ガラスのパレット/twst/Jade




 静かな気づきだった。それは、昼食の鱈のソテーの、付け合わせの野菜を咀嚼している短い思案の中のことだ。今まで頭に引っかかっていた小さなかけらが一気にぱちりと組み上がって、まるで最初からその大きさで、その質量で存在していたみたいに表れた。
 食器を落とすこともなかったし、野菜を嚥下するのに時間がかかることもなかった。発見に何ら心は動かず、強いて言うとすれば、上あごに若干ざらついたざらついたような感覚が残っていた。けれどそれも、コップの水を一口飲んだだけでどこかに消えて、はたしてソテーの味の濃さ故だったのか、自分の心理状態の影響するところだったのかは判断する間もなかった。
 
 雨脚がまた少し強くなる。軒や木の葉にぶつかってまとまりのないドラムロールを鳴らした。夕べ遅くに一度目が覚めた時にはしとしとと誰かの囁くような雨の音がしていたから、夜からずっと降り続けていたのだろう。故郷のペトリコールとは少し異なる香りにも、違和感を感じなくなって久しい。もともと、自分の知っている香りがどんなものだったかさえ、正確に思い出せている自信がない。そうやって少しずつこの世界に慣れていくことは、たしかに故郷への表面的な執着を強めてはいるが、それよりも孤独感が払拭されるありがたさの方が大きかった。そうやってこの場所に安心できるようになったからだろう。自分の腹の内で育つ思いに気付く事が出来たのは。

 ソテーの最後の一口をフォークに乗せた。皿に残ったソースは味を美しく飾り立てるだけで、視覚にその華やかな風味を伝えてはくれない。エトはそれでよかったし、たとえ見栄えを整えられたとして、最後には絵を描き終えた後のパレットみたいに混然としてしまうぐらいなら、意味のないものだとさえ思っていた。

 エトは、じぶんがジェイド・リーチに特別な感情を抱いていることに気が付いてしまった。そしてその気付きが今までの思案に結論を出すものではなく、試案のかけらをまとめただけの序論であるということも。その特別さがどういう類に含まれるものなのか、エトが今思いつくあらゆる言葉には当てはまらないことから、結論に至る道の長々しさは窺い知れる。
 けれどひとまず、頭はきちんと整理された。ばらばらに散らかっていた手がかりは道しるべとして整然と並び、エトは手探りで違和感を調べなければならないわずらわしさから解放されたのだ。

 きっかけはその降り続く雨だった。食堂の大きな窓ガラスの表面は細かく凹凸があって、そこから見える歪んだ外界は油絵を彷彿とさせる。雨の落ちる音は届いても、落ちる雨粒の様子は肉眼では捉えきれなかった。
 たまたま一人になってしまった食事の時間を、ぼんやりと窓の方に目だけを向けて過ごしていた。エトのところからは、庭を挟んで向こうの廊下が見えていた。思い思いに休み時間をすごす生徒たちの中にジェイド・リーチを見つける。双子のもう片割れではなく彼だとわかったのは、同じ食堂にその片割れの姿を見たからだけではない。兎に角、エトはその少し歪んだ遠くの人影が紛れもなくジェイドだと確信を持っていて、何とはなしにそれを目を追っていた。

 彼の歩く廊下の屋根は途切れていて、石畳はそこだけ塗り損なったように濁った暗灰色に沈んでいる。迂回するのだろうかと見ていると、彼は進路を変えることも、立ち止まることもせずに雨の中を突っ切って歩いて行った。
 瞬間、エトは息を止めた。
 彼の姿勢はゆったりと鷹揚で、けれど踏み出す実用的な真っ直ぐさが洗練されていた。今まで歩く姿を見ていなかったわけでもないのに、エトはその様子から目が離せなかった。臆する事なく落ちる水滴の中を進む潔さが胸にすっと沁みて溶けるようだった。
 走り抜ける生徒たちの中で、時間の流れが、いやひょっとすれば世界の在り方がそこだけすり替えられたように、明らかに違っていた。景色を濁らせるガラス窓を食い入るように見つめてもその解像度は上がらない。ジェイドが屋根の下に隠れるまでに拾い上げた情報は、微かに彼の制服の色が濃くなったことくらいだった。 


 ほんの数秒のことだった。エトが呼吸を忘れるほど胸を高ぶらせたのも、そのひと時のあいだだけだった。ジェイドの姿が見えなくなると、エトはまた皿の上のソテーにフォークを突き刺す。

 脳内の整理を終えるころには、皿の上もきれいに片付いていた。
 エトは、ジェイドに向ける特別な思いが恋愛感情のような甘いものではないことはとっくに分かっていた。好意的なものであるのは否定できなかったが、そこには慈愛や独占欲とは似て非なる思いがある。

 芸術品と実用品の間に、エトは明確な線引きをしていた。博物館に展示された茶碗を、彼女は決して実用品とは思わなかったし、そんなもので飯を食うなど言語道断だと言い切るだろう。反対に実用品には芸術的な価値は必要ないと彼女は考える。さっきの食事にしても、盛り付けを美しくしたところで最後に腹に収まってしまうなら、さして重要な部分ではないと切り捨てるのだ。

 ジェイドは、彼女にとっての芸術品だった。生きて社会で営む人物ではなく、芸術品。それ以上でも以下でもないと評価するのは恐らく人に対するそれとして絶対に不適当である。彼女もわかっていた。
 けれど、ガラス製のパレット、それがジェイドに対する彼女の最終的な見解だったのだ。絵描きの手に乗る道具ではなく、美術館の中で厳重に守られ展示され、多くの人にそれだけで愛でてもらうもの。その上に誰も絵具を乗せていけない。筆をのせてはいけない。経年変化などあってはならない。
 人に使われるものとして造形され、しかし誰にも使われず美しい、そのままであってほしいとエトは切に願う。

 蝶のように標本にしてしまいたいわけではなかった。彼の命を絶つなど、考えもせず、もしそうなってしまえば彼女は心の底から悲しむだろう。
 けれど、これ以上彼が他から受ける事が無いようにこの瞬間を裁断してしまいたい気持ちは、死を望むのと消して遠からぬ思いであった。愛や独占欲との決定的な違いは、彼女が彼に触れたくないという強い思いである。エトの定義する”他”には、当然の如く彼女自身も含まれていた

 

―――けれど、それがなんだと云うのだろう。
 エトは椅子を引いて立ち上がった。これからも自分とジェイドの間にある距離や空気は変わらないだろう。変えるつもりもない。
 今日のことで得たのは、気付きと、それから諦観であった。

 これからもエトは、ジェイドの感情のない笑顔を見ていれば満たされ、その所作に立ち居振る舞いに仕草に静かにみとれてしまうだろう。誰かがジェイドと話す度、あるいは自分自身が話しをするたび、心がぎしぎしと痛そうに軋んで見せたのはきっと、彼に重ねた美しいガラスのパレットが、それを掲げる羨望だか理想だかで出来た私の腕が壊されそうだったからだろう。
 けれどもう、痛くなることはない。きしみは時の流れと共に強く大きくなっていつか特別な感情を壊してしまうけれど、それの正体はわかったのだ。必ず来る終わりは、エトには防ぎようがない。彼は生きていて、彼の世界を生きている。彼は芸術品ではない。恐ろしさも、悲しみもタールのように腹の底で重く淀んでいるけれど、諦めてしまえば受け入れ難い全部も飲み込んでしまえた。

 綺麗に飾り立てたガラスのパレットが粉々に割られるまでのカウントダウンはもう始まった。飲み込んだはずのソテーのソースが口の中で微かに香る。エトは二度と、鱈のソテーを食べられない。




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