アンドゥトロワで奈落に堕ちた


※全体的に暗く死の描写があります。また甘くもありません。ご注意ください。





 何の変哲もない筈だった自分の人生に変化が訪れたとするならば、それはあの日だったのだろう。


 私は、とある村に住んでいた。
 村は山奥にある小さな集落で、人口は少なく、栄えている近くの港町に比べると整備された道や物流も少ないなど不便な面がある場所で、外からやってくる人間は物好きな商人か迷い込んだ旅人くらいという、本当に辺境の村だったと思う。
 しかしその分村人間の距離は近く、皆優しい人柄をしていていることもあって穏やかな空気が流れている場所だった。父と母と私の三人はそこで一つの家に暮らし、畑仕事で収穫した農作物を近くの港町へ売りに行くなどして、生計を立てていたのである。

 隣の家には唯一の同年代の女の子が一人いて、私はその女の子と共に過ごすことが多かった。
 所謂幼馴染と言うやつだ。朝は一緒に川へ水を汲みに行き、昼は野原を駆け回ったり日向ぼっこをする。おやつの時間になったら村の小さな教会に行って、神様にお祈りをする。夕方になったら家事の手伝いの為に家に戻って、夜は仕事を終えた父を迎え家族で夕食を取る。そうしたら後はお風呂に入って眠るだけ。温まった体をベッドに滑り込ませ、訪れる明日に想いを馳せながら微睡みに落ちていく。そうして清々しい朝を迎えるのだ。

 私達と幼馴染はいつだって一緒だった。嬉しい時も、悲しい時も、怒られる時も、ずっとずっと一緒だった。村の人達は数少ない子供である私達を温かく見守ってくれていたし、私達は外の世界を知らずとも、何の不幸も感じず健やかに暮らしていたのである。
 外の人間はこの村の生活を聞いて閉鎖的だと考えるかもしれないが、私は、そんな自分の村が大好きだった。


「おーい! ナマエ!」


 野に咲く花がそよいでいるように、軽やかで綺麗な声。……懐かしい響きだ。目を閉じればいつだって、彼女の姿をありありと思い出せる。長い金色の髪を揺らし、世界を見つめる瞳は空色に輝いていて、その姿はまるで妖精のよう。
 村の入り口から、彼女は眩しい笑顔を浮かべながら手を振ってきた。私はそれに負けないよう、ぶんぶんと勢いよく手を振り返したのだ。


 ……無邪気に村を駆け回っていた子供時代から五年、十年と月日が経つと、私達は大人と呼べる存在になった。村には私達より年上の人間しかいないから未だに子供扱いをされることが多いが、大人は大人。農作物の収穫や港町への行商など、仕事に従事することが多くなっていった。
 成長するにつれて、今までの日常であった幼馴染との時間は勿論減ったが、不思議と寂しいと思うことはなかった。毎日姿を見ることは出来ていたし、農作物の売上を競い合ったりなどして互いを高めあっていたからである。大人になったって何も変わらない。私達は毎日を楽しく穏やかに過ごしていたのだ。


 でも──そうだ、その頃だっただろうか。
 行商へと赴いた港町ポルトリンクで、どこかの城が茨で呪われて滅んでしまったらしいという噂を聞いた。
 その時は城の名前までは分からなかったから、そんな怖いこともあるんだなあと、呑気に思ったのだ。

 それから……そう、二週間程経った頃。村で畑仕事をしていると、暗い顔をして商品の手入れをしている商人からまた噂を聞くことになった。今度は何やら、このリーザス領を治める領主の息子が何者かに殺されてしまったらしい。領主のアルバート家が住んでいるリーザス村では衝撃が広がっているそうだ。
 住民代表として村長がお葬式に参ることになった。帰ってくると、事件を重く受け止めた村長からは、行商へ行く際には十分気を付けるようにと言われた。

 その次の日、念の為力持ちの村人に護衛をしてもらってポルトリンクへ向かうと、港町はいつもと様子が違っていた。
 何やら杖を持った奇妙な格好の人が、徒歩で海を渡って行ったらしい。それはそれはおぞましい雰囲気だったようで、街行く人々は皆、怖い道化師が出たと騒ぎ立てているようだった。もしかして、昨日聞いた殺人犯だろうか。そんな奴が近くに居ただなんて恐ろしくて身震いしてしまう。
 ……でも、少し安心した。違う大陸へと行ってしまったなら、もうこの地方には居ないのだ。殺人事件があったことは悲しいし捕まっていないのは気がかりだけど、きっと違う大陸ですぐに捕まるだろう。気にする必要はないと割り切って、私は品出しの準備に取り掛かった。

 またその次の日。商品を持ってポルトリンクへ向かうと、顔馴染みの取引先の人が困り果てた顔をしていた。
 なんでも昨日の道化師の一件から、船を出そうとすると魔物が襲ってくるようになってしまったらしい。船員の戦力だけでは対処出来るものではないらしく、危険なこともあって連絡船の出航は当分の間見送られることになったそうだ。
 被害は甚大だ。人間が移動する手段が断たれ、物資の流通も止まってしまう。私達の農作物はポルトリンク内だけでなく隣の大陸にも運ばれることがあるから、影響は大きい。大変なことになってきたと思いながら、その日の分の商品を納品して、私は早めに村に帰ることにした。


「あら、ナマエ? 今帰ってきたの?」
「ええ、そうよ。今日は船が出ないみたいだから、やることやって帰って来ちゃったわ」
「ふーん。お勤めご苦労様でした」
「ありがと」


 村に帰ると、洗濯物を干している幼馴染と鉢合わせた。今日は彼女の仕事はお休みだったらしく、村から出ていなかったようだ。
 洗濯物を干し終わった彼女は私の隣に並んで歩き始める。こんな風に二人並んで村を歩くだなんて、随分と久しぶりだった。


「なんだか最近物騒なことが多いわよね」
「そうね……隣の地方でも殺人事件があったって聞いたし、ほんと、やんなっちゃうわ」


 最近の情勢のこともあって、話題は自然と暗いものになっていった。
 村長に港の件を報告すると、魔物も凶暴になっているという情報も入ってきていたらしく深刻な顔が返ってきた。遂には行商に行く際には必ず戦える人間を護衛に付けて行くように、と村長から言い渡された。
 生まれて十数年の私だけど、こんな事は初めてだった。ここら一帯は魔物が強い地域ではないから、戦闘の心得がなくとも気軽に行商へ行ける部分があったのに。こんなことになってしまうだなんて、港町での行商で生計を立てている私達にとっては痛手だった。
 その時は思わず眉が寄ってしまった記憶がある。今までの穏やかな生活は一体どこへ行ってしまったのだろうと、不安な気持ちで胸がいっぱいだったのだ。
 

「そうだ、久しぶりに二人で教会に行きましょうよ!」
「え、教会?」


 そんな時、彼女は穏やかな声で私に言葉を掛けてきた。教会、というのは村の端にある小さな教会のことだろう。このまま家に帰ると考えていたから彼女の提案に驚いてしまった。聞き返すと彼女はゆるりと唇を上げた。


「ええ! 一人では毎日お祈りしていたけど、ナマエと二人でお祈りなんて暫くしてなかったから。……それに、近頃の悪い噂のこともあるし。行った方がいいんじゃないかなって思ったの」


 教会で神様にお祈りを捧げる。それは私達村の人間が毎日行っている事だった。私も例外なく、例え忙しくて疲れた日でもお祈りを欠かした事はなかった。
 そういえば、今日はまだ教会に行ってはいなかった。帰ってきてから行こうと思っていたのだけれど……誘われた今が丁度いいかもしれない。幼馴染と二人で教会へ、なんて子供の頃に戻ったようでなんだか嬉しかったのだ。私は誘いに乗って、教会へと向かうことにした。
 村の端にある村の教会は簡素なものだけど、神父さんや村の人が毎日掃除をしているからいつ訪れても綺麗な場所だった。入り口の扉を開けると古めかしい音が鳴って、私達を内部へと誘う。
 私達は前から二列目の右側という昔からの定位置に座り、胸元の前で手を握って女神像に祈りを捧げた。

 明日も良き日となりますように。
 どうか私達を見守っていてください。

 昔から、祈る言葉はこれだった。
 誰に言われたわけでもなく、自然とこう祈るようになっていた。
 心を静めて、神を想い、じっと女神像に向かって祈る。神聖な空気が漂う場所でする祈りという行為は心も体も安らぐようで、私は好きだった。


「……神様は、私達のことを見ているのかな」


 だけど、お祈りも終わって静かに佇んでいる女神像を眺めていると、ふとそう思った。
 神様という存在が確かにあって、祈りが届いているのなら。一回くらい声が聞こえてくるのかなと考えたこともあったけど、あいにく声が聞こえたことなど一度もない。皆が祈りを捧げる存在は、一体どこで私達のことを見守っているのだろう。


「見てくれているわよ、きっと。ここよりずーっと高い場所で。だって私達今までにいっぱいお祈りしてきたんだもの。それに、昔本で読んだことがあるわ。神様は私達のことをいつでも優しく見守ってくれてて、幸せに過ごせるように導いてくれてるって」
「……うん」
「だから、この村のことも私達のことも見守ってて、きっと最近起こっている悲しい事件には悲しんでると思うの」
「そう、だね」


 彼女は疑う事なくそう言った。天を見上げる瞳はキラキラと輝いていて、少し眩しい。
 彼女の言い分はストンと胸に落ちてきて、もやもやとしていた気持ちが晴れたような気がした。別に神様を疑っていたわけじゃないけれど、本当にそんな感覚に襲われたのだ。
 視線の先にある女神像は微笑みを浮かべ、夕日を一身に浴びて静かに佇んでいる。その姿が何処と無くあたたかいと私は思った。


「……どうか、世界から悲しいことがなくなりますように」


 願う声が聞こえてきて隣を見ると、彼女はもう一度手を握って祈りを捧げていた。私も習うようにして、もう一度祈りを捧げる。
 神様の声は相変わらず聞こえてこない。でも、それでもいいとその時は思ったのだ。


「さあ、もうそろそろ家に帰りましょ。日が暮れてきたし、お腹も空いてきちゃったわ」
「うん」


 夕暮れに染まる教会を後にして、帰路へと就く。見慣れた村の風景は綺麗なオレンジ色に染まっていた。夕日を背にする家々には深い影が現れていて、夜の訪れを感じさせる。
 野原に咲く草木は穏やかな風にその身を委ねてそよそよと靡いており、咲き誇っていた花達はその身を閉じて眠りの準備に入っていた。
 もうすぐ、夜が訪れる。私達は他愛も無い話をしながらそれぞれの家へと帰ったのだ。


 それからも、悪い噂は度々流れてきた。
 有名な修道院の院長が亡くなったとか、どこかの大富豪が亡くなった、とか。ポルトリンクの港は勇敢な人達のおかげで連絡船が復活したといういい知らせもあったけれど、聞こえてくるのは痛々しい人の死の話ばかり。
 村には暗い雰囲気が漂い始めて、皆の顔からは笑顔が少なくなっていた。

 だけど──そんな時だ、幼馴染が港町の男と結婚することになった。

 相手は彼女にとってのお得意様で、彼女が村へ帰る際によく護衛をしていたそうだ。そんな共に時間を過ごす中で、二人は想いを通じ合わせたらしい。
 突然の知らせではあったが嬉しい知らせにあの子の家族は勿論のこと、村の人達皆も喜んで村中大騒ぎだった。私も、あの子が好きな人と結ばれて幸せになるのならこれ以上喜ばしいことはないと、胸を弾ませたのだった。

 段取りは直ぐに決まって、結婚式は村の教会で行われることになった。花嫁の負担は少ない方がいいという相手方の配慮があったらしい。相手の親族達もこの小さな村に集まってくれて、式は盛大に挙行された。
 誓いの言葉、指輪の交換。神聖な儀式は順調に進み、やがて終わりを迎える。新郎新婦はバージンロードを歩き、教会から一歩を踏み出した。
 外に出れば、彼等は皆の祝福を一身に浴びた。
 

「ねえ、名前!」
「なあに?」
「私、今すーっごく幸せよ! だから、あなたも……」


 ──幸せに、なってね。
 花びらが舞う中、幸せを滲ませて彼女はそう言った。純白のドレスを着飾り、ブーケを手に持って笑顔を浮かべるその姿は、まるで空から舞い降りた天使のようだと思った。私は、その姿を一生忘れはしないだろう。
 彼女はこの村を離れてポルトリンクにある相手の家に入ることになった。だからもう今までのようにずっと一緒には居られない。それを寂しいと思うけど、彼女の結婚に喜ぶ気持ちの方が大きかったし、それに、彼女が移る先は私も頻繁に行くポルトリンクだ。何も一生会えなくなるわけじゃない。
 私は彼女達夫婦の新居に必ず遊びに行くと約束して、ポルトリンクへと旅立つ夫婦を見送ったのだ。


 そうして、何日が経っただろう。
 彼女の姿を村では見かけなくなっても私の生活は変わらず、私は農作物を収穫するなり港へ行商に行くなりしていた。港へ行けば取引先のお得意様と会って、いつものように商品を納品していた。
 その中で変わったことと言えば、彼女達夫婦の家に寄っていく用事が増えたことだろう。約束したのは確かだが毎度訪問するのも迷惑だと思って、たまに寄る程度に留めておこうとしたのに、あまりにも歓迎されるものだから毎回寄って行くことになったのだ。
 話を聞けば家事や近所付き合いも上手くやっているらしく、結婚してから毎日楽しく過ごしているようだった。夫婦が並ぶ姿は仲睦まじく、微笑ましいものだった。いつになるかはわからないが、そのうち子宝に恵まれるのだろうとも私は思っていた。
 これからも、こうして二人の姿を見守っていくのだと信じてやまなかった。ずっとずっと彼等の幸せが続くのだと思っていた。


 だから、そう。その日のことはあまりよく覚えていない。
 とある日の重い曇り空が広がる昼間。村に物好きの商人が慌てた様子でやってきた。酷く青褪めたカオをした商人は一目散にこちらへと走ってきて、震えた声で何やら言葉を紡いたのだ。


 ──幼馴染夫婦が、死んだ。


 聞こえたのはそんな言葉だった。私も村人達も何を言われたのかがわからず、呆然とすることになった。

 死んだ原因ははっきりと分からないそうだ。魔物の仕業なのか人間の仕業なのかもはっきりとしていないらしい。……ただ、私達が知ることが出来たことは、彼女達は壮絶な状況で事切れていたということだけだった。
 葬式はポルトリンクの教会で行われた。村の人間総出で葬式に参ることになった。ざあざあと強い雨が降っていたけど、突然の悲報に多くの人間が集まっていた。
 神父の祈りの言葉が神聖な教会に響く。誰かが泣いているのか、時折鼻をすする音とうめく声が聞こえてきた。葬式は静粛に行われていて、私はその様子を他人事のように眺めていた。
 だって、信じられなかったのだ。いや、実感が湧かないと言った方が正しいだろうか。前方には幼馴染の遺体が納められた棺桶がある。それは理解している。わかっている。でも、ついこの間まで目の前で笑っていた人達があんな狭い棺桶に入っているだなんて、私には夢物語のようにしか思えなかった。
 葬式が終わると、夫婦は同じ墓場へと埋葬された。幼馴染とは思えない姿をした彼女に花を手向けて、私達はポルトリンクを後にした。
 
 そうして帰り道。そうだ、帰り道だった。
 黒い喪服の集団となって村への道を歩いている途中、皆ショックで静かになっていたところで、ある村の人がこう言ったのだ。


「きっとこれが、あの子の運命だったのだ」と。


 小さく、やり場のない思いを押し込めるようにして、そう言ったのだ。


「…………は?」


 私は固まった。理解が出来なかった。
 運命? これがあの子の運命? あんなに惨たらしく殺されることが運命だったというのか? きっと怖かった筈だ。幸せ真っ只中の時間にあんなに痛めつけられて、怖かった筈だ。それを──運命なんて言葉で簡単に片付けるのか?
 呟きを聞いた村の人達は皆悔しそうに、だけどその通りとしか言いようにないと頷いていた。私はぎり、歯を噛み締めた。

 確かに、運命と言ってしまえばそれで片付けられる。この苦しみからも、絶望感からも、虚脱感からも逃れられる。理不尽を遠くに追いやって単語の中に押し殺してしまえば、後は祈って嘆くだけでいいのだから。
 けど、そんなの嫌だ。苦しくたってあの子の死から目を逸らすなんて嫌だ。怒りで身体が震えている。強く噛みすぎたのか口の中は鉄の味がした。……私は、目を逸らそうとする村人達も、それに一瞬納得してしまいそうだった自分も、許せそうになかった。

 少し前に聞いた話だけど、この世界でとても偉い立場にいる法皇様も何者かに殺されたらしい。
 どうして殺されるのだろう。神の祝福を受けていた筈なのに、どうして。どうして従順な教徒であった人達がこんな目に合わなければならないのだろう?
 疑問が次々と浮かび上がってくる。だって神様は私達を見守っていて下さる筈なのに。神様は私達を幸せに導いてくれている筈なのに。どうして、どうして────


「──ぁ、」


 そこで、一つの仮定に辿り着いた。
 今まで考えたことはなかったこと。だけど、一度だけ疑問に思ったことだ。
 この仮定が真実だなんて信じたくない、認めたくない。でも、一度思い浮かべてしまった仮定は確かな実感を持って、あっという間に私の体内に広がっていく。


「……違う。こんなの、違う」
「名前!?」


 膨れ上がる得体のしれない感情が今にも爆発しそうになって、私は思わず駆け出した。後ろから声を呼び止めるような声が聞こえたけれど、構わずに走り続けた。
 草木が生い茂るでこぼこ道を駆け抜ける。目指すのは村だ。村の教会だ。そこで今すぐに自分の目で確かめて、この仮定を否定しないと自分がおかしくなってしまいそうだったのだ。

 村に着くと、留守番をしていた村の人が出迎えてくれた。悲しみを包み込むような表情を浮かべていたけれど、私はそれに脇目も振らず村の隅へと向かった。
 小さな教会の重い扉を開く。ぎい、と音を立てた先には見慣れた風景があった。


「……なんで」


 その光景に、知らず言葉が溢れていた。重いハンマーで殴られたような衝撃が身体に走って、くらりと視界が傾きそうになる。
 結果を言えば、女神像はそこにあった。変わらずに微笑みを浮かべて、佇んでいた。……何も。そう、何も変わっていないのだ。あんなに熱心に祈りを捧げていた幼馴染が死んだって、何も変わっちゃいないのだ。
 私は、その変わらぬ風景に愕然とした。いや、それどころか変わりのなさに恐怖すら覚えた。手が震えている。歯がカチカチと音を立てて少しうるさい。ひたすらに否定したかった自分の仮定が肯定されてしまったことに気が付いて、目の前が真っ暗になった。
 祈っても、神の声は聞こえてこない。あの子が死んだところで神は表情一つ変えやしない。それが答えだ。なら──私達が信じていた神は、毎日祈りを捧げていた神は、一体どこで、何をしていたんだ?


「うあ、ぁ……」


 力が入らなくなって、床に崩れ落ちた。視界は滲んで、引きつったような声が漏れる。彼女が亡くなった実感が湧いてきて、思わず顔を手で覆った。身体は情けないくらいに震えていた。
 神様が優しく見守ってくれているのなら、二人が無惨に殺される出来事なんて起きる筈がない。神様が幸せに導いてくれるなら、こんな結末を迎えるだなんてあっていい筈がない。……なら、結局は。神様は私達のことなんて見ていないし、幸せになんか導いてくれることなんてないんだ。そもそも、私たちが信じていた神様なんてこの世にはいない。
 そんな、ありもしない夢みたいなことが現実だなんて、どうして今まで信じきっていたのだろう。


「かみ、さま」


 顔を上げると、女神像が夕陽に照らされて微笑んでいた。その光景は綺麗な物の筈なのに、今の私に眼にはおぞましいものとしか映らない。
 幼馴染は死んだ。それがもう覆らない現実だと、その微笑みは告げていた。


「あ、ああ、ぁ……うあああああああああ!」


 実感のなかった現実が一気に押し寄せてきて、抑え込めていた感情が爆発した。私は夕陽が射し込む小さな教会で一人泣き喚いた。声も涙も枯れるまで泣き腫らした。悲しくて、悔しくて、他のことなんてどうでも良くなってしまって、自分の部屋に閉じこもった。
 それからは。ロクに食事も取らなかったし、教会に行く気になんかなれなくて、毎日行っていた祈りもやめてしまった。文字通り、世界が灰色に染まった気分だったのだ。もう光も何もなく、ただ瞳には映像が流れるだけで、感情も湧き上がらない。
 ご飯の前には毎回お母さんが部屋まで呼びにきてくれたけど、それに応答する気力もなかった。お腹すら、空いていなかったのだ。

 ぼう、と一人、部屋の隅を見つめ続ける。村の人間は皆暫く喪に服していたらしく、村は静寂に包まれていた。けど今日は物音が聞こえてくる。皆、そろそろ元の生活サイクルへと戻るようだった。なら──ああ、そうだ。あの子がいなくなったから、私がもっと頑張らないといけないんだっけ。
 気怠さを残したまま私は無意識に立ち上がった。葬式からは一週間の時が経っていた。


「そうだ、ナマエちゃん。今度聖地ゴルドってところまで行くことになったんだけど、よかったら一緒に行ってみないかい?」
「……聖地ゴルド、ですか?」


 そうしてご飯を無理矢理押し込んで、いつも通りの支度をしてポルトリンクへ行商に赴くと、お得様からそんな提案を持ちかけられた。


「そう。なんだか新法皇様の即位の式典があるみたいでさ、賑わうみたいなのよ。最近、色々あっただろう? 少し長めの船旅になるけれど……気分転換に観光でも、どうかと思ってね。信頼できる船だからこのご時世でも安心だと思うよ」


 聖地ゴルドという地名はこんな村娘でも聞いたことがあった。世界三大聖地の一つに該当する名高い場所で、教徒の巡礼地にもなっている場所だ。そして、神に不信感を抱いてしまった私にはもう関係の無い場所でもある。
 けど、その時ふと思った。不確定な未だに信じている人の姿を眺めるのは悪くないかも、なんて。


「はい、一緒に行かせてください」


 そう思った瞬間、咄嗟に返事を返していた。好意的な返事が返ってくるとは思っていなかったのか、お得意様は驚くような表情をした後、ふんわりと微笑んだ。
 悪趣味な理由だと自分でも思う。けど、思い出が沢山あるこの土地では嫌でも彼女との記憶を思い出してしまうから、ここに居るのは苦しかった。だからそうでもしないともう、自分がおかしくなってしまいそうだったのだ。
 村の皆に要件を説明すると、理解を示してくれて「行ってらっしゃい」と言われた。私は支度をし、翌日お得意様の船に揺られて聖地ゴルドへと旅立った。

 本音を言うと、期待なんてしていなかった。信者を見て心が満たされるわけじゃないし、聖地になんて行けば神の存在をこれでもかというくらい実感させられる。気晴らしになんて簡単にはならないだろうと、そう思っていた。けど、


 ──降り立った荒涼の地で、私は奇跡を見た。


 何が起きたのかは定かではない。けどそれはまさしく奇跡と呼べるものだった。


「……凄い」


 一つの衝撃音を皮切りに、天高くそびえていた巨大な女神像が崩れ始めた。像は周囲の台地を巻き込みながら崩壊していく。欠けた瞳は怪しく光り、眩い閃光を放った。その光は建物の悉くを破壊し、私達を圧倒していく。奥の祭壇から人々が逃げてくるが、それも間に合わず皆崩壊に飲み込まれていった。
 私は聖地の入り口で、唖然としながらその様子を見ていた。


「すご、い。すごい、凄い、凄い……!!」


 鋭い雷がすぐ傍に落ちた。瓦礫は頭の上を飛んでいく。けど、そんな危険な状況なんて気にもならないくらいに、私は目の前の光景に目を奪われていた。
 聖地の象徴であった巨大な女神像が内側に潜んでいたモノに食べられていく。侵食されていく。否、初めから偽物だったと言うように皮が剥がされていく。そう錯覚するくらいに目の前の出来事は衝撃的だった。だってそうだ。こんなのまるで、今まで崇拝を集めてきた神の存在を否定しているも同然だったからだ。
 街を蹂躙するナニカの力強さに圧倒されて、私は一人地面に膝を付けた。
 隣にいたお得意様は、か細い声を上げながら何処かへと避難してしまっていた。


『──我こそは、暗黒神ラプソーンである』


 生温い風が吹いて何処からか声が聞こえてきた。呆然と空を見上げると、赤黒く染まった空の中心が渦巻いていて、その中心から著しい魔力が溢れ出ているようだった。


「暗黒神、らぷ、そーん?」


 ほう、と息と共に言葉が溢れ出る。どこかの本で読んだことのある名前のような気がする、なんて思っていると一呼吸程の微かな時間の後に、魔力が呼応するように蠢いた。


『そうだ、人間よ。我は暗黒神ラプソーン。光の世界と闇の世界の両方を束ねる真の神である。……我らが闇の完全なる復活の時は近い。今こそ、我の下に集え』


 語りかけてくる低い声に思わず目を見開いた。こんな地べたに膝をついた女のか細い声を拾い取ってくれたのだ。驚きが胸に広がっていく。
 天の存在が私を見ている。認知している。かみさまの声が聞こえてくる。私はその事実にかつてない興奮を覚えた。神様なんていないと思っていたけれど、ここにいた。いや、今まで信じてきたものが偽物だっただけで、ずっと前から存在していたのだ。
 私は嬉しくなって立ち上がった。生温く全てを吹き飛ばそうとする風も、飛んでくるがれきも、空を侵食する赤い色も怖くはなかった。だって、神の力による事象が目の前に現れているのだ。これを、喜ばなくてどうするというのだろう?


「ああラプソーン様! そのお力でどうか証明なさって下さい! アナタこそが真の神であると!!」


 興奮した私は天に向かって手を広げ、呼び掛けた。欲深いのは重々承知しているが、もう一度だけ応えてほしかったのだ。


「あんな、あんなっ……! まやかしに過ぎない虚像の神なんて、こんな世界なんて、全部全部壊してください!!」


 力の限り空に向かって叫んだ。こんな騒ぎの中、私の声が届くのかは定かではない。
 だが、呼応するように衝撃波が巻き起こり周りにあったもの全てが吹き飛んでいった。更なる雷が迸り地面を抉る。なのに、私には何も害がない。向かってくる風は周囲よりずっと緩やかなものだし、がれきの一つすら飛んで来やしない。


「……あはっ、は、は、あははははははは!!」


 嬉しくて涙が出そうになる。弾けるように笑いが零れた。神は、やはり私を認識してくださったのだ。
 そうして、私の中にあった一つの考えは確固たるものになった。あの方こそ私と世界が崇拝すべき神様だ。祈りに応えず幼馴染を幸せに導かなかった存在より、こうして私に語りかけてくれて、圧倒的な力を示してくれる確かな存在の方がずっとずっと崇拝されるに値する神らしい。
 赤い空が声明を内包するかのように蠢く。破壊された建物はとある基点を中心にして吸い寄せられるように集まり、壮厳なる城を形成して空へと旅立った。

 神を迎えた空に祈りを捧げる。
 聖地は崩壊し、空を飛んでいた金色の鳥は地に堕ちた。偽りの神はもう居ない。代わりに真の神が現れて天に帰っていった。それが、私が聖地ゴルドで見た全てだった。





 お父さん、お母さん。私はこれから、ラプソーン様に祈りを捧げているという神殿に向かおうと思います。
 だってあの方が直々に呼びかけて下さったのです、「集え」と。なら相応の場へ向かわないといけないと。それに、あんなに素晴らしいお方を待つ人がいないなんてこと、あってはならないのだから。……村の書庫には禁書に指定されているラプソーン様について書かれた本もありました。これも、神の導きだと思うのです。
 勝手なことをしてごめんなさい。でも、私はこれが悪いことだとも、間違っていることだとも思えないのです。

 祈りましょう、祈りましょう。
 大いなる暗黒神ラプソーン様のために。従順に崇拝する教徒のように、或いは恋慕を秘めた乙女のように、私は祈り続けましょう。
 そして──さようなら、さようなら。
 願わくば良い終末を。願わくば素晴らしき世界の再生を。私の心はいつでも、真の神たるラプソーン様、あなたと共に。





 女の日記はここで途切れている。
 続きのページをめくってみるが、次のページからは意味不明な文字の羅列が書かれていて読むことができない。
 これ以上読むものはなさそうだ。―――はそっと、日記を閉じた。





―――――
最後の───の部分は8の主人公の名前を自由に入れて読んで下さい。




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