あの方舟の戦いから、わたしたちエクソシストはホームへ帰還するも、大怪我を負った者ばかりなせいで医療班の元へ強制送還され、治療を受けていた。
 男性たちの病室では、まだ目覚めないクロウリーの空腹を知らせるお腹の音が響き渡り、なんとも賑やかな様子らしい。
 わたしたち女性エクソシストの病室は穏やかな時間が流れていたけれど、あの戦いで疲れすぎたせいなのか、わたしは毎日寝付けずにいた。
 人間、疲れがピークを過ぎると逆に眠れなくなるなんて、まったくもって不便なものだ。

 ということで、今日も眠気は来ても眠ることはできないまま夜を迎えたわけだが、毎日ごそごそと寝返りを打っているのをリナリーとミランダさんにも気付かれて心配されてしまっているわたしは、少し身体をほぐすために夜の散歩に出かけることにした。
 本当は病室から出てはならないのだけれども、さすがに歩けるほどには回復したので、リハビリがてらやってしまおうかという建前と、やってはいけないと言われるとやりたくなっちゃう精神が働いてしまうという本音を抱いていた。要するに「悪い子」というわけだ。

 リナリーとミランダさんが眠ったのを確認し、物音を立てないようにベッドから出ると、夜の見回りを行っている看護婦さんに出会さないよう、そっと病室を出た。
 夜、とはいいつつも、黒の教団本部内は夜中もお仕事をされている方ばかりだから、そんなに自由には歩けない。バレたくはないし。
 どこに向かおうかな、と考えていた矢先、わたしはまたいけないことを考えてしまった。
 とある場所へと向かうためにうきうきとしつつも、ばれないように周囲を窺いながら、わたしは夜のホームを歩き始めた。

***

 研究室までやってくると、思っていたよりも科学班の皆さんは寝落ちしてしまっていた。かなり疲れが溜まっているようだ。まあ……そりゃこんな現実味のないものがいきなり現れたらそうなるか。
 けれど、働いている方もいらっしゃるので、気付かれないように用心深く「それ」に近づき、中へと急いで忍び込む。
 すると、目の前には白い建物が並んでいた。

「わ、やっぱ綺麗だな〜」

 あの戦いの時にぼろぼろになっていた街並みは、綺麗に元通りになっている。
 ひとりの少年の手によって修復されたという方舟は、青と白の景色で彩られており、平穏そのものだった。
 これでどこへでもひとっとびになるかもしれない、とリーバーさんから聞いた時には胸が躍った。
 この白の建物のドアを開ければ、任務の目的地へすぐに辿り着けるなんて、夢みたいだ。ためしに一つのドアを開けてみたら、暗闇が広がっていたのですぐ閉じたけど。

 ゆっくりと歩いていると、ふわ、と一つあくびが出た。
 眠たいくせに眠れないなんて、本当に意味がわからない。
 おかげでわたしの目の下は、ミランダさんよりも真っ黒けになりつつあり、誰かに会うたびに大丈夫なのかと声をかけられてしまっている。お花を摘みに行こうかと病室から出て、まさかの神田と出会したときに、彼さえも「なんだよその隈」とぎょっとされてしまったレベルだ。
 わたしだって改善したいのだけれど、身体が眠らせてくれないのだからしょうがない。

 はー、とため息をつき、一旦足を止めると、何かが聞こえたような気がした。
 はて、と耳を澄ませてみると、どこからかピアノの音が聞こえてくる。
 その音に釣られるように近づいていくと、ピアノはどこかで聞いたことのある曲を奏でているのだとわかった。

「この曲って……」

 うーんと頭を悩ませていると、急に脳裏に、ぼろぼろだった方舟の中で聞こえてきたピアノの旋律が思い出された。

「そうだ、あの時聞こえてきた……」

 考えながら歩いていたら、いつの間にかとあるドアの前に立っていた。
 このドアの向こうから、ピアノの音が聞こえてくる。
 さらに、遠くにいたときには気がつかなかった、誰かの歌声も、いっしょに聞こえることに気がついた。

 ——そして 坊やは 眠りについた

「……こもりうた?」

 ドアを少しだけ開けて、垣間見るように中を覗くと、そこには大きなソファーと一脚の椅子、そして白いアップライトピアノがあった。
 そして、そのピアノの前には、白銀の髪を持つエクソシストの少年——アレン・ウォーカーが座っていた。

 そうか。ここは、転送されかけた方舟がまた蘇ったときにやってきた部屋だ。
 あのときはクロス元帥がアレンにドアを出せと言ったら本当にドアが出てきて、開いたらこの部屋に繋がっていた。
 そこには複雑そうな表情をしたアレンとティムがいたことを思い出す。

 優しいピアノの音と、柔らかい彼の声が響くその部屋の中には入らず、わたしはドアの隙間からその子守唄を聞いていた。

 きっと、母親が我が子を思って歌っている唄なのだろう。優しい気持ちが込み上げてくるような歌詞だ。

「……息衝く、灰の中の、炎」

 思わず聞こえてきた歌詞を復唱してしまう。
 しかも、何故だかときどき目の前が暗くなったりしている。身体がぽやぽやしてきて、なんだかこんな感覚は久しぶりだった。

 ——ワタシ は 祈り続ける

「……いのり、つづける」

 どうか この子 に

「この、子に」

 愛を

 そこまで唄が聞こえると、ふ、と目の前が完全に暗くなり、どこかへ落ちていくような気がした。

***

「……ん、」
「あ、起きました?」

 目を開けると、ぼやーっとした視界に誰かがいるのがわかった。
 なんか白くて……ちっちゃい金色……眩しい配色だな。
 そのままゆっくり身を起こすと、ばさ、と何かが落ちた音がした。
 はっきりしない頭でその音の方を向くと、誰かが音を立てた何かを拾って、わたしの肩にかけてくれた。

「へ……」
「ああ、まだ寝ぼけてますね」

 「よく寝てましたもんね」と笑う誰かの声が、自然と耳に入ってくる。

「でも、もうそろそろ戻らないと」

 誰かがわたしの腕をぽんぽんと軽く叩いてくれたおかげで、少し頭がはっきりしてきた。
 目の前にいるのは、

「……あれん?」
「はい、アレンです。おはよう、なまえ」
「お、はよう……?」

 どうやら目の前にいるのはアレンのようだった。
 ここ数日は病室に引きこもりすぎて一度も会わなかった彼が、頭の上にお馴染みのティムを乗せて、ここにいる。

「なんで、アレンがいるの?」
「それは僕のセリフかな」
「は……?」
「なんでなまえがここにいるの?」

 質問したのに質問で返された。
 目を擦ろうとすると、「駄目ですよ」と手を止められた。

「目、腫れちゃいます」
「……ねむい」
「そうですね。そんな顔してる」

 またあはは、と笑う声が聞こえた。

「で、もう一度聞くけど、なんでなまえはここにいるの?」
「……え、っと」
「うん」

 わたしが今いるところはソファーの上のようで、わたしが起き上がったことによってできた隙間にアレンは座った。よく見ると、まだ彼の身体には包帯が巻かれていた。

「帰ってきてから、眠れなくて……」
「そうだったんだ?」
「うん……疲れすぎて……なんか逆に眠れなくなっちゃって……」
「あー……」
「だから、散歩に行こうかなって……でも本部内を歩き回ってたら……怒られそうだったから……だからここに……」

 「ここに」?
 ここって、どこだ?

 だんだんと頭がクリアになってくる。
 前よりも回転が速くなった気がした。

「……まって、ここって」
「わかりました?」
「もしかして」
「もしかして?」
「……方舟の、中?」

 わたしが恐る恐る言うと、アレンはにこ、と笑って「正解」と答えてくれた。

「え、ちょっとまって……」

 ここが方舟の中だと言うなら、わたしはここで何をしていたのだろう。
 たしか、さっきわたしは目が覚めたらソファーの上にいて……目が覚めたら?

「わたし……寝てた……?」

 アレンの方を向くと、それはそれは綺麗な笑顔で応えてくれた。

「びっくりしましたよ。いきなり外からガタンッて物音がして。ドアを開けて確認したら、きみ、そこで熟睡してるんですもん」

 「あまりにもびくともしないから、死んでるんじゃないかと思っちゃいましたよ」と眉を八の字にして、アレンは笑う。
 その答えをもらい、わたしの顔はみるみる熱くなっていった。

「は、はずかし……!申し訳ない……」
「いえいえ。でも、眠れてよかったですね。顔色もさっきよりいいですし」
「そ、そう?」
「うん」

 久しぶりに眠れたのはいいことだけど、まさかこんなところで寝てしまうとは。寝る場所くらいちゃんと選びなさいよ自分、と恨めしい思いを抱いてしまった。

「え、どれくらい寝てた……?」
「んー……2、3時間、かな?」
「結構寝てる……!!」
「でも帰ってきてからずっと眠れてなかったんでしょ?それだけで足ります?」
「この状況で完全に目が覚めた……」
「ええ?それ大丈夫なの?」
「わかんないけど……でも頭がすっきりした」

 久しぶりによく眠れたおかげか、2、3時間だけでも身体が軽くなった気がした。
 さらに、気持ちが落ち着いてくると、また眠気がじわじわとわたしの瞼を閉じようとしてくる。

「ふあ……ごめん、やっぱり眠いや」
「ですよね。戻りましょうか」
「ん……あ、でも」
「どうかしました?」

 立ち上がろうとするアレンを引き止めるように声をかけると、それに応じてアレンはソファーに座り直した。

「あの子守唄……方舟を元通りにしたときに流れてた曲だよね」

 そう聞くと、アレンの瞳がまんまるになった。
 そんなに開くと溢れ落ちてしまいそうだ。

「……うん。あの唄を頭の中で歌うと、方舟が操作できるみたい」
「へっ、唄で?」
「そう、唄で。……びっくりですよね」

 そう言うと、アレンはわたしから視線を外して、前を向く。白い壁の向こう側、遥か向こうを見ているようだった。

「優しい唄だね」
「……え」
「ずっとさ、眠れなかったのに、ちょっと聞いただけでころっと寝ちゃったもんね、わたし。安心したんだと思うんだ」

 わたしもアレンと同じ方向を向いてみた。
 彼が何を見ているのか、わたしにはわからないけれど、でも、同じものを見てみたいと思ったから。

「『どうかこの子に愛を』か……素敵な歌詞だねえ」
「……僕じゃない」

 声の方へ顔を向けると、アレンはまだ遠くを見ていた。

「こんな唄、今まで聞いたこともなかったし、ましてや歌ってもらったこともない」
「……アレン?」
「知らないのに、なんで」

 見たことのないような表情をして、アレンは呟く。
 自分の記憶にはないのに知っている唄。
 どうやって知ったのか、誰から教えてもらったのか。
 それが意味をするものとは、わたしにはやっぱりわからない。けれど、

「もしかしたら、きみの中に知らないうちに混ざったのかもね」
「……混ざる?」
「そう。知らない風景なのに懐かしく感じたりすることってあるでしょ?自分は憶えていないけど、すごく小さいときにそこにいたんじゃないかとかさ。それを懐かしく感じる原因が知らないうちに混ざったんだとわたしは思うんだよね」

 アレンはわたしのほうを向く。銀色と目が合う。

「意図して憶えようとしないから、混ざる。だから、きっとこの唄がいつのまにかアレンに混ざっちゃったんだね」

 わからないなりにも、アレンを元気付けたかった。
 どんな慰みでも、彼にあげたいと思った。
 今、この瞬間だけでも、悩まなくてもいいように。

「素敵な唄だよ」
「……うん」
「また歌ってよ」
「そうだね……気が向いたらね」
「ええ〜?」

 わたしの八の字になった眉を見て、アレンは笑う。
 そう、笑っててよ。
 きみにはその表情が一番似合うのだから。

「——そろそろ戻りましょうか」

 アレンは立ち上がって、わたしに手を差し伸べた。
 その口元は、まだ微笑みを讃えている。
 それにつられてわたしも笑って手を取る。

「見つからないように帰らないとね」
「見つかったらいっしょに叱られてください」
「えー、しょうがないなあ」
「何がしょうがないんですか。きみも共犯でしょ」

 青と白のコントラストの中を、笑いながらわたしたちは歩く。

 ねえ、アレン。
 きみはアレンだよ。
 わたしたちといっしょに戦ってきた、人にもAKUMAにも、誰にでも優しいアレン・ウォーカーという人間だよ。
 どんなことがあっても、その事実は変わらない。

 だから、安心して。
 きみはきみなのだから。

「——なまえ?」
「……ん?」
「いきなり立ち止まってどうかしました?」
「ごめん、なんでもないよ」
「もしかして歩きながら寝ちゃったとか?」
「さすがにそれはないけど……でも立ったまま寝れそう」
「じゃあ早くベッドに帰らないと」
「そうだね。お互いにね」

 きみが歩く道を、どうか見失わないで。

○○○

The hand that rocks the cradle rules the world.




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