言葉は私を断じるようなのに、肩に押し付けられた吐息は熱く、放たれた声は少し震えているようだったからだ。
 ばくばくと先程まで過剰に働いていた心臓はわずかながらに鼓動を緩め、冷静な思考が少しずつ戻ってくる。──ああ、もう。私は何をやっているのだろう。この数日何度となく自問した情けない問いかけが頭の中をリフレインしてきゅっと自分の眉に力が入ったのがわかった。別にアルジュナの様子を厄介に思っているわけではない。どうかしたのですか、といつか問われることはわかっていた。それくらいあまりいつも通りではなかったことは自覚している。ただ少し、思ったよりもタイミングが早く、態度があからさますぎることに驚いてはいるけれど。

「……アルジュナ、」
「私をそばに置いてもいいかと聞いたのは貴女だったではないですか。今更反故にするのですか。もう私への興味は失せたと? 貴女の道行きを見たいと、貴女と旅をしてみたいと言ったのに」

 まるで恨み節を吐かれているようだと漠然と思って、実際その通りであることに少し慄いた。誰かを責める、なんていう行為はひどく彼と縁遠いものであるように勝手に思っていたからだ。
 少し引き上げられるように抱きすくめられた体勢はやや骨が軋むような心地がするのだけれど、アルジュナはきっと気づいていないだろう。行き場がなさそうに揺れている尾にも、私にもう逃げる気がないことにも。そんなことを思ってたまらないような気持ちになるのは、本当に、心底、どうかと思うのだが。

「ご、めんなさい、……あの、違うの」
「何が違うと。ここ数日徹底的に私を忌避したことに何か正当な理由があるとでも言うのですか。それともまさか私の勘違いだとでも?」

 そんなわけがないだろうという言外の主張はとても厳しいのに、私の耳には甘く響いてしかたがない。落ち着いたはずの鼓動の音がまた早まるような気がして、私は静かに息を吐く。

「えっと……その、忌避っていうのが……違くて、」

 もうほとんど添えるだけのようになっていた手を離して肩口に押し付けられた彼の頭にそっと触れさせる。腰に回された手がぴくりと反応したのがわかったけれど、抵抗はされなかったのでそのまま梳くように彼の髪に指を通した。

「これは……私の個人的な気持ちの問題、というか……」
「個人的な心境? 今更私のことを恐ろしいなどと宣うつもりですか貴女は」
「そうじゃなくて」

 違う。本当に違うのだ。別に彼を恐ろしいなどと言うつもりはないし、ましてや嫌悪感を抱いたわけでもない。そうではなくて。

「あなたといるとどきどきして、いつもの自分のことを忘れてしまいそうになるの。あなたに名前を呼ばれると心が浮き足立って、私がどこに立っているのか少しだけ曖昧になる」

 なんてひどい吐露だろう、と吐き出した先から後悔が滲む。複数人の声が聞こえる中で彼の声だけが異様にはっきりと耳につくのも、彼を目にした瞬間にぱっと視界の彩度が上がるのも、知らない──知らない、未知の感覚だった。まるで自分が自分でなくなるような、何かに上塗りされるような、そういった類の強烈な感情。

「……どうしたら、いいのか、わからなくて」

 聞くに堪えない弱音だといっそ笑ってしまいたくなった。愚かなことだと誰か私を詰ってくれはしないだろうか。静かに上がったアルジュナの顔を見ることもできずに滑り落ちた腕を引いて目を伏せる。

「……マスター、それは」
「言わないで」

 頭上でわずかに躊躇ったような気配のあと、確信を突こうとしたアルジュナの言葉を遮った。別に、言葉にするとかしないとか、そういうことで自分と誰かの距離感を保つほど子供であるからというわけではなく。ただ私が単純にそれを聞いてしまいたくなかった、それだけのことで。

「ただわかって。今は私、あなたとどう接していいのかわからないの、だから」
「──なるほど」

 平らかな声色で私の言葉を受けたアルジュナの様子に安堵して、強張った肩から少しだけ力が抜ける。律儀で真面目な彼のことだからいくらか我儘に過ぎる提案でもある程度ならきっと頷いてくれるはずだ。最近であれば頼っていたような場面でもあえて最初から選択肢として除外していたのは確かに彼の言う通り「忌避」そのものだ。正当ではなかった。マスターとして大いに反省している。けれどもう少し、一個人としての距離だけは気持ちの整理がつくまでは遠ざけたいというところで。

「では、慣れましょう」
「……え、」

 思わぬ返答に顔を上げ、どういうことだと返す間もなく緩んでいた彼の腕が再度私の体を引き寄せる。近距離でかち合った瞳に驚いて私が顔を逸らすよりも、アルジュナの手が私の後頭部を捕まえる方が早かった。

「私といると動悸がするのなら触れあいましょう。私に呼ばれると浮き足立つのなら何度でも呼んで貴女への好意を囁きます。人間は慣れる生き物ですから、きっと何度も繰り返して馴染めば動揺もしなくなるはずです」

 吐息がかかるほどの近さでそう言うアルジュナの声は至極淡々と聞こえるのに、私を捉える彼の黒曜の瞳が普段よりも爛々と輝いているように見えるのは多分気のせいではないだろう。片腕での拘束は先ほどのそれよりも随分圧迫感は軽減したけれど、絶妙な力加減で抑えられているのがむしろ理性の存在を意識させられて恐ろしい。……彼は、今紛れもなく正気で言っているのだ。いや、私は、そうじゃなくて。

「大丈夫ですマスター。私は貴女がどれほどいつも通りに振る舞えずとも貴女に置いた信を覆すつもりはありませんし、現に今、私の言動に戸惑う貴女は懸命でとてもいじらしく思います」
「か、感想とかいいから……!」

 自分の感情を直視するだけでも相当な気力を消耗するのにこれ以上接触が増えては気持ちを整理するどころではなくなってしまう。あまりの事態だ。離れてほしい、と両手で彼の体を押してもびくともしない。数分──否、十数分前にも似たようなことをしたと途方に暮れ、けれどその時は弱々しく触れるだけだった彼の尾が今はくるりとふくらはぎに巻き付いてくるのだから本当にずるい。そんなことを可愛いだなんて思ってしまう私も大概どうしようもないのだけれども。
 無理だよ、と処理の追いつかない状況にいっそ視界を滲ませながら首を振れば彼は今度こそ明確に口元を緩めて微笑みのかたちを作り、私の瞳を覗き込んで、これ以上ないほどやさしくない言葉で私の足掻きにとどめを刺した。

「悠乃。それがどのような感情からくるものであったとしても、やはり私を遠ざけるのはとても身勝手な、悪ですよ」

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