再会



 祈りのように呟やかれた音には聞き覚えがあって、その時初めて、殺処分対象者は人間になった。
 傷んで色素のやや抜けた髪、荒れた肌、痩けた頬に青白い顔色。そのどこにも探す人の面影はないのに、生を諦めて虚ろな瞳のその奥の色だけ、確かに覚えがあることを、知っていた。気付いてしまった。

 ジャックは咄嗟に女に向かっていた太刀筋を逸らす。派手な音を立てながら近くの机が大破する。崩れた破片が辺りに飛び散った。女は身を竦ませてぎゅっと目を瞑る。また、早口にさっきと同じ祈りを囁いた。
 疑いを持って耳を傾けた声は、間違えようがないほど彼女だった。弾み転がる鞠のような高い声はもう大人になっていて、静かに坂を滑るガラス玉のように澄んで重くなっていたけれど、自分の名を呼ぶ慈しみの色は変わらずそこにあった。
 力の抜けた手から滑り落ちた刀が、高い音を立てて地面に突き刺さる。
 女は次に来る自分の終わりをただ静かに待っていたが、一向に訪れない痛みにおそるおそる顔をあげる。自分を呆然と見つめる男に抱く感情が恐怖から不審感に変わった時、やっと女はその顔を正しく認識した。




**


 愛しい弟の名前を覚えてことだけが、唯一の救いだった。
 苦しい思いはしていないだろうか。ひとりでもきちんと美味しいものを食べているだろうか。白虎に近い土地柄だ、冬は火も凍りそうなほど冷える。寒い寒い冬を、独りでなんて過ごしていないだろうか。
 泣いてないと、いいなあ。

 度重なる実験に体が苦しい時、擦り切れた精神に涙すら流せなくなった時、正気を保っていられたのは、血のつながらないかわいい弟が生きている事実があるからだった。監視に気付かれないように小さくあの子の名前を呼んで、閉じた瞼の裏に笑顔を描くと、体の、心の、引き裂かれた痛みが遠く消えていく。そうしているだけで、あの日連れてこられたのが私でよかったと笑えた。

 そんな風に思い出の少年に縋る毎日だったから、青い眼で私を見下ろす男を見て、彼が――、弟が、私を迎えに来てくれたのかと一瞬期待した。死への恐怖で、おかしくなったらしい。こんなに散々な人生だったのに、やはり死ぬのは怖いのだ。顔には出さず自嘲して、また顔をうつむかす。

 次の実験に備えて牢屋の中で膝を抱え、心臓の拍動が戻るのを待っているところだった。なんだかいつもよりも慌ただしい通信や放送が暫く続いていて、そのせいで朦朧とした意識を手放し切れなかった。不意に訪れた静寂は、後に続く爆音のための休符だった。部屋のあちこちが崩れて、短い悲鳴が火薬臭い砂埃の中から幾つも上がる。
 あたりの悲鳴が薄れてふと見上げると、格子の一部がひしゃげていた。けぶる視界でよく目を凝らすと、扉の蝶番は壊れていて、副作用で震えたままの手で軽く押しただけで向こうに倒れた。膝は震えたけれど、思うより早く体は立ち上がった。十数年ぶりにやっと、私は自分の意志で、外に――
 側方からの衝撃に、体が飛んでいた。拳や足とは違う、大きなものによる打撃だった。デスクにぶつかり、全身に響いた衝撃に咳き込む。衝撃の正体を確かめようと足元に転がるものに目を向ける。私に数えきれない注射を打ち込んだ研究者だった。研究者の、死体だった。何が起こったのか、はっきりではないものの推察できた。襲撃だ。
 砂塵の向こうに人影が表れる。聞いたことのある切断音と共にキャっと掠れた断末魔を残して研究者が息絶える。まだ死んでいなかったらしい。血で濡れた長い刃に、やけにくっきりと自分の運命が見えた。
 私はここで、この研究者と同じ、切られて死ぬ。

 胸の前で両手をぎゅっと握り合わせる。もう、あの子はこれで、私のことを忘れてしまうんだなあと、悲しみに打ちひしがれる声で、名前を呼んだ。硬く激しい音が体に響く。ああ、この最後の声が彼に届けばどんなにいいだろう。そう手に力を込めて、ふと、衝撃音が自分を切ったものではないことに気が付いた。地面に突き刺さった刀はぬらりと鈍く光る。目の前に立つ者を見る。青い目をしていた。



「……スナ、?」

忘れ去られた名で呼ばれ、反応が遅れる。へ、と、掠れる声が漏れる。握りしめていた両手を、誰かが包む。
片膝をついてしゃがんだ目の前の男は、揺れる瞳で、それでも真っ直ぐに私のことを見つめていた。

「スナ、でしょう」
「……え、なん、で、うそ」

 信じられないような気持ちでうわ言のようにまた名前を呼ぶ。ぐっと胸が苦しくなって、もう息ができなくなった。彼がきつく抱き締めたせいだった。そうだよ、ぼくだ。そう言った声は知らないもので、それでもはらはらと落ちる涙は紛れもなく喜びからだった。
 背中に手を回しながら、震える声で言う。
 背ぇ、伸びたねえ。おちびさん。




back

top