「お礼を言わなくちゃなあ」

 夏の盛り、ひぐらしが鳴いている。
 その中でちりん、と響く風鈴。

 障子を開けているため、時折入ってくる夕暮れの涼しい風が、外の匂いを連れてわたしたちを撫でる。

 畳の上に敷かれた布団。
 その上で上半身を起こしながら、夕日に彩られた景色を眺めているのは、わたしと長年寄り添った夫だ。
 婚約者が亡くなり、悲しみに暮れていたわたしに、ずっと寄り添ってくれていた。

「誰にお礼を言うんです?」

 冷たいお茶を準備しながら、わたしは聞いた。

 夫は、もう長くはない。
 日に日に痩せ細っていく身体は、いつその命を絶やしてしまうのかを曖昧にさせてくるため、すぐなのか、はたまたもっと先なのかがわからなくなり、不安になる。

 綺麗な赤色と細かい模様で彩られた切子グラスに氷とお茶を入れて、はい、と手渡すと、夫は「ありがとう」と言って受け取る。

「……先に言っておくけれど」
「弱気なことはおっしゃらないでくださいね」
「弱気なこと?」
「私が死んだらどうたらこうたら、みたいなことですよ」

 少し拗ねながらそう言うと、夫はあはは、と笑った。

「それなら、いつ言わせてくれるんだい?」
「ずっとおっしゃらないでください。せめてわたしが逝くまでは」
「そんな後生な」

 そうは言いつつも、夫は楽しげに笑う。
 ずっと笑っているせいで、お茶の入ったグラスは、結露が出来始めている。

「もう。早く飲んでくださらないから」

 そう言ってグラスを引き取ると、割烹着の裾で結露を拭う。そうして夫にまた手渡すと、「ありがとう」と微笑んだ。

 いつでもこうやって、穏やかにわたしと接してくれた。
 ずっと婚約者のことが忘れられないわたしを、優しく支えてくれた。
 感謝しても感謝しても、全然返しきれない。
 わたしはこの人と一緒になれて、大層幸せだったのだ。

「……私は待ってはいないからね」
「はい?」

 思わずぽかんと口を開けてしまった。
 突然投げかけられた言葉の意味が、理解できなかった。

「君は私と一緒になってくれた。一緒に歩いてきてくれた。子もたくさん産んでくれた。一緒に育ててくれた。私を幸せにしてくれた。……この世の幸せだけで、私は十分なんだ」

 柔らかく微笑みながら、夫はわたしを見つめる。
 結婚したころと比べると、真っ白になってしまった髪。それはわたしも同じだ。

「先に行くけれど、私を追いかけてきてはくれるなよ」
「……そんなことはおっしゃらないでくださいと先程伝えましたのに」

 突然、何を言い出すのか。
 彼はわたしと一緒になれて幸せなのだと伝えてくれたのに、追いかけてきてはいけないと言う。

「仮に貴方が先に行ってしまったとして、もしわたしがそちらへ行った際に、四十九日間も迷ってしまってあの世へ辿り着けなかったら、それでも探しにも来てくれないのですか?」
「それは大丈夫だよ」
「何の責任があってそんなことが言えるのです?」
「君は辿り着けるよ。彼方で先に待っているから、其処でまた会おう」
「なんて人なのかしら」

 年甲斐もなく頬を膨らませて怒ると、また夫はあはは、と笑い出す。

「君が一緒にいてくれたこの世界は、とても綺麗だった。本当にありがとう」

 夫の手が、わたしの手に触れる。

「君と一緒になれたことに、私はとても感謝しているんだ。だから、あの人にもお礼を伝えにいかないといけない」
「ですから、一体それは誰なんです?」

 夫はただ笑うばかりで、その質問には答えてくれなかった。
 暑さが少し和らいだ、夏の夕暮れだった。

***

 あの日から一週間後、夫は旅立った。
 あの世への四十九日間の道中を迷わないように、丁寧に、しっかりと、生きているわたしたちは供養を行った。
 ちゃんと辿り着けたのかしら、と思いつつも、わたしが行った時は待っていてくれないのだったかしら、とそのつれなさに笑った。

 そうしてわたしも、同じ場所へ向かう四十九日が今から始まる。

 目を開けると、そこは真っ暗だった。
 周りを見渡し、あの人がいないのを確認し、あらまあ本当だったわ、とくすくす笑う。

 もう少し周囲を見渡してみると、遠くで明るい炎のようなものがちらちらと揺れているのが見えた。
 それが目印なのかしら、と少しずつ近づいていくと、その炎が人であることがわかってきた。
 そうしてわたしは目を見開く。

「……嘘」

 そう呟くと、わたしの声に気づいたのか、炎のように見えていた人がわたしに振り返った。

「−−なまえ!」

 わたしの姿を目に入れると、その人はにっこりと笑った。
 長らく聞いていなかった、声。
 人は人を忘れる時、声から忘れていくと聞いたことがあったが、わたしには忘れられなかった、そのよく通る心地の良い、低い声。

 思わず駆け出してしまった。

「ッおっ、と!いきなり抱きつかれると、流石にびっくりするぞ」
「……だって!」

 いつの間にか、わたしの姿は大切な人を亡くしたときと同じ歳のころになっていた。
 そう、貴方を亡くしてしまったあの日の姿に。

「……君の夫君から頼まれてな。迎えに来た」
「なんですか、それっ……」

 彼の黒い隊服に顔を埋めて、わたしはしがみつく。そんなわたしの背中を、ぽんぽんと宥めてくれる。

 だからあの時、待っていないからだなんて薄情なことを、夫は言ったのか。

「ずるいです……!あの人も、貴方も、わたしに内緒にして!」
「それは悪かった。これから道案内をするから、どうか許してはくれないだろうか」

 顔を離して、彼の顔を見つめる。
 燃えるような髪、鋭い目。
 その容姿と同じく、燃える熱き心を持つ人。
 人々を守るために、鬼殺の剣士となった人。
 修行を重ねて、炎柱という最強の称号を得た人。
 未来のために後輩を庇い、最期まで信念を貫いた人。
 わたしと結婚する前に、この世を去ってしまった人。
 わたしの、だいすきな人。

「……幸福の中で、人生を全うしてくれたんだな」
「わかるのですか?」
「ずっと見ていたからな。それに、顔を見ればわかる」

 そっと彼の手がわたしの頬に触れる。

「君が俺と婚約したとき、もしもの時は君を頼むと夫君に頼んでいたんだ」
「え……?」

 生きている間は知らなかった事実。
 確かにあの人は、わたしが悲しみに暮れている時にずっとそばにいて、支えてくれた。

 「彼に再度お礼を伝えねばな」と、彼は柔らかく微笑む。
 わたしの頬を滑る手のひらは、あの日のままに硬く、温かい。
 この手が大好きだった。

「けれど、君からも直接聞きたい。俺が死んだ後、どのように生きてきたのかを」
「……ふふ、じゃあ歩きながらお話しします。でも、四十九日じゃ、きっと足りませんよ?」
「では、向こうに辿り着いてからも聞かせてくれ」
「かしこまりました。覚悟しておいてくださいね」

 自然と手を繋ぐ。
 温かいその手に、わたしは導かれる。
 真っ暗でも構わない。道は彼が照らしてくれる。

「……杏寿郎さん」
「どうした、なまえ」
「だいすきですよ」

 そう伝えると、杏寿郎さんは花が綻ぶように笑ってくれた。

 たくさん、たくさん貴方に話したいことがあるの。
 四十九日はもちろん、きっと彼方へ辿り着いてからも話が尽きることはないでしょう。
 だから、一緒に生まれ変わるその日まで、わたしの話を辛抱強く聞いてくださいね。
 約束ですよ。

 貴方と出会えたこと、さよならをしたこと、違う幸せを手にしたこと。
 この人生に悔いはありません。
 最期を貴方と過ごせることに、すべての存在に感謝いたします。

 ありがとう。わたしは幸せでした。




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