其の少年
その目に見覚えがあった。
目視した途端、ぶわりと心の奥底から水が溢れ出して、其れは目から涙となってとめどなく零れていく。
わからない。わからない。わかる。わかった。
嗚呼、この目は、母の目だ。
「如何して泣いているんだい」
「……」
然しその目を持つ人は、母ではなかった。母でなければ、女でもなかった。
その人は、この窓の無い部屋で唯一外と繋がる扉から入ってきた。扉は固く閉じられていた筈なのに、カチャリと軽い音を立てて開いたそこからは、私とあまり変わらない年頃の少年が姿を現した。顔の半分を包帯で隠し、頬にはガーゼを貼っていた。よく見れば、襟元の首や袖の隙間から見える手首にも包帯を巻いている。今は見えない服の下にもびっしりと包帯を巻いているのだろうか。
対して私の身体は、父親とあの場所から逃げてから幾日か経っているため傷ひとつ無い。
母を置いて逃げ、今や傷ひとつ無い私に、母が同じ目を持つ傷だらけの少年を寄越して私を責めているかのように感じた。そんな事、母がする筈も無いまやかしだとは分かっていたが、そう思わずにはいられなかった。そうでなければ、私は未だ流れ続ける涙の理由が分からなかった。そうでなければ、目の前の少年の問に答えられなかった。
「…困ったな」
暫く泣いていると少年は、心底困ったと雰囲気にも声色にも隠さず表した。なんでも、「泣かせる方法は幾らでも知っているが泣き止ませる方法は脅しとあと一つしか知らない。然しその方法はどちらもこの状況には相応しくない」と云う。私でもこれの止め方はわからないのだ、他人からしてみればお手上げなのも当然だろう。
「ううむ、この部屋は奇妙だね。窓も無ければ通気口も無く代わりに空調機、扉はカモフラージュでそう見つからないように細工されていて鍵も掛けられ、しかも内側からは開かない、と…まるで隠しているかのようだ。君は首領の娘か何かかい?」
「……」
首領と云えば父親が思い浮かぶ。真逆、父親の仲間が生き残っていたとでも言うのか?この少年は私と同じく父親に利用されてこんなにも傷だらけなのだろうか?だとすれば、今すぐこの少年を助けなければ、扉が開いている今のうちにこの少年と出なければ。“箱庭”を制御する事は出来ないが、一瞬見て抜け穴を探すだけなら。
ぐるぐると考えていると、いつの間にか少年が包帯だらけの顔をこちらに寄せて居た。
「君は喋れないの?」
「! 喋れる」
「おや、こんなにも可愛らしい声をしていたのだね。喋らないと勿体無いじゃあないか!」
「っそんな事言っている場合なの?早く逃げなきゃ」
「逃げる?とんでもない!君が逃げないようにこの部屋には鍵が掛かっていたのだろう?僕はちょっとした好奇心でこの部屋を探し当て、鍵を外して入ってみたのだよ。だからこの行為は首領には認められていない。君を此処から逃がしてしまえば僕は蜂の巣か首を飛ばされるかされるだろう………否それも一興か…?然し痛そうだ、痛いのは嫌だな…」
「…何を、言っているの。こんな所今すぐ出なきゃ、アナタの其の怪我はずっとアナタの身体に刻まれたままよ。死ぬまでずっと利用されるのよ!」
「うん?この怪我の事かい?否これは別に此処で無くともずっと僕の身体に刻まれた儘だろう。何せこれは恥ずかしながら僕の失敗の数だけ有るのだからね」
「どういうこと…此処は…?」
「ふむ。どうやら君と僕で認識の食い違いが有るようだ。君、首領の名を知っているかい?」
「…知らないわ。そもそも此処が何処かもわからない」
「これは驚いた。何も知らずに此処にいたのかい?首領の口振りでは、君と首領は面識が有るようだったけれど…其れに首領の愛し君も、君の事を気にしていたよ」
「アナタは此処が何処か知っているの?」
「勿論だとも。此処はポートマフィアさ。そして首領の名は森鴎外。君、本当に此処に覚えが無いかい?」
「…森さんが、首領?」
「なんだ、矢張り知っているじゃあないか」
知らなかった。森さんがマフィアの首領だと。然し其れ程衝撃的では無かった。森さんが首領であれば、色々と説明がつく箇所が幾らかあったからだ。初めて会った時の刺すような冷気、厳重な警護、最上階の自室、度々訪れる客人との私には聞かせられない話。
父親の仲間の所ではないとわかった途端に逃げの一手だった思考が解けていった。然しそれと同時に、わからなくなった事が出来た。何故私を此処に閉じ込めたかということ。そして、こちらを見て何やら笑みを浮かべている少年のこと。
鍵を開けたと云っていたが、首領__森さんからは認められていないと云っていた。ではどうやって鍵を開けたのだろうか。しかもこの部屋の存在を知り、探していたと云った。好奇心で片付けるには旺盛が過ぎる。然し真意が見えない。暗い闇を宿した目は何も映していなかった。
「ふふ、どうやら止まったようだね」
「?」
「涙だよ。君の中の水分凡てを出し切ってしまうのではと思ったが、止まってよかった」
少年は涙の跡をなぞるように頬に指を滑らせる。目尻に溜まっていた滴を拭うと手を引いて、ゆっくりと立ち上がった。
「そろそろお暇するよ。首領に勘づかれていそうだしね」
黒い外套を揺らして扉に向かう少年との逃避行を、今はもう考えていない。一先ずは森さんの所に居ることを知り、動く必要は無いと踏んだのだ。
扉が閉まろうとする其の前に、少年は顔を覗かせた。
「そうだ、君の名前を聞いていなかったね」
「椿。アナタは?」
「僕は太宰だ。太宰治。其れでは椿、“また”」
そして今度こそ、外と部屋は遮断された。