「──不許可だ」
重々しい溜息と共に告げられたその言葉に、ナタリアは思わず叫んだ。
「ど、どうしてですの!? 民を救うためには必要なことではありませんか、お父様!!」
下された結果に納得がいかないのか尚も食い下がる娘に、キムラスカ・ランバルディア王国国王インゴベルト六世は、ゆったりと椅子にもたれかかる。
そして、今しがた目を通していた書類を机に置くと、ふるりと首を振った。
「国民の血税をばら撒くだけのそれが、どうして民のためになる? それでは、何も意味が無いのだ」
「そんな! 施しをしなければ、民は飢えて苦しむではありませんか! 無意味などではありませんわ!」
「ナタリア……」
まるで聞き分けのない子どものように、インゴベルトの言葉の意味を理解しようともしないナタリアを見下ろすと、そっと目を伏せる。
漏れた嘆息には、失望の色が滲んでいた。
「そうして消えた予算を埋めるために、また税を搾り取ると? 国庫の中身も無限ではない。そうではなく、民の生活水準そのものを向上させなければ、彼らは余計に困窮してゆくだけだと何故分からぬのだ」
そう言うと、彼はナタリアから視線を外し、そっと呟く。
「……クレミアは、お前くらいの年の頃には既に、それを理解していたというのに」
出てきたその名前に、ナタリアはびくりと肩を震わせ、そして俯く。
また、またその名を呼ぶのか。インゴベルトから見えないその表情は、憎憎しさで歪み切っていた。
丁度その時である。執務室の扉がノックされたのは。
「国王陛下、宜しいでしょうか?」
「おお、クレミアか。構わぬ、入りなさい」
そうして入ってきたのは、派手さはなくとも品のある白のAラインドレスに身を包んだ、黒い髪の女性。
「失礼致します。先日の会議の件で──あら? ナタリア、御機嫌よう」
書類を手に口を開きかけた彼女は、ナタリアの存在に気付くと、ふわりと微笑んで一礼する。だがナタリアは挨拶を返すどころか、恨みがましい目で彼女を睨みつけた。
あまりの非礼に、インゴベルトの叱責が飛ぶ。
「ナタリア! 姉であるクレミアに対して何という!」
「陛下、そのように怒らないで下さい。お二人の会話を邪魔してしまったのは私の方ですもの」
温厚な笑みを浮かべて宥めの言葉を掛けるクレミアに、インゴベルトは「ふむ、お前がそう言うのであれば」とたちまち怒りを鎮めてしまった。
だが、ナタリアの非礼は留まる事を知らない。
「邪魔をしたと思うのであれば、出て行って欲しいものですわ。横から割って入ってきて、失礼ではありませんこと?!」
「……っ、ナタリア!」
幾ら身内とはいえ、クレミアはナタリアの姉であり、王位継承権も王室での立場も、彼女の方が上である。そのクレミアに対するその暴言に、流石のインゴベルトも目を吊り上げた。
「もうよい、そなたは下がれ!」
「お父様!?」
「お前も可愛い娘だからと今までは目を瞑ってきたが、此処まで愚かとは思わなんだ! 顔も見とうないわ!」
「そんな!」
激怒するインゴベルトに、漸く自分の発言の拙さを自覚したのか、先ほどとは打って変わって青褪めると、おろおろと焦り出す。だが自分の言葉では最早彼の怒りを解けないと悟ると、ナタリアは、今しがた睨みつけていたはずのクレミアに縋りつく。
「お、お姉さま! お姉さまからも何とか言って下さいまし!」
そのあまりの変わり身の早さにさしものクレミアも唖然としたが、すぐさま表情を取り繕うと、顔を真っ赤にしているインゴベルトの下へ駆け寄った。
「陛下──父上、落ち着いて下さいな。ああ……ナタリア、貴方は少し下がっていた方が良いかもしれないわ。今は何を言ってもご不興を買うだけでしょう」
「っ……わ、分かりました……」
一瞬、クレミアの言葉に反論しかけたものの、顔も見たくないなどとまで言われたのは初めてだったナタリアは、これ以上責められることの恐ろしさに身を竦ませ口を閉ざすと、早々に退室した。
その後、自室へと戻ったナタリアは、ベッドに顔を伏せて己が現状を嘆いた。
ルークと、そして何よりアッシュを取り戻すために過去へと遡ったはずなのに、何故こうなってしまったのだろう。
居なかったはずの姉が居て、その人は亡き王妃に瓜二つの面差しで、王家の象徴たる赤毛こそは持たないもののもう一つの貴色である翡翠色の瞳を持っている。
赤毛も碧眼も持たず、更には両親のどちらとも似ていないその容姿であるナタリアにとって、突然振って湧いた姉の存在は、ただ自身の劣等感を刺激するだけの存在でしかなく、ひたすら目障りだった。
かつて『過去』の世界では、実の娘でなくともお前は我が子だと抱きしめてくれた父も、心なしかクレミアを贔屓しているように感じる。それは、今日の執務室の一件でも明らかだった。
あの女の執務は手放しで褒め称えるくせに、ナタリアの出す案件はすべて却下される上、クレミアと比較されミスを論う。
あまつさえ、宰相や大臣、果てにはメイドから下級兵士に到るまで、王宮内の殆どの人間が彼女を評価し、ナタリアを陰で嘲笑うのだ。
「……ルーク……っ!」
何もかもが思い通りにいかない現状の辛さからか、いつしかナタリアは、かつての己の婚約者を呼んでいた。もっとも、それがどちらの『ルーク』を指しているのか、彼女自身も分からなかったが……。
そして翌日。何処か暗い表情で、ナタリアは昨日と同じ、インゴベルトの執務室へと向かっていた。
昨夜、就寝前に尋ねてきたクレミアからの使いのメイドが、何とか父の機嫌が収まったことを伝えに来てくれたのだ。
『謝罪をすればきっと、陛下も貴方を許してくださるでしょう』と書かれたクレミア直筆の手紙に、ナタリアは(何故私が謝らなくてはならないのです?!)と憤りかけたものの、流石にこれ以上インゴベルトを怒らせるのは拙いと考え、こうして執務室へ足を運んでいる。
とはいえ、矢張り納得はいかない。自然、足取りは重くなる。
──父はクレミアばかりを贔屓して、自分に辛く当たる。きっと母によく似た彼女に誑かされているのですわ──。
そんな思いが、ナタリアの中には存在していた。
「……、……。………………」
執務室の前へと辿り着き、その扉をノックしようと手を上げたナタリアはその時、部屋の中から聞こえてくるその声に、思わず手を止めていた。
父のものと、クレミアのものと、ファブレ公爵や数人の腹心達のもの。
ナタリアは無意識に息を潜め、中の様子を窺う。
「……ですけれど、父上。それでは幾らなんでもナタリアが哀れです。王族に生まれた女の務めとはいえ、あまりにも……」
「クレミア、お前は優しすぎる。実の妹とはいえ……心無い侮辱を受けたのはお前なのだぞ?」
「陛下の仰る通りです、殿下。それに今はまだ形だけの政務だけとはいえ、このままではナタリア殿下は取り返しの付かない失策を犯しかねません。ならば今の内に政治の場から引き離すのも、優しさというもの」
「公爵……」
会話の内容が自分の進退に関することだと知り、ナタリアは激昂した。
だがそんな彼女に気付かず、会話は更に続く。
「ナタリア殿下は御年十七。直にクレミア殿下も御結婚なさるのですし、別に不都合は御座いませんでしょう」
「私の場合は幼い頃からの友人が婚約者だから良いのです。けれど、見も知らぬ殿方の下へ嫁ぐのは、可哀想ではないかしら……」
「殿下はナタリア様に甘すぎますぞ。恐れながら、宮中にはあの方に不満を持つものも少なくはないのです。不満が大きな問題となる前に、然るべき地位の方へ降嫁して頂くのが双方のためかと」
──降嫁、しかも見知らぬ相手と?!
憤りが頂点へ達していたナタリアは、大臣の発言に居ても立っても居られず、感情に身を任せて扉を開け放った。
突然の乱入者にぎょっと目を見張った彼らは、現れたのが当のナタリアだと知ると、途端に目を吊り上げる。実際、彼女の取った行動はあまりにも非常識であり、礼儀に欠けた行為だった。
彼らの怒りなど露知らず、ナタリアは子供のように喚きながらインゴベルトへ近付く。
「お父様! どういうことですの、私が降嫁などと!!」
乱入、しかも会話を盗み聞くなどと、とてもではないが王家の娘がすることではない。
己の礼儀知らずを棚に上げて騒ぎ立てるその姿に、インゴベルトは思い切り顔を顰めた。
「殿下、幾らなんでも無礼でありますぞ!」
「お黙りなさい! 私は王女ですのよ!」
加えて、身分を盾に場違いな強権を振りかざす始末。慌ててクレミアが「止めて頂戴、ナタリア!」と叫ぶが、効果は無かった。
「酷いですわ、お父様! 私は何も間違ったことなどしていないではありませんか! ありもしない咎で私を追いやろうなどと!」
「……ナタリア」
昨日、あれだけ言ったにも関わらず、自身の未熟さを自覚していない様子の彼女に、インゴベルトはほとほと愛想が尽き果てる。
たとえその血筋が疑われていようと、十七年もの間共に過ごしてきた愛娘だ。呆れはしても、見捨てることなど出来はしない。だがこれでは、自分やクレミアが許しても、臣下達が失望するだけだろう。
絶好調で墓穴を掘り続ける彼女に、クレミアもフォローの言葉などなく、ただ俯くしかない。
そして其処へ、ナタリアは最大級の爆弾を投下する。
「──そもそも、私にはルークという婚約者が居るではありませんか!!」
……その瞬間、室内は静寂に包まれた。
居た堪れなさに下を向いていたクレミアも、顔を顰めていたインゴベルトも、あれだけ怒りを露にしていた公爵や大臣達すら、口を閉ざした。
そうして沈黙と視線を集めることになったナタリアは、何故彼らが自分を凝視するのかが理解出来ず、「な、何ですの?!」と叫ぶ。その声で我に返ったらしい、クレミアが、何やら顔を引き攣らせて問いかけた。
「……ナタリア……その、…………貴方は何を言っているの?」
「……え?」
「……これはこれは、驚きましたな。我が息子ルークと殿下が婚約などと……父である私の与り知らぬ所で、いつそのようなことが決まったというのか」
思いがけない話の流れに、ナタリアは困惑する。『過去』において、『ルーク』は彼女の婚約者だった。遡ってきたこの世界でも当然そうだろうと考えていたから、調べることすらしていなかった。クレミア、というイレギュラーが既に、かつての『過去』と『今』の違いを示唆していたというのに、だ。
ファブレ公爵の拒絶から、漸くそのことに気付いたナタリアは、目に見えて狼狽え始めた。
「そ、その、私はただ、勝手な降嫁など……」
何とか言い訳を探すものの、だが一度口にした失言は、取り消すことなど出来ない。
「陛下、ナタリア殿下は少しお疲れの様子。暫くの間休んで頂いては……?」
「……ふむ、そうだな」
ナタリアの意思など関係無くとんとん拍子で決まっていく状況に、口を挟もうとするが、その度に冷たく睨まれては黙るしかない。
かくしてナタリアは、あっという間に政務から遠ざけられ、半ば軟禁されるように王宮の奥へと追いやられてしまった。
何をするにも監視を付けられ、文句を言えば「国王陛下の命令です」とあしらわれる。生活面での不自由はまったく無いが、閉ざされた其処は最早、箱庭の世界でしかない。奇しくもそれは、かつての『過去』におけるルークの状況に酷似していた。
唯一違うのは、それが彼女の自業自得であること、そして──毎日のように国王から齎される婚姻話から逃げ回っていることだろうか。
この婚姻相手が、まだ年の若い容姿もそれなりの者であれば、また話は違ったのだろう。だが何処から漏れたのか、執務室でのナタリアの発言が、気が付けば貴族達の間で広まっており、真っ当な家柄の者達は「我侭放題で妄言が酷く、その上血筋も怪しい娘など、誰が受け入れるものか」と誰もが首を横に振った。
そして残ったのは、色々と酷い噂の耐えない放蕩者であったり、家柄だけがまともな貧乏貴族であったり、インゴベルトよりも年上の男性であったり、とてもではないが婚姻相手に選ぶことなど出来ない者達ばかり。恋や愛、結婚に夢を見ていたナタリアにしてみれば、耐え難いことだろう。
「どうして、どうして……っ!」
悲憤の涙を流すナタリアは、気付かない。此処はかつての『過去』ではなく、そしてかつてと同じ『世界』などではないのだということを。
──そして我が身を振り返ることなく、嘆いてばかりの彼女は、静かに表舞台から姿を消していくこととなる。
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