答案を乱す翡翠/twst/floyd




  ごちん、と派手な音がとなりで鳴った。トレイン先生はこちらをチラリとも見ずに手元の出席簿に何かを記入しているようだった。音の原因をトレイン先生は分かり切っているらしく、それは私も同じである。
 睡魔に無事敗北したフロイド・リーチの頭が机に墜落した合図である。生憎、今日の授業には彼を起こす兄弟の姿はない。そもそも、襲い来る眠気と戦う意思もなかったであろう彼の寝顔は、海の深く底が如く、静かで安らかである。

 学年合同授業は、いつもと同じメンバーとは違う編成だった。席に教科書類を置いて教室前で授業エース達と開始ギリギリまで駄弁って、予鈴と共に中に入ると、隣の席はもう埋まっている。その顔馴染みは、小さな椅子に収めた大きな体を、窮屈そうに揺らして座っていた。

「こんにちは、フロイド先輩」
「あ?……あっれー、小エビちゃんじゃん。ラッキー」

 私を見てにたりと笑った顔を見て、ラッキーという好意的な言葉に嫌な予感を覚える。

「今日はメモ取らなくっていーや、小エビちゃん授業終わったら見せてね」
「嫌ですよ、授業くらい真面目に受けてください。」
「えー、いーじゃん。俺今日文字書く気分になれねえんだよね」
「予鈴がなったのに気付かないものがいるようだが、授業を妨害する意図なら度し難く、そうでないならとんだ愚か者らしい。」

 トレイン先生はルチウスの背を撫でながら高圧的に呟いた。慌てて教科書を開いた私とは対照的に、フロイド先輩はやはり体をいっぱいに休める体勢のまま口元にはゆるく笑みさえ浮かべている。


 彼sはそんな風に言っていたものの、授業が始まればぼんやりとした手つきではあったが板書を写し、トレイン先生の説明に耳を傾けているようだった。
 なんだ、とほっとしたのは数分前だった。
 彼のやりたくないことに関しての逃避は、眠気という形で現れたらしい。

 日差しは背中にじんわりと熱を与え続ける。あかるい部屋の中に、猫の声と先生の低い声が交互に響き渡って、ちょうど混ざった間の淡い静寂の中に、フロイド先輩のこどもみたいな寝息がひっそりとあった。聞こうとすれば簡単に捕まえられるが、気付かなければ逃してしまうようなごく小さな息遣い。
 眠りから覚めないまま、のそりと顔がこっちを向く。
 厚い窓の向こうで風が吹いたらしかった。木漏れ日がフロイド先輩の背中や髪の隙間を走り抜ける。夜の海を滲ませた翡翠色の髪は、ほんとうに宝石みたいにきらきらしていた。

 ふと思った。
硬いのだろうか

 熱砂の国の色とりどりの装飾品に込められた意味をトレイン先生が淡々と説明している。トルマリンの、冠のルビーの、腕輪のイエローダイアモンドの、耳飾りのジェードの……。その全てを聞き終わらぬうちに、黒板に向けようとしていた目はまた隣席へ吸い寄せられた。
 彼の髪も宝石のように不可侵の硬質さを持っているのだろうか。触れれば拒むか、あるいは美しい音と共に崩れてしまうような。
 ばかばかしい考えは、その時の私にはそう思えず、何のためらいもなく髪へと手を伸ばす。きちんと自身の手によって確かめなければならなかった。

 結局、髪は指の間をするりと抜け、私を拒否することも壊れることもなく、ただすこし流れを変えるのみであった。拍子抜けした私をよそに、彼は静かに眠り続ける。睫毛が多いことに気付いた。指を話した途端、髪は再び凍り付いてしまったように見えて、すぐまた髪に触れる。さっきの指通りと何ら変わらない柔らかさだった。
瞳に映る美しい光と温かささえ感じるその手触りが結びつかずに、懲りずに何度も指先で確かめる。色の違う一筋の髪も同じようにさらさらと、触れる皮膚に心地よかった。

細い睫毛の束が僅かに震える。その瞬間まで、なぜかそれがフロイド先輩の体の一部であることをすっかり忘れてしまっていた。気付いて手を引っ込めた時には遅かった。瞼が億劫そうに持ち上がる。

「……な〜にしてんの」

 目覚めてすぐの声は、吐息交じりに掠れている。心臓がだんだん音を速めていく。本当に、自分はいったい何をしているんだろうか。
 言い訳をしようとする頭の歯車は何にもかみ合わずに空回り続ける。何も言えない私のことを色の違う双眸がひたりと捉えて離さない。
 助けるように授業終わりの鐘がなる。弾かれるように立ち上がった。トレイン先生がこちらを厳しい目で見た。

「今日はここまでだ。本日の内容は試験に反映する部分であることを忠告しておいてやる。」

 間違いなく私とフロイド先輩に向けた言葉だった。背筋が一瞬寒くなる。
 フロイド先輩は今のを聞いていただろうか。視線をそちらに戻す前に、彼の手が私の腕を捕まえた。

「っえ、」
「ねえ、何してたの?」

 見つめる目を囲むまぶたが滲むように少し赤い。寝起きでうるんで溶けそうな瞳は、鉱石の固さとは程遠い。熱さも強さも、鉱石なんて比にならないほどだった。
 かあっと熱くなる頭が何か言えと急かす。

「っその、」
「あ?」
「どんな手触りなのか確かめたくなって」

早口で力のない声はいかにも脆そうだった。呆れたようにフロイド先輩は眉をあげる。

「は?そんなん見りゃ分かるじゃん、なーにそれ」

 その通りだ。恥ずかしくて握られた手を振り払った。振り払おうとした。存外に強い力で握られていた腕は、振り払えないまま揺れるのみだ。

「なにそれ」
「二回も言うじゃないですか」
「意味わかんねぇ、なにそれー」

 首をくたっと後ろに反らしながらなんどもそう言っている。眠そうな声が、ゆるやかに跳ねだす。リズムを取るようにぶんぶんと腕を揺らしだした。制服や髪に刺す日光は、少し暑すぎる。フロイド先輩は変な顔をしていた。片眉だけを下げて、でも口では笑っている。彼の唇が少し震えた。

「なんだよそれ」

 もう一度言うと、とうとう堪え切れなくなったように高い笑い声を漏らした。

「わ、笑わないでください」
「小エビちゃんってさ、けっこう、ばかだよねぇ」
「ば、ばかって」

 笑いで震える声で軽く罵倒される。

「ねえ小エビちゃん、俺の髪が気になるの〜?」

 笑壺に入ったらしいフロイド先輩は、ばかじゃん、なにそれ、と繰り返しその度に長い体を折って笑い転げて見せた。
 昼休みが終わる前に昼食も取らなければならないのに、手は緩まないし彼が立つ気配もない。からかわれたことに怒りたいのに、笑うフロイド先輩を見ているとなんだかつられておかしくなってしまう。

「ばかじゃないです」
「バカだよ」

 うっすらと細めた目でもう一度私を捕らえると、揺らしていた手を止めてくいと弱く引き寄せた。笑ったまま「なんですか」と聞くと

「俺にも触らせてよ、いいでしょ」
と囁いた。

 許可なんてまだしていないのに、腕を握るのとは別の手がぬっと伸びる。大きな手は逃げる間もなく私の頭を捕まえた。どんな力で報復されるか分かったものじゃないと一瞬身構えるが、フロイド先輩は私の警戒とはうらはらにゆっくりと手を滑らせる。自分の体温をゆっくり分け与えるような、それは彼から思いもよらないほどの丁寧な所作だった。
 いや、丁寧さはもしかしたら彼から遠くないところにあるのかもしれない。彼はきっと意識すらしていないが、スカラビアで踊っていた時のしなやかな動きだとか、料理を作った時の立ち回りとか、ユニーク魔法を使うときの正確さとか、確かに時によってムラは大きいが、そういう些細なところに彼の意識のこまやかさが表れている。
 意識していなかったイメージとのギャップを見つけて、頭の奥が焼き切れたみたいに、思考が止まる。日差しで温まった黒髪の所為か、寝起きの彼の体温の所為か、触れられるところが燃えるように熱い。
 てのひらは何度も私の頭を撫でる。その間フロイド先輩はずっと、ただじっと、私のことを見つめていて、その視線を私も逸らせないまま時間の概念が遠のいていく。髪の中にすっと差し込まれた指が耳たぶを掠って滑り降りる。尾骶骨に走った痺れの甘さを自覚した瞬間、


「はーあ、あきた!」

と大きな声で叫んで、フロイド先輩はぱっと手をはなした。

 瞬きする間に遠のいていたらしい意識が戻り、目の前にはいつもみたいな読めない表情で笑みを浮かべるフロイド先輩がいた。散らかっていた教科書を雑にまとめると、椅子を後ろに蹴って立ち上がる。

「俺おなかすいた」

 あっけらかんとそう呟いて、フロイド先輩はまた目を細めて微笑んだ。さっき私の髪に触れている間に見た、優しいような、苦しくなるような表情だった。私は何か返事をしなければならないのも忘れていたけれど、彼は返事を欲してはいなかったらしい。また私の髪を指に絡めて少し遊んで、微かに息を漏らして笑う。頭が少し揺れた拍子に、ピアスが窓の光に当たって煌めいた。その耳たぶがとろけそうに赤いのを見つけてしまって息が止まる。

「またね、バカでちっちゃなエト」

 そう言ってふいと踵を返すと振り返ることすらせずに彼は出て行ってしまった。最後は、彼の顔を見る事が出来なかった。一人残された私は、ただ立ち尽くす。髪の隙間に残る感覚とか、目に焼き付いた色んな表情が、ちかちかと光っては私の頭を乱していく。
 これからどうやって顔を合わせていいものか、考えても答えが出なかった。



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