はじめてのちゅうの話/ff0/jack




 ちゅっと音がした。驚いて、今しがた離れた感触をなぞるように頬に手を当てる。

 喉の後ろの方がじりじりと炙られるようだった。メトロノームに不可思議な重りを付けたみたいに、規則的だった筈の呼吸がうまくいかなくなる。息が苦しくなっては頭の温度が上がってまた息ができなくなってと悪循環の繰り返しで、混乱したまま、ああどうしよう、と、それだけがやっと脳内で構成できた意味のある言葉だった。
 ジャックくんはもう、私から数歩ほど離れた場所に移動していた。にっこりといつもみたいに朗らかに笑って、「ごめんね〜、かわいくってつい〜」と言ってみせる。全然分からない。意味がわからないし、返事の仕方もわからない。アハハそうなんですかァなんて言えばいいのか。いやいや。
 後から考えると、私はこの時だいぶ混乱していて、カケラも冷静さなどなかった。当時の記憶は確かにほぼなくて、思わず口走ったことは

「かわいかったら誰にでもこんなこと、するの?」

 途端、彼の顔から笑顔が消えて、それに怯んで固まる。さっきまでのが作り笑いであったことに今更気付き始めた。怒りと悲しみの入り混じったような表情に、自分の言葉の意味をもう一度考え直して、とにかく謝ろうと口を開いて

「そんなわけないでしょ」

 遮られて閉口する。次の瞬間には、彼は口角を上げて、普段通りの笑顔を作り上げていた。からっとした笑顔に合わない、苦しそうな声で零す。

「ごめん、嘘ついちゃった〜」

 嘘、って。聞き返そうとする私に、彼らしくない早口で続ける。

「なんで、分かんないかなぁ、君が好きなんだよ、分かるでしょフツー。あんまり可愛いからキスしたくなっちゃったの。唇にして泣かれたらヤダって、そういうしょーもない自制心だけは働いて口から逸れてほっぺにしたけどさあ」

 まくし立てるようにそこまで言うと、不意に声を詰まらせる。真一文字にきゅっと口を結んでまた、へらりと笑ってみせた。

「……ああ、やだなぁ。カッコ悪いな〜」

 くしゃっと髪をかきあげて、はあ、とため息をついた。憂うような声は甘やかでどきりとする。二人だけの教室は妙に静かになってしまって、何かを言うべきなのかもしれないけど何も言えなくて、喉になにか詰まったように、苦しく呼吸することしかできない。
 ジャックくんはもう一度私に向き直って、遮るもののない二人の間を真っ直ぐに歩いてきた。

「あ、」
「ねえエトちゃん、聞いてくれるかな〜?」
「え、あ、う」

 僅かに屈んで真っ直ぐに私の目を見る彼に、かくんと頷く。「ありがと」と、嬉しそうな声はいつもよりも熱く、指先が震えた。
 不意に落ちた彼の目線を追いかけて下を見る。そこにあった私の指を、ジャックくんが掬い上げるように持ち上げた。

「エトちゃん。君が好きだよ」

 求愛の声音だった。蕩かすような温度にじいんと耳が熱くなる。ねえ、と言われて、無意識のうちに逃げて俯くと、引き留めるように指先に力を込められた。

「ねえ、僕を見て」
「そん、な」
「今度は間違えないで唇にキスするから」

 ますます近付く顔に息を呑む。顔を逸らそうとするのに、あやすように爪の付け根をそろりと撫でられて、動けないまま泣きそうになった。
 彼の虹彩の細かな模様さえ見える距離で、彼は縋るように、

「ね、いーの」

と、訊いた。
 頷く代わりに、ぎゅっと目を閉じる。

 唇はしっとりと離れて、最後にもう一度だけちゅ、と触れた。ふ、と息をつく。目を開けると、ジャックくんは目を細めて私を見つめていた。恥ずかしさにまた俯く。握ったままの手を持ち上げられて、疑問に思うまも間もなくその指先に再び唇を落とされた。
 とっさに引きそうになった手をきゅっと握って、彼はくすりと笑って首をかしげる。少し紅潮した頬で、ジャックくんは言った。

「好きだよ」

 ま、また言う、と、声にならない声は外に出ず、喉の奥に落ちる。くぅと鳴った私の喉に、彼は一層笑みを深めて続けた。

「君にも僕のこと、好きになって欲しいんだけど〜」
「も、っ」

 これ以上変なことを言われてはたまらないと咄嗟に声を上げる。彼はちょっと驚いたように私を見た。
 うまく言えなくていいから、ちゃんと言わなきゃ、と、頭では思うのに、実際は全然上手に言葉が出なくて、小さく、早口に言う。

「っもう、い、いっぱい好きだから、これ以上はダメ……」

 俯いた視界の中で、彼の手が私のそれを握るのが見えた。焼けてしまいそうな熱さが彼のものか自分のものかわからず混乱したけれど、その混乱は甘く胸にじわりとしみこむ。

「もういっかいキスしてもいい、かなぁ」

 恥ずかしがって肯定しあぐねる私に、彼の唇が降るのは3秒後のことだった。



main

top