世界滅亡の筋書きを描く千年伯爵に対抗するためにヴァチカンによって組織された黒の教団。そのパトロンである我が家には、代々伝わる宝剣があった。
その宝剣は、千年伯爵が作り出す「AKUMA」を破壊できる神の結晶——イノセンスによって作り出されたものだった。
AKUMAの脅威より、黒の教団直属の聖職者であるエクソシストに救われた我が家は、感謝の印としてその宝剣を黒の教団に譲渡し、パトロンとなった。
宝剣は適合者が現れるまで保護されることとなり、我が家に新たな命が生まれるたびに、イノセンスを保護するエクソシストであるヘブラスカの元へと連れて行かれ、その宝剣の適合者かどうかを調べられるという慣習ができた。かつて魔物の脅威より救った英雄の一族と伝わる我が家のものだということから、その血を継ぐ者をイノセンスは選ぶのではないかと中央庁が推測したためだ。
そうやって辛抱強く同じことを何十年も繰り返し続け、ある日、ようやく適合者は現れる。
それが、わたしだった。
「こんにちは。——あら、アレンくん!」
「あ、なまえ!」
食堂のカウンターで頭に三角巾を着けて出迎えてくれたのは、同僚であるアレン・ウォーカーだった。
彼は、師であり、現在行方、そして生死ともに不明となっているクロス・マリアン元帥の借金を肩代わりさせられているため、時折食堂でアルバイトをしてその資金を稼いでいる。
「帰ってきたんだ? おかえり!」
「ただいま。先ほど帰ってまいりました。報告書も提出したのでランチでもと思いまして。……アレンくんがいるということは——ですね?」
厨房の中を盗み見るようにきょろきょろと目を動かすと、思った通りの人物が奥で作業をしていた。そんなわたしの様子を見たアレンくんは感心したように息を漏らす。
「さすがですね。今日も作ってますよ」
「わ! やりました、ご褒美です!」
思わず手を叩いて喜んでいると、「あなたに差し上げると決まっているわけではありませんが?」と、少し呆れた声が奥から聞こえてきた。
「今日はシフォンケーキですか、リンク監査官!」
奥にいる人物に声が届くよう、少しだけ声を張って問いかけると、当の本人は少し肩をすくめて、真ん中に穴が空いている型に生地をとろりと流し込み始める。
「嬉しいです〜! ゆっくり食事をしながらデザートを待ってますね!」
「勝手に話を進めないでいただきたい」
「楽しみですねえ! あ、アレンくん、ジェリーさんにカルボナーラを、とお伝えください」
「かしこまりました〜! 席に座って待っててよ」
「ちょっと。キミたち、私の話を聞いてますか」
聞こえてきた声に適当に返すと、わたしは食堂の席へと向かう。
引っ越す以前のホームとは違った雰囲気だが、それでもここは賑やかで、戦場での記憶を薄れさせてくれる。
周囲を見渡すと、今日はリナリーもいないし、神田やラビ、ブックマンもいない。他のエクソシストたちを探してみてもいないようだ。
みんな任務なのかしら、とぼーっと考えていると、ジェリーさんの「カルボナーラおまちどぉん!」という声が聞こえたので、取りに行き、元の席に戻って食事を始める。
あの様子だと、丁度焼き始めたくらいだろう。
シフォンケーキってどのくらいで焼き上がるのかな、とわくわくしながら、フォークにパスタをゆっくりと巻きつかせた。
アレン・ウォーカーはノアの一族かもしれない、という懸念から、中央庁より監視がつくことになったのが、ついこの間のことのように思える。
そうしてノアからの襲撃によって本部を引っ越しして早々、彼は、自身が14番目のノアであるということをクロス元帥より知らされた。
わたしはアレンくんとはずっといっしょに戦ってきたので信じてはいるものの、教団内にはそうはいかなかった人もいて、さらには人事もいろいろと変わったこともあってか、新たなホーム内は少しピリついているような気がした。
そんな中でも、わたしには楽しみなことがあった。
それは、アレンくんの監視役として配属された監査官——ハワード・リンク氏が作るお菓子だ。
ある日、アルバイトをしていたアレンくんと話していると、話の流れでリンク監査官のお菓子を食べる機会を頂戴した。
初めて食べた監査官のシフォンケーキのふわふわさ、絶妙な甘さといったら、それはもう口の中に楽園が広がるようだった。
それなりに高貴な家に生まれてしまったわたしでも味わったことのない美味しさで、感動のあまり泣きながら監査官の手を握り、ブンブンと振り回しながらその味の素晴らしさを語ったほどだ。若干引かれたのも覚えている。
あの日からわたしは監査官のお菓子の大ファンとなり、カウンターでアレン君の姿を見掛ければ監査官のお菓子のおこぼれをいただくようになった。
それにしても、今日はシフォンケーキかあ、と初めて食べたあの味を、食後に目を閉じて思い出す。
任務先で時間のある時に、どのお店でシフォンケーキを食べてもあの味には到底及ばなかったなあ、としみじみしていると、コト、という音が耳に入ってきた。
目を開いてみると、カルボナーラが空になったお皿の隣に、綺麗に盛り付けられたシフォンケーキとクリームが乗った小皿が置かれていた。
「まったく。いつも勝手に食べる方に話を持っていくんですから」
そう言って、わたしの前の席に監査官は座る。出会ったころよりも伸びた、綺麗に整えられた金色の前髪が揺れる。
「わー! ありがとうございます! 良い匂い……あ、もしかして紅茶の茶葉が入っていませんか!?」
「おっしゃる通りですよ。前と同じものだと芸が無いでしょう」
「え? もしかして、わたしが前にもシフォンケーキをいただいたのを覚えててくれたのですか?」
「私が作ってるんですから当たり前でしょう」
なんと。まさか覚えていてくれるとは。
目を丸くして監査官を見ると、「何ですかその目は」と姿勢正しくも顔を顰める。
「やだもう〜〜! もっとファンになってしまいました〜〜!」
「ファン?」
「わたしはパティスリー・リンクの大ファンですので!」
思わず両手を頬に当てて声を上げると、「はあ?」と監査官はさらに眉間の皺を濃くさせてわたしを凝視する。
「勝手に名前をつけないでいただけますか、レディ・なまえ」
「え? だってアレンくんが『いつかリンクと店を経営するんです』って意気込んでましたよ?」
「ウォーカーが……」
「いつだって我が家から投資させていただきますよ、パティシエさん」
はあ、と額に手を当てて、監査官はため息を吐く。
それを横目に、わたしはフォークを手に取ってシフォンケーキを口に入れやすいように小さく切り、ふわふわの生地にクリームに付けると、フォークで軽く刺して口に運んだ。
口に入れた瞬間、ほどよい生地とクリームの甘さがうまく絡み合い、そこに鼻を突き抜けるように紅茶の香りが走る。
「ん〜〜! 美味しい! 監査官のお菓子が食べられるというだけでエクソシストになった甲斐がありました!」
「大袈裟な」
「そんなことありませんよ! ……あ、そういえば、アレンくんから離れていても大丈夫なのですか?」
「こちらからでも監視することはできますので、お気になさらず」
「あ、そうなのですか」
今日はぴったりと張り付いているわけじゃないのかしら、と不思議に思っていたが、アレンくんの監視を始めてそれなりに時が経っているので、監査官も自らのやり方を見つけてきたのかもしれない。仕事なんて上手に手を抜かないと、参ってしまうものだし。
「それにしても、今日はすぐに立ち去らないのですね?」
そう聞くと、机の上で指を組んでわたしの至福の時を眺めている監査官の少し変わった形の片眉が、ぴくっと少しだけ上がる。
いつもなら、わたしにお菓子を提供してくれたらすぐにアレンくんの側へと引き返していた。
なので、不思議に思っているのだが……一体どうしたのだろうか。
「……たまには良いでしょう」
視線を斜め下に向けながら、監査官はぼそ、と呟いた。
「たまには良いんですか?」
「ええ。たまにはあなたが美味しそうに食べている姿を見ていてもいいんじゃないかと思いまして」
「わたしを見て、さらにはアレンくんの監視もできるんですか? さすが中央庁が派遣した監査官ですね!」
「それは嫌味ですか」
わたしの一言で、監査官は何か思い通りに行かなかったかのように眉間に皺を寄せる。嫌味を言ったつもりは滅法ない。
「嫌味なんかじゃないです。二つのことを同時にできるなんてさすがだと思っただけですわ」
紅茶の香りがふわ、と広がる中、わたしも変な風に解釈を取られてしまったことに不満を伝える。
それでも監査官の眉間の皺は伸びない。
「それにしても、本当に美味しいです……! 監査官のお菓子のために、わたし、生きてるかもしれません」
「は」
刻まれた眉間の皺のことを、すっぱりと気にするのをやめてそう言うと、監査官は石になってしまったかのように、姿勢の良いまま固まってしまった。その姿勢の良さはまるで彫刻のようだ。
「監査官? どうなされました?」
少し手を振ってみるものの、監査官は目を見開いたまま何も反応してくれない。何かまずいことを、わたしは言ってしまったのだろうか。
「もしかしてシフォンケーキを全部食べてはいけませんでしたか? クリームまで残さず食べてしまったのですが……」
添えられていたミントでさえ食べてしまって、すっからかんになったお皿を監査官に見えるように持つと、そこで監査官はハッと気がついたようだった。
「……ミントまで食べなくても」
「ふふ、監査官に頂いたものなので全部食べてしまいました」
わたしの一言で、監査官はまたため息を吐く。机に肘をついて、手で額を押さえながら俯いてしまった。
実家では、料理人に美味しかったと空の皿を見せたら、喜んでいたのに。同じように伝えたのに監査官は、料理人とは違う反応を見せる。
本当に美味しいのだから、それを伝えたいのに、どう言えば監査官に伝わるのだろうか。
というより、その姿勢で本当にアレンくんを監視できているのだろうか。
別の意味で心配になってきてしまったわたしは、「大丈夫ですか?」とそろそろと監査官の方へと手を伸ばした。
「……レディ・なまえ」
「はい?」
「言葉には気をつけられたほうが良いかと」
「え? わたし、無礼でしたか……?」
「いえ、まったく無礼ではありませんが……勘違いをされますよ」
俯いていた顔を上げて、監査官は恨めしそうにわたしを見つめる。どうしてそんな目で見られるのか、理由がわからない。
「勘違い?」
「私の菓子のためにエクソシストになれてよかっただの、私の菓子のために生きてるだの……」
「え? 本心だからお伝えしたのですが……」
「他の男だったら100%勘違いされますから」
「だから勘違いって何を」
「わからないならこの話はここまでです」
空になったお皿二枚とフォーク二本を持って、監査官は椅子から立ち上がる。
「とにかく、そのように本心を伝えるのは私だけに留めておくように」
「へ? なんで監査官にそんなことを決められないといけないのです?」
「勘違いされてしまうからです」
「だからその勘違いはどういう意味なんですか?」
「この話はここまでと言ったでしょう」
何が何だかさっぱりわからない。
何故本心を伝えてはならないのか。
素直なことは良いことだと、周りに教えられて育ったのに。
まさか長年培ってきた常識が、ここで覆されるとは思いにもよらなかった。
「……申し訳ありませんが、監査官の考えてることがわからないです」
「わからなくとも結構です。ところで、シフォンケーキがまだ余っているのですが、食べられますか?」
「食べます!!」
監査官からの問いに秒で答えてしまったわたしは、自分にびっくりしつつも、監査官の「でしょうね」と微笑んだ表情にもびっくりした。
笑った顔を、見たことなかったから。
席を離れて厨房へと帰っていく監査官の背中を、複雑な心境で見守っていたが、もう一度あのシフォンケーキを食べられると思うと、そんなことは忘れて、もうあの柔らかな甘さと紅茶の香りで頭の中がいっぱいになった。
——イノセンスに選ばれたのは、果たして僥倖だったのか、それとも災難だったのか。
わたしにはわからないけれど、でも、選ばれたことで出会えた人たちがいる。
何より、監査官に出会えて、彼の作るお菓子にも出会えた。
時折わからないことも起こってくるけれど、でもわたしは、お菓子を介したこの交流を気に入っている。
だから、周りから「有難い」だの、「可哀想」だの言われようが、まったく構わないのだ。
早く来ないかな、と彼とお菓子を待ち侘びるこの時間は、イノセンスに選ばれたからこそ持てるものなのだから。
ふと気がつくと、わたしの目の前には水の入ったコップしかなく、監査官が片付けてくれたと理解したその瞬間に、彼が小皿を持ってこちらにやってくるのが目に入った。
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