果てのない底


祖母は私を部屋からは出さなかったが、食事はずっと欠かさず与えた。私は窓から顔を出して、駆けた庭を見下ろしていた。何の変哲もない部屋、長閑な外の光景。光は有るが、乾いていた。私はあの夜痛感した。光の下に居てはいけなかったのだと。

太陽が真上に来る頃、一台の黒い車が、家の前に止まった。祖母の家に来客など珍しい。祖母の家に来るのは大体は郵便配達か餌を撒く時に集まる鳥くらいなものだ。良く磨かれているように見受けられるその黒は、庭の緑を映し出してその非常さを醸し出していた。そして、その車から出てきたのは、一人の男性と金髪の眩しい美しい少女。大きな男達に囲まれながら、祖母の家のチャイムを鳴らした。



「私はエリス。あなたは?」
「………椿」

外にいた少女は、いつの間にか私の部屋へと入っていた。名を名乗った少女はエリスと言うらしく、私にも名乗れと云ってきた。

「そう、椿!ヨロシクネ」
エリスはそう云うと私の手を掴み、ブンブンとちぎれんばかりに振ってきた。嫌がらせではないかと一瞬考えたが、その顔には悪気などこれっぽっちも無かったので、戸惑いを滲ませながら、こちらも
「よろしく、エリス」
と短く挨拶を交わしたのだ。


「エリスは如何して此処にいるの?」
「だって、詰まらないんだもん!リンタロウはずうーっと話しているし、此処初めて来たから玩具の場所も紙もクレヨンもケーキが置いてある所も知らないわ!」
「ケーキは無いけど紙とクレヨンならあるよ…遊ぶ?」
「!! 遊ぶ!」

エリスはとても元気だった。真上にあった太陽が傾くまで遊んでいたのに、最初と変わらずきゃあきゃあと頬を染めては笑い、話すことがそれほど無い私に飽きもせず此の部屋で過ごしていた。ケーキもあればもっと喜んでくれていただろうかとぼんやり考え始めた頃、此の部屋の唯一の扉の外で、男性の何処か悲しげな声が聞こえてきた。其れに気づいた私とエリスは扉の方を注視した後、顔を見合わせる。
「リンタロウだわ!もう、また情けない声出してる。リンタロウーー!!!」
「えっ」

「エリスちゃん!ここに居たんだねえ!寂しい思いをさせてごめんねエリスちゃんもう大丈夫……おや、此処は君の部屋だったか。失礼した」
コホンと咳払いをひとつするとその男性は大きな男達を背にしながらエリスちゃんを手招いた。微々たるものだが男達の雰囲気から感じたそれは、私が居た場所の空気と酷似していた。

「それじゃあ椿、“またね”!」
そう言うとエリスは、リンタロウという人の脇をすり抜け、トトト、と走って行ってしまった。

「エリスちゃんと遊んでいてくれたのだね、ありがとう。私は森鴎外という」
「…椿」
知っているよ、と続けた男性は、私に目線を合わせるようにゆっくりと屈んで其の笑みを深くした。先程から感じるただならぬ冷気と鳥肌は、後ろの男達からでは無く、この男性から感じていたのだと理解した時、無意識に後ずさりをしていた。

「そう怖がらなくていい。私は君に何をするつもりも無いよ。只、先程君の祖母君と少し話をしてねえ。今日は君を引き取りたいと持ちかけに来たんだ。祖母君は中々首を縦に振っては呉れなかったが、長く説得の末にやっと縦に振って呉れたよ。あの御婦人はとても聡い。君の“異能”を知らずとも、薄々君の特殊性は感じ取っていたのだろう」

異能を知っている。此の男は初めて会った筈の私が異能持ちである事を知っている。即ちそれは、この男達が私が元いた場所、何処かのマフィアの者だということ。悪夢がチラついた。祖母は、祖母は無事なのか?マフィアの所業は知っている。残酷残忍で血も涙もなく、目的のためなら何でもする。先程言っていた事が真実なら、
「そう怖い顔をしなくても…君の祖母君には手を出していないよ。今日は取引に来ただけなのだから。そしてそれは成立した」

「明日また迎えを来させる。荷物を纏めておきなさい」






元々私の荷物なんてものは殆ど無くて、唯一あった祖母から貰った髪留めも、恐ろしくなって捨てた。此処に来てからは眠る時間だった夜を私は眠らず、布団に入りながら窓の外の夜空をぼんやり眺めて過ごしていた。カチャという音が部屋に響く。其れが祖母の物だと直ぐに気づいた。然し祖母は部屋に入らないまま、扉口で言った。

「あたしはお前を面倒見きれない。聞いたかと思うが、あの人たちならお前の面倒を私よりもしっかり見てくれるだろうさ。……引き取ったってのにねえ。あの子のこれは、あたしの遺伝だったのか。椿、外に出してやれなくてごめんね。あたしなりにお前を守ったつもりだったんだ。お前はあの夜、あたしを殺そうとした。其れだけであんたが今迄居た場所が、あの子が消えた場所が、普通じゃない所だったなんて事は直ぐにわかったさ。そんな所まで似なくても良かったのに、あの子はあたしが光の下で生んだのに、結局陰に戻っちまうんだね。血は争えないよ、本当に」

ひとつ溜息を吐くと、祖母は部屋に入ってきた。眠っている私のベッドに近付くと、目を瞑る私の額にかかった髪をよけてゆっくりゆっくり、指先で梳くように撫でた。目尻から流れる水には気付かないふりをして、祖母の手の温かさを感じ、母の温もりを思い出しながら、私の意識は体の奥へと落ちていった。







窓が眩しい陽の光を部屋に集める。朝が来たのだと、重い頭を起こして部屋を見回した。当然だが祖母はいなかった。


6時頃に、また黒い車が祖母の家に止まった。暫くして部屋の扉が開かれ、祖母と黒服の男達が待っていた。私は足を踏み出した。黒服の男達は先に私を車に詰め込むと、祖母に銀のアタッシュケースを差し出していたが、祖母は其れを受け取らなかった。
「要らないよ。あの子を売ったみたいじゃないか」

車は走り出す。祖母の家が離れて行く。私の隣には銀のアタッシュケースが幾つも積まれていた。中には札束がぎっしりと入っているのだろうと容易く想像出来た。これが私の価値かとぼんやり思考して、流れる窓の外の光景を見る。嗚呼、外はこんなにも広いのか。


緑の多かった景色は次第に沢山の灰色へ移り変わった。喧騒が増し、高いビルが空を埋めていた。その中でも一層高く、黒く聳え立つビルの中へと車は入り、そして止まった。車のドアが開かれる。そこにはあの男性が__森鴎外という人がいた。そして其の後ろにはエリス。

「ようこそ、椿ちゃん。よく来てくれたね。長旅で疲れてはいないかい?」
「椿!はやく遊ぼ!!!はやくはやくーー!!!」
「ああっエリスちゃん!」
「リンタロウうるさーい!」

これは昨日も思ったことだが、森鴎外という人はエリスに甘いらしい。エリスに慌てふためくその姿は、何というか、“普通”である。エリスに手を引かれて、地下の駐車スペースからエレベーターでぐんと高い場所まで昇る。メーターが最上階を示した時、チンと鐘が鳴りエレベーターが開かれた。


「ふむ。椿ちゃん、何も持ってきていないのかい?」
その通りだと、コクリと頷く。するとまた顎に手を当てて、森鴎外という人はうーんと思案し始めた。
「リンタロウの事は放っておいて、遊ぼう?」
未だ握られた手をぎゅっと引かれ、エリスに連れられるまま、私たちは床で紙とクレヨンで遊び始めた。
この場所ではエリスと共に行動した方が得策である。然しエリス、紙からはみ出しては意味が無いのでは?という言葉は、何となく喉の奥で飲み込んだ。