03.何も知らないあなたの事

あなたが拒む境界
その一線を目で追うばかりだった






森鴎外という人物は闇医者兼情報屋から、闇を束ねるポートマフィアの新ボスに就任したかくも日向の似合わない男であった。

突然見知らぬ場所に飛ばされたと思ったらうら若き女性の許に居住する事になっていた。何を云っているかわからないと思うが、1番信じられていないのは鴎外本人である。
自分が消えた事で立て直し途中であったマフィアはどうなっているだろうかと考えながら、まぁ太宰くんが何とか頑張っているだろうと自身の運命共同体の苦労を鼻で笑い、目の前の平穏な生活に意識を戻す。

こんなにも怪しい男を懐に収めたのは、これまた信じられないことに10代後半の女子高生だった。彼女の名は双城沙夜。本当に肝の据わった女性である。
最初は親切すぎる彼女に疑問しか感じなかった。どこから来たのかもどうやって帰るのかもわからない。助けても全く利益にならないというのに彼女は鴎外を家に置き、初日から生活に最低限必要な物を太っ腹にも揃えてくれた。そして家事も分担させるという本当に確りしたお嬢さんだと思う。きっとご両親の教育の賜物だろう。

然しとうに2週間は過ぎているのに彼女と鴎外が住むこの家に、彼女の両親らしき姿は1度も見えたことは無かった。その上連絡を取っている気配も無い。
以前にリビングを掃除した時にアルバムを見つけた為、勝手に見るのは心苦しいと思いながらもちゃっかり拝見した。そこには幼少期であろう大変可愛らしい彼女の姿と、宝物のように彼女を抱く男性と、幾らか年配の婦人の姿があった。
ふむ、と鴎外は幼女の姿に心のシャッターを切りながら考えるも、今迄彼女が一度も親の話題を出さなかった為静かにアルバムを元の位置に戻す。
それから暫くしてガチャリと彼女が帰ってきて、お茶くらい淹れられるとキッチンから見た彼女の笑みは、アルバムで見たそれより幾らか淋しそうに見えた。


自分もマフィアの首領であり一般人の彼女とは相容れない存在であることを隠している。彼女にも鴎外に隠す事の一つや二つあるだろう。云えない事ならば聞きはしない。自分も云えないことがあるのだから、互いに踏み込まれて厭であろう所を見つければ、気付かないふりをするのがいい。
世の中には云うべき事とそれ以外がある。人に云うべきことは、最後まできちんと云うがよい。全部は云いたくないことだったら、寧ろ初めから凡て黙っていることだ。


ピンポンと鳴ったインターホンに、鴎外はピクリと読書の手を止めた。郵便か何かかと思うも、それらしき声は掛けられない。覗き窓から外を見ると、見慣れない男性がそこには立っていた。

(…父親、ではなさそうだ)

黙って観察していると外から「おい」と低い声が響く。脅すような口振りで放たれる言葉の数々は、恐らくこの家の主である沙夜に向けてのものだろう。彼女はまだ学校から帰っていない。然しそろそろ帰ってくる頃だ。
知り合いかはわからないが、明らかに悪意ある人間と玄関先で鉢合わせするのは可哀想そうだ。追い返した方がいいだろう。…随分と彼女の味方をするように働くようになった思考に鴎外は苦く笑う。

鴎外はガチャリと解錠してその顔に笑みを貼り付けながらも、紅い瞳に冷気を纏わせて玄関先の男と対峙した。

「何か御用ですかな?」







放課後、沙夜は家に帰る道を歩いていた。空はどんよりと分厚く雲に覆われ、今にも降り出しそうだ。
そうなる前に帰ろう。びしょ濡れで帰ったら鴎外が驚くに違いない。すっかり自分の生活に溶け込んだ彼の存在に沙夜は人知れず胸の奥がじわりと暖かくなる。帰ったら家に誰かが居るというのは、とてもいいものだ。

アパートを前にしてポツリと頬に冷たい感覚が落ちる。だんだんとアスファルトに水玉模様が染みていき、そしてザァザァと降り出した。
あと少しの距離だった為あまり濡れなかった。身の回りを確認し、コンコンと階段を上る。何処かから誰かが騒いでいる声が聞こえてきて、なんて近所迷惑なんだと眉を寄せながら階段を登りきると、声は大きくなる。そして、その声に聞き覚えがあることに沙夜はハッと気が付いた。

ドクドクと鳴る心臓の音に雨の音が重なり、嫌な予感を増長させる。然し家に帰らないわけにもいかない、と足を進めるも、その度に声は大きくなっていく。
角部屋である自身の家の前で吠えるその男の姿に、沙夜は嗚呼、と悲痛そうに声を漏らした。


運悪く雨音で掻き消えなかったその声を聞き、吠えていた男__叔父の吊り上がった目が此方を向いた。


「沙夜!お前、なんだこの男は!!」
「近所迷惑だと云っているだろう…君の耳に穴は空いているのかね?」
「この厄病神!お前の面倒なんか見ていた所為でッ…!」

お袋が死んだと。叔父はそのまま離縁を突きつけて来た。

「お前はいつもそうだ。生まれ落ちた時に母親を殺し、海で溺れて父親を殺し、気の毒に思ったお前を面倒見たばかりにお袋まで」

「…君、彼女が怯えているだろう」

鴎外は感情の読めない声で、男を黙らせるために手を伸ばしたがそれは空をきった。叔父は沙夜へと大きく足を伸ばして近づいていたのだ。固まった沙夜は胸倉を捕まれその制服に皺ができる。
獣のような叔父の目を、呆然と見る。

「今度は俺だろう、俺を殺す積りだろう………巫山戯るな、そんなことさせるか」

死ぬべきなのはお前だ、と男は沙夜を突き飛ばした。アパートの通路に体を打ち付けた沙夜はそのままの体制で起き上がる気力も無いのか叔父の暴言罵倒を浴びる。無言の沙夜に叔父は金切り声で聞いているのかと一等大きく怒鳴り、再び彼女の胸倉を掴んでガツンとその頬を殴った。



「……ごめん、なさい」

ごめんなさいと一言残して、沙夜は背中を向けて逃げるように走り階段を駆け下りていった。

雨の中へ沙夜の姿が消えると、叔父は漸くその喉を休めた。
鴎外は紅い瞳を細めて手元の録音を切った。